そのまま怒ってろ
バチンッ
エウリュナの悲鳴の次に山に響いたのは乾いた音だった。
ウサギの罠にはまり、気を失いかけたヘルミオーネの頬をエウロスがいきなり平手打ちにしたのだ。
「何をなさるのです!」
叩かれたヘルミオーネよりも早く反応したのはエウリュナだった。
しかし、鋭い眼光を向けられてもエウロスは気にも留めない。
「気を失わせるな!そのまま身体を固定しておけ!」
エウリュナにそう怒鳴ると、ヘルミオーネの足元に回り、自分のシャツの袖を切り取って裂き、罠に挟まったヘルミオーネの華奢な足に強く巻きつけた。
「痛いっ」
男の力で強く縛りあげられ、あまりの痛さにヘルミオーネは思わず悲鳴をあげた。だが、エウロスは、謝るどころかその開いた口の中に切り裂いた残りの布を詰め込んだ。
「お嬢様に何を…!」
再び睨むエウリュナを無視してエウロスはヘルミオーネに向かって怒鳴った。
「それを噛んでろ!舌を噛むぞ!」
ヘルミオーネの足を挟む罠に手を掛けたエウロスの身体全体に力が入る。自分の口に布を突っ込まれたのは、作業に失敗してもう一度挟まれた時のための対策だということを理解したヘルミオーネは、エウリュナに視線を向けて、微かにうなずいた。
大丈夫だから、と。
エウロスの行動は実に迅速かつ正確だった。
罠を取り去ったあとは、ブーツを脱がせ、傷の具合を確認し、ヘルミオーネの身体をエウリュナから受け取り、エウリュナには先に戻ってベッドの用意をしておくように指示をした。
その早い指示には隙と迷いというものがまったくない。
エウリュナが急ぎ足で山を下っていくのを確認したエウロスは、大きく息を吐いてからヘルミオーネにこう告げた。
「父親に丈夫なブーツを作ってもらった礼をするんだな」
その口ぶりから察するに幸いにして傷は浅いらしい。
「ありがとうございます」
丁寧な口調で礼を言ったヘルミオーネにエウロスは何も答えず、ただ、自分の肩に手を廻すように言うと、ヘルミオーネを軽々と抱き上げた。
「痛むか」
その言葉にヘルミオーネは首を振って答えた。
実際に足は痛むが、不安など何もなかった。エウロスの手当は迷いがなく、この逞しい腕の中は安心感さえ漂う。
この人は上辺だけの人ではない。それが分かる今は怒る気も起きない。
エウロスに守られて山を下りながら、ヘルミオーネはこの時、自分を手当するために破いた袖から覗く、深く長い大きな傷跡を見つけた。
「あの、痛くないの?それ」
思わずそんなことを聞きたくなるほど、それは大きかった。
「そうだな、見た目以上に重いから響くな」
エウロスの口調は冗談まじりだったが、ヘルミオーネは肩に掴まる指に力を込めた。
「ごめんなさい」
その弱くて柔らかい声を聞いたエウロスはプッと吹きだした。
「おいおい、やけに弱気じゃないか。傷は大したことない、いつものように睨んでろ」
「……でも」
そんなこと出来る訳はなかった。
「この傷はとっくに治ってる。じゃなきゃ狩りなどしない。気にすることではない」
「でも、ごめんなさい。迷惑かけて…その、重いのでしょう?」
人を抱えて山を下る。簡単なことではないはずだった。
「まぁな、でも、もう少し、ふっくらしていると抱き心地もいいんだが、痩せすぎてるな」
山に入る前なら、この言葉だけで、失礼だとヘルミオーネは怒りに心を染めていただろう。しかし、今ならわかる。この人は元気付けようととしてくれているのだと。
「……わるかったわね…」
ヘルミオーネはそう言いながら広い肩に頭を乗せた。すっかり足手まといの自分が情けなくて涙が滲み、それがエウロスのシャツを濡らす。
「そうやって怒ってた方が似合ってるよ」
「笑ってる方にして」
慰められるなんて悔しい、とヘルミオーネは思う。
「見たことないからな」
エウロスはヘルミオーネの情けない思いさえも吹き飛ばすほどの大声で、山中に木魂を響かせながら大笑いをしたのだった。
ヘルミオーネを抱いたままラケイナの家まで帰ったエウロスは、そのまま用意されたベッドの上にヘルミオーネを寝かせた。
「骨には異常なさそうだし、止血も利いて出血もひどくはない。幸いにして罠に毒も塗っていないようだから、大事はないとは思うが、医者に見せた方がいい。それから今夜は熱が出るだろうから、水の用意を」
ヘルミオーネは、エウリュナに指示をし、ベッドからそうそうに立ち去ろうとするエウロスの腕を掴んだ。
「あの、お礼を」
エウロスには世話になりっぱなしだ。
しかし、エウロスは何かに期待して振り向いたのではなく、呼ばれて振り向いたそれだけだった。
それでも、腕を掴むヘルミオーネの顔がよほど不安そうに見えたのか、フィッと安心させるかのように顔の筋肉が緩んだ。
「大事にならなくてよかった。その内顔を見に来るよ」
言葉と同時にヘルミオーネの額に当てられた手は大きくて、そして温かい。
「……でも…」
もう、いいだろ。そう言いたげにエウロスの手がヘルミオーネから離れた。
「今日はもう休んだ方が良い。そのうち医者もくるだろう。私の出番は終わりだ」
ついにベッドからも離れ、エウロスは、部屋の出口へと向かった。その後を見送るためにエウリュナが急いで追っていく。
なんだか素っ気ない。
ヘルミオーネの胸の中を初夏だというのに、秋風のような乾いた風が吹いていく。
どうしてなんだろう。
初めて会った時は、失礼な人だと忘れることができなくて、今は、もう少し話していたいと思う。
いつでも、どんな感じだろうが良くも悪くもエウロスのことを考えてしまう。
(私は彼のことを何も知らない。あの傷跡のことも聞けなかった)
エウロスは様子を見に来るといった。そうしたら聞いてみよう。
どこに住んでいるのか、普段は何をしているのか、どうして弓を扱うのが上手いのか、そして、あの傷跡はどうしたのか。
ヘルミオーネは自分の身体が熱くなるのを感じた。
エウロスのいう通り、今夜は熱が上がるかもしれない。
だから身体が熱いのだ。目頭が熱いのも、頭がボンヤリするのも、心の中がフワリとするのも。
きっと、傷からくる熱のせい。
でも、どうして体の奥底に冷たい風が吹いているような気がするのだろう。
そんなことを思いながら、ヘルミオーネは瞳を閉じたのだった。
果たして、エウロスが言った通り、ヘルミオーネの傷は軽く、怪我をして三日ほどは微熱が下がらず周りを心配させたが、それを過ぎれた今は、少し足を引きずるものの元気を取り戻していた。
しかし、ヘルミオーネは、屋敷に帰る気など一向に起きず、静養と称してテラクロに居座っていた。
心配して矢継ぎ早に送ってくる父母の催促にもかかわらず、ここを動かないのは、様子を見に来るといったエウロスがこないからだ。
ラケイナが言うには元々頻繁に見かける顔ではないらしい。
「そのうち見えますよ」
とエウリュナは笑うが、ヘルミオーネは落ち着かない。気が付けば窓の外を見ている自分に気が付くのだ。
なによ、あんな人。顔を見に来るっていったのに。
来るのかどうなのかさえ分からない相手を待っている方が馬鹿らしいと思うのだ。でも、何かに引かれる気がしてここを動きたくないと思う。
屋敷に帰ってラコニアの相手をするのが嫌なのではない。この怪我は彼を遠ざけるいい口実になるはずなのだ。
なのに、ここを離れようと思わず、気が付けば窓の外を見ている。
「お茶がはいりましたよ」
ラケイナに言われ、ヘルミオーネはエウリュナの手を借りながらダイニングの椅子に座った。
「傷は痛みますか?」
「いいえ、大丈夫」
お茶の香りを楽しみながらヘルミオーネは答えた。
本当はもう、手を借りずとも歩くことさえできる。
「エウロス様はいらっしゃいませんね」
ラケイナに言われ、カップを持ったヘルミオーネの小指がピクリと揺れた。
「どうせ、忘れているのよ。あんな人に『様』なんていらないわ」
強がってみせても、誰よりもヘルミオーネがエウロスを待っていることは、誰の目にも明らかなことだった。




