怒りと興味と
テラクロについたヘルミオーネは、馬を繋げると、家の中には入らずに、外の水飲み場へと向かった。
山から流れる夏でも冷たい伏流水は、乾いた喉を潤し、同時に冷やしてもくれる。
深呼吸をしてから空を見上げれば青い空。山には緑。髪を揺らすのは気持ちのいい初夏の風。
水だけではない。どれもヘルミオーネの心を癒やしてくれるものだ。
上手く気持ちを切り替えることが出来るなら、冷静に考えることもできるだろう。
と、思ったところで、ヘルミオーネの脳裏に黒い髪がそよいだ。
そうだった、会いたくない相手はここにもいるのだった。
(でも、村の人ではないなら、会うこともないでしょうし)
が、縁とはこういうものだろうか、ヘルミオーネは、再びエウロスと顔を見合わせた。
それも、因縁のリンゴの木の下で。
「この間は、失礼いたしました」
とりあえず、ヘルミオーネは、エウロスの前でお礼のお辞儀をした。ヘビから守ってもらったことの礼も満足に言えなかったことも苛立ちの原因の一つだったからだ。
とはいえ、怒りが収まらなかったと思われるのも口惜しいと、今ようやく思い出したとでもいいたげな素振りを装った上で、だが。
「へぇ」
そんなヘルミオーネをエウロスは、腕を組みながら、意外そうに少しだけ首をかしげた。
背も高いエウロスは、物理的にヘルミオーネを見下す位置になるが、その尊大に見える態度が貴族の娘として大事に我儘いっぱいに育てられてきたヘルミオーネの癇に障る。
「なんですの?」
あとは無視を決め込めばいいだけだというのに、ヘルミオーネの腹の虫が再び蠢きだす。
この男にはどうしても反応してしまう。それは何とも口惜しい。
「別に…この間とは打って変わって、しおらしいな、と思っただけだ」
その言葉は、ヘルミオーネの耳には、嫌味ったらしい、というより、小馬鹿にされたように聞こえた。
が、ここで、大声を上げたら益々相手の思う壺だ。大きく息を吸って、気持ちを落ち着かせる。
「助けていだたいたのは、本当のことですから」
そう、それでいい。こちらが落ち着いていれば、相手も突っかかってはこないだろう。多分、これで上手くいく。どうにか心を落ち着かせたヘルミオーネの目に、エウロスが持っている弓が止まった。
この間は気が付かなかったが変わってる、と思う。今、狩りの主流は銃だ。たとえ趣味であっても弓で獲物を狙うなど一昔、いや、ふた昔前の昔話の中でしか聞いたことがない。
「…あの…」
話したくないと思う。このまま下がってしまえばいい。だが、気になる。
「何か?」
幸いにして、エウロスの返事は嫌味に満ちてはいなかった。
「その、弓…弓で狩りを?」
ヘルミオーネが問うと、エウロスは自分が背負っている弓を振り返った。
「ああ、これ。そう。私は狩りには銃を使わない」
「どうしてですの?」
銃の方が射程距離も長い。獲物を射止めやすいはずだ。
「あれは大きな音を立てるからな、無粋だ」
それは美学、とでも言えばいいのだろうが、常識からは少しズレた返事だった。しかし、ヘルミオーネは面白い、と思った。
「…無粋…ですか」
「狙っている獲物だけを捕えればいい。他の生き物を大きな音で驚かすことはないからな」
確かに銃は大きな轟音を山中に響かせる。
では、この人のいう無粋ではない狩りとは、どんな狩りなのだろう。
「あの」
ここから先は、興味本位のままに口から出てしまった言葉だった。
「私もついて行っていいでしょうか」
こんな厭味ったらしい男になんてことを自分は言うのか、ヘルミオーネは後悔をした。
が、興味もある。気晴らしもしたい。
頭の中の大きな二つの渦をどうやって整理しようかヘルミオーネ自身にも見当がつかない。
しかも幸か不幸か目の前のエウロスの反応は、口端を少し上げただけで、嫌そうには見えない。
どうしようか。
その時、背後で草を踏む音がした。どうやら家に戻ってこないヘルミオーネを気にしてエウリュナが様子を見に来たらしい。
「…ヘルミオーネ」
少し心配そうな声を発するエウリュナの声を聞いて、ヘルミオーネは閃いた。
「エウリュナと一緒に…いかかですか?」
二人が相手ならば、この男の口も態度も少し謹むかもしれない。
「…へぇ…」
腕を組んだエウロスは、少し顎を上げ、ヘルミオーネから視線を離すことなく、笑みを見せた。
その顔は、興味深そうだった。
「お邪魔ですか?」
「邪魔にならないわけはないが、いいだろう。ただし、そんな長い服装では山の中は歩けない。それが呑めるならとういことにしようか」
たかがスカート、されどスカート。足を見せるなど上流の女性のすることではなく、はしたないことだ。しかも貴族の娘が男のようにズボンを穿いたとなれば、それだけで噂の素だ。
いつものヘルミオーネはここで引き下がっただろう。
だが、今日は少し違っていた。
吹っ切りたいものが大きすぎた。
「わかりました。少しお時間をいただける?」
ヘルミオーネは、そう答えたのだった。
長い髪は編みあげて帽子の中に隠し、エウリュナの父親から借りた服はダブダブだ。長い革製のブーツは、足に合っているが、その他の服が粗末なだけあってその丁寧な作りのブーツが返って浮いてしまっている。
そんなどこかちぐはぐな出で立ちで現れたヘルミオーネたちをエウロスは大笑いで出迎えた。
「笑ってもらって結構です。おかしいのはわかっています」
ブスッとしながら答えたヘルミオーネだったのだが、心の奥底では、長いスカートと違って随分と動きやすいことを気に入っていた。だから失礼なエウロスの態度もさほど気にならない。
「では、行こうか。お嬢さんたち」
中々止まらない笑いを噛み砕きながら、エウロスは歩き始めた。
長いこと馬に乗るだけあってヘルミオーネは貴族の娘としては体力がある方だ。しかし、山道を歩くとなると、少し勝手が違う。
すぐに息が上がり始める。
しかし、目の前のエウロスは、振り返りもせずに黙って歩いて行ってしまう。
なんて、優しさの欠片もないの。
公園でのラコニアは、いつでもヘルミオーネに歩幅を合わせてくれていた。なのに、この男は声の一つもかけず、前をスタスタと行ってしまう。その差は開く一方だ。
何てやつ。
ついて行きたいと言ったのはヘルミオーネだ。待ってほしいなどと口が裂けても言いたくない。
「大丈夫ですか?」
息が上がるヘルミオーネにエウリュナが心配そうに声を掛ける。
「平気」
そんなわけがないのは、その息遣いだけでもわかる。だか、エウリュナは黙って、そっとヘルミオーネの背中を後ろから支えた。
小言の一つも言わずに。
「ありがとう」
そう言った先で、エウロスが立ちどまっているのが見えた。
荒い息を吐きながらも近付くと、ヘルミオーネたちを振り返って「シッ」と唇に指を当てた。どうやら獲物を見つけたらしい。
出来るだけ息を殺しながら、尚もエウロスに近付いていくと、エウロスが背中をやや反らして、弓を引き始めた。
きれい。
その姿勢の美しさにヘルミオーネの目は釘付けになった。
弓矢と身体が綺麗な十文字を作り、それを支える下半身は硬い台座のように微動だにしない。
しかも、エウロスの言った通り無粋な音はでない。山に響くのは弓を引くキリキリという緊張の音だけだ。
エウロスの厳しい目から光が放たれた、と思ったのと同時に弓矢がその大きな手から離れた。
ヒュンと空気を鋭く切りながら矢は力強く真っ直ぐに飛び、消えていった視線の先でドスンと鈍い音が響く。
命中したようだ。
獲物は野ウサギだった。一本の矢で急所を射抜かれたそれは、木の根元に作られたアナグラの前で弓矢が刺さったままで力なく倒れていた。
「見事ですね」
ヘルミオーネよりも先にエウリュナが声を発した。それに反論することなど誰にも出来ないだろう。それほど見事な腕前だ。
(銃が無粋だと言うわけだわ)
それは感動に近かった。
何かエウロスに声を掛けたい、とヘルミオーネは思った。
失礼な人だと思っていたことを謝りたいとさえ思った。
思わず足がエウロスに向かう。
その時。
「だめだ、止まれ!」
大きな音が無粋だと言ったエウロスの大声が山に響いた。
「……え?」
その声に驚いて顔を上げたヘルミオーネだったのだが、足だけは草の中に踏み混んでいた。そのとたん……。
カシャーン。
金属の鋭い音が山に響いた。
ヘルミオーネの身体が傾く。
「お嬢様!」
エウリュナの悲鳴が山に轟く。
それからヘルミオーネの目に見える物は、スローモーションのように流れていった。
驚いて目を剥くエウロスの顔が見えて、木の幹が見えて、空が見えた。
身体がエウリュナの手に支えられたと思った時、視線が下に向いた。茂る草の先、そして、自分のブーツに食い込む鋼のワナ。
ああ。
そこで、ヘルミオーネは自分の身に何が起きたがようやく理解が出来た。
自分は草むらの中に仕掛けられたウサギのワナに嵌ったのだと。
「お嬢様!!」
もう一度、泣いているようなエウリュナの声が山に響いた。




