いつか魔法少女だった日々に
生きていくことは、忘れていくことなのだと、誰かが云っていた。
本当にその通りだと思う。
だって、わたしは今、そのことを強く噛みしめているから。
昨日、わたしは夢を見た。
夢の中のわたしは、まだ一〇歳の女の子で、未来なんていうのは、遠く星空の彼方の出来事みたいに遠くて、目の前の今を精一杯楽しむのに夢中で。
雪みたいに真っ白なドレスを身に纏って、先っぽに星飾りをつけたステッキをタクトのように振るって、同じような格好をした色違いの仲間たちと帚星さながらに光りの尾を引き夜空を駆けて、右肩の上には魔法の世界からやってきたという小さな妖精を乗っけて。
魔法世界からこっちにやってきてしまったモンスターを捕まえようと空の上で追いかけっこしたり。
街中で迷子になって困っている男の子を魔法の力で助けてあげたり。
悪さばかり企んでいるけど、どこかコミカルで憎めない魔女をこらしめたり。
毎日が騒々しくも楽しくてしょうがない。そんな、魔法少女の夢を見た。
「夢、か……」
そう、夢だ。だけど、ただの夢じゃない。だって、その夢の内容は、いつか本当にあったことなのだから。
「もう、一〇年になるんだよね……」
閑散とした公園を通り抜けながらのつぶやきは、まるでため息みたいだった。
昨日夢に見るまで、久しく忘れてしまっていた。かつて自分が魔法少女だったということを。
「セプテム、マジカル……ええと、続きはなんだっけかなぁ……」
あのころ、算数の九九よりもよほど暗記できていた呪文も、今となっては思い出すことすらできない。漢字の読み書きよりもずっと得意だった魔方陣の書き方も同じだ。
もしかしたら、はじめからそうやっていつかは忘れてしまう契約だったのかもしれないし、あるいは、ただ単に頭の隅にしまいっぱなしにしたままわからなくしてしまっただけなのかもしれない。
どちらにしろ、覚えていたはずのことを忘れてしまったという事実は、頭上に広がる鉛色の寒空と相まって、わたしの気持ちを寂しくさせていた。
冴えない空模様だ。天気予報によると、一一月の今日は初雪が降るらしい。
そういえば、あの妖精さんと出会ったのも一〇年前の今日――初雪の日だった。
ひらひら舞い落ちる冬の精に混じってあの子はわたしのところにやってきて、そして契約を結んでくれて、つかの間の魔法少女としての日々がはじまったのだ。
「ねえ、妖精さん。あなたの名前ってなんていったかしら?」
わたしはふと立ち止まり、曇り空に向かって呼びかけた。名前どころか、妖精さんのシルエットさえ今はもうおぼろげだった。
季節は移ろい、時は流れる――。
現在という時間は、いずれ必ず過去になり、新しい現在によって押し流されてどこかへいってしまう。
――わたしは今日、二十歳になる。
あれからちょうど一〇年。魔法少女だった日々はもはや遠く、一〇代にもさよならを告げて、わたしは少女から大人へと変わろうとしていた。
「わたしは、ちゃんと大人になれますかね?」
再び空に呼びかけてみても、当然返答はない。公園の真ん中にある広場はシーンと静かで、わたし一人だけが、落ち葉に彩られた石畳の上にたたずんでいた。
「ここはちっとも変わらないなぁ」
このこぢんまりとした公園はちょうど街の中心に位置していて、何か事件があったときは、いったんここに集合するのがわたしたち魔法少女仲間の決まりごとだった。
……最後にみんなで集まったのはいつだったろう。たしか、高校生のころだったような気がする。
「あはは、わたしったら、それぐらい思い出せなきゃだめじゃないですか」
そうやって、おどけて自分の頭をコツンと叩いてみても、
「相変わらず忘れっぽいな」
と、男の子みたいにケラケラ遠慮なく笑ってくれるあの子もいなければ、
「そんなことないよぉ」
と、とろけそうな声で優しくフォローしてくれるあの子もいない。
「ぶりっこ……」
と、チクリと刺すようなことをボソボソ云ってくれるあの子も、
「もう、しっかりしなさいな」
と、お姉さんみたいに叱ってくれるあの子もいない。
みんながそろって一緒だったのは中学校までで、高校に進んでからは二人がそれぞれ別の学校に通うようになって、それからさらに時間の流れた今となっては、地元に残っているのはわたし一人だけ。
もちろん、今でもみんなのことはかけがえのない親友だと思っているし、会えば話も弾むのだろうけど、ここ最近は時々メールをやりとりするだけの関係が続いている。
……本音を云えば、ちょっとだけ寂しい。
もしかしたら、いつかはみんなのことも忘れてしまうのだろうか?
「大学も卒業して、就職して働きはじめて、日々の忙しさに追われるようになって……、時を重ねるうちに、どんどん新しい思い出が積み重なっていって……」
そうして、魔法少女だったころの記憶のように、ある日ふと夢に見るまで、みんなのことを思い出せなくなる。
「けど、それが大人になるってことなんだよね」
いずれすべてが思い出へと変わってしまうのだろう。毎日がお祭りだったあの日々を夢に見る夜があっても、わたしは現在を、そして未来を生きていかなくちゃならないのだ。
ドレスもステッキもなくて、空を自由自在に飛ぶ魔法はもう使えないから、自分の足をしっかりと地面につけて。
「ありがとう……さようなら……」
わたしは胸一杯の想いで告げる。いつか魔法少女だった日々に感謝を、そしてお別れを。
そのときふいに、わたしの頬に何か冷たいものが触れた。
「ああ、冬がやってきたのね」
上に向けたままだった視線が、今年はじめての雪を観測する。鉛色の空は明るくなんかないけど、舞い落ちてくる冬の精たちは、いつ目にしても素直に美しかった。
そうやって見とれていたわたしの頭上を、なんの前触れもなく、まったくもっていきなりに巨大な円形の影が覆った。
「あれは、そんな、まさか……」
その影には見覚えがあった。でっかいバルーンに兎の耳をつけたようなまんまるの姿は、昔わたしたちを散々手こずらせてくれた魔法世界のモンスターに間違いない。
まん丸のモンスターは、地上で立ち尽くすわたしになんか目もくれず、重量感のあるぷにぷにした動きで、何かから逃げるように空の上をピョンピョン跳ねていく。そして、その後ろを追いかけるようにして、数条の光が空にカラフルな線を引いていた。
「あれ、わたしたちだ……」
そうつぶやいて瞬きをした次の瞬間には、すべて元通りに戻っていた。冬の精が見せてくれた幻としか思えない、ほんの一瞬の出来事だった。
「でも、見たよ。わたしには、たしかに見えたから」
あの日のわたしたちが、眩しく輝きながら空を駆けていった。
「うん、大丈夫……。わたし、頑張ってるよ……」
励ますように背中を押された気がして、自然と涙が溢れてくる。悲しさや寂しさだけじゃなく、懐かしさだとか嬉しさだとか、何種類もの感情が入り交じった一言では説明できそうもない涙が。
わたしはどうしようもなく歩き出したくなって、コートの袖で目元をゴシゴシ拭うと、そのまま前へと足を踏み出す。
一歩一歩、未来へと足を踏み出す。
すると、タイミングを合わせたかのように携帯電話のメール着信音が鳴った。たしかめてみると、メールは一通だけではなく複数あり、どの文面にも「ハッピーバースデー」の言葉があった。
「まったくもう、みんな律儀だなぁ……」
再び目元を拭いながら、わたしは歩いていた。少女から大人になったわたしは、真っ直ぐ前を向いて歩いていた。
生きていくことは、忘れていくことなのだと、誰かが云っていた。
本当にその通りだと思う。
けど、それは悲しいこと、寂しいことばかりではないと信じたい。忘れてしまったからといって、なかったことになるわけではないと信じたい。
すべては現在に、そして未来に繋がっているのだから。
思い出はいつだって胸の中にある。
わたしが、いつか魔法少女だった日々も――。