恋の予感を求めて
「ラケイナは元気だった?」
パイを持って屋敷に帰ったヘルミオーネを、母は笑みを作りながらエントランスで出迎えてくれた。
「ええ、お母さま。とても…」
お辞儀をしながら母に笑みで答えたヘルミオーネの片頬がピクリと動いた。どうやら昼間の怒りは収まっていないらしい。
母は、そんなヘルミオーネの疲れを労い、広いエントランスを並んで歩いた。
「ああ、そうそう、エルミオーネ。今日ね、ヘイラー様のお屋敷での舞踏会のお誘いをうけたのよ」
いつものヘルミオーネなら、ここで、ニコリと笑って「楽しみだわ」と話を合わせたに違いない。しかし、今日のヘルミオーネは、少し違っていた。
螺旋階段の手すりに指を掛けながら、少しうつむいたのだ。
「お母さま、申し訳ありません。今日は少し疲れてしまって。明日にしてもよろしいかしら?」
いつも歯切れのいい言葉を発するヘルミオーネがうつむくなんて疲れ切っている証拠だと思ったのだろう。母は、少し驚いた表情で「ええ」とうなづいた。
しかし、母の推察も間違いではない。本当にヘルミオーネは疲れていたのだ。体が怠いわけではなく、自分の感情の起伏に疲れた感じだ。
あの失礼な男。人を小馬鹿にして、思い出すだけでも腹が立つ。
しかし、一方でヘビから守ってくれたことは確かで、それに対して満足に礼も言えなかった自分にも腹が立つ。
従って、余計に疲れるというわけだ。
部屋に戻ったヘルミオーネはすぐにお湯を使った。
たっぷりの湯で身体を綺麗にあらって、全てを洗い流してしまいたかった。しかし、どういうことか上手く切り替えられない。
「眉間に皺が寄ってますよ?」
ベッドに入る前の仕上げにエウリュナに髪にブラシを入れてもらっていたヘルミオーネは、自分の指で眉間を押さえた。
「そんなことないわ。もう、忘れたもの。これは少し疲れただけ、ええ、ほんの少しだけね」
その言葉は、強がり、というよりも希望に近かった。貴族でないなら、もう会う事もないだろう。忘れてしまえばいいと思うのだ。なのに、そう思うと、あの洗いざらしの髪と皮肉しか出てこなそうな唇が頭に浮ぶ。
つまりは、忘れることすら出来ない。
「そうですか、ではお疲れなら、しばらくテラクロには行かない方がいいでしょう。万が一、馬から落ちたりしたら大変ですし」
クスクスと笑うエウリュナをヘルミオーネは鏡越しに睨んだ。
疲れただの、腹が立つだの言っていても、しばらくすればテラクロへ行きたいと言い出すであろうヘルミオーネのことをエウリュナは分かっているのだ。
だから、余計にあの安息の地にあんな男が現れたことが腹が立つのだ。
「もう、いいわ、ありがとう。明日はゆっくり休むわ」
こんなに苛立つことがあるなんて。とりあえず心を落ち着かせたい。
ベッドの中に入ったヘルミオーネは、あの憎たらしい男の笑みから自分の身を守るように、掛布の中に頭まですっぽりと潜ると、ギュッと強く目を閉じた。
翌日、昼近くになってベッドから起き上がったヘルミオーネを待っていたのは、高価なレースを惜しみなく使った淡いエメラルドグリーンの新しいドレスだった。
「ああ、よかった。昨日は顔色も悪そうだったから、行けるかどうかわからなかったのだけれど、大丈夫そうね」
にこやかな父と母に勧められるがまま、新しいドレスに袖を通したヘルミオーネは、大きな姿見の前に自分の姿を映した。
「思ったとおり、あなたは色も白いからよく淡い色がよく映えるわ。夏らしくて涼しげでいいわ」
夏らしくて涼しげ。確かにそうだ。最近では軽いドレスを好む王妃様のお蔭で以前に比べればずっと楽に着られるようになった。
でも、それでも、重い、とヘルミオーネは鏡の中の自分を見つめた。
誰の為にこんな豪華で贅沢なドレスで着飾るのだろうか。退屈を隠すためだとしたら、なんと大袈裟なことだろう。
「どうしたの?気に入らない?」
優しい母の声でヘルミオーネは、我に返った。
「ううん、そうじゃないわ。とても素敵。レースも綺麗」
「そうでしょう?仕立屋で見つけたの。この頃、どんどん珍しい外国のレースが入ってくるのよ。迷ってしまうぐらい沢山ね。戦争が終わって交易もさかんになって、本当に嬉しいわね」
母はそういって、感慨深そうに胸に手を当てた。確かに母の若い頃は、こうしてレースの柄で迷うなどという余裕はなかっただろう。それは、ヘルミオーネにも理解が出来ることではある。
「ヘイラー様のお屋敷には何時ぐらいに出かけるの?」
綺麗なドレスもレースも嫌いじゃない。でも、これを着るのは好きではない。
そして、そんな風に思っていることを母に知られたくない。ヘルミオーネは自分の本心を笑みで隠した。
「そうねぇ…7時ぐらいには伺いたいわね。今日は賑やかになるそうよ」
ヘイラー男爵家といえば、華やかなことを好む未亡人が仕切っている家だ、人が集まるということは、母が期待するところの恋があるのかもしれない。
7時ということは、あの退屈な男も来るかもしれない。
勇ましい『盾に絡まる二匹の赤いヘビ』の紋章を掲げた豪華な馬車に乗る、退屈そうな男、アレウス・ゼノン。
あんな綺麗過ぎるほど身なりを整えた男なんてつまらない。
私はもっと、自然で、それでいて……。
そう思ったヘルミオーネの頭の中に昨日の洗いざらしの頭がパッと浮かんだ。
「やめて」
頭の中の姿をかき消そうとして、思わず口から出た言葉を押さえこもうと、ヘルミオーネは口を押えたが、それはあまりにも遅すぎた。
「ヘルミオーネ?どうしたの?」
鏡には不安そうな母の顔が映っていた。
「いいえ、何でもないわ。お母様。あんまりドレスが素敵で、なんだか胸が落ち着かないの」
いけない、とヘルミオーネは思った。舞踏会で恋をして素敵な貴公子に望まれることこそ幸せだと疑わない母を不安に貶めてしまう。
「まぁ、ヘルミオーネったら、なんて可愛らしいこと。でも、そうね。こんなにドレスを綺麗に着こなす令嬢なんか他にはいないわ、ねぇ?あなた?」
母が振り向いた先で椅子に座る父も、嬉しそうに笑みを見せた。
「そうだな、きっと、ダンスの申し込みが殺到するぞ?」
二人で笑い合う両親に合わせて笑みを作りながら、内心、ヘルミオーネは何とか誤魔化せたと息を吐いた。
なによ、あんな奴は、自然体でも何でもないわ。もう名前も忘れちゃったんだから。
中々落ち着かない自分の心に、ヘルミオーネは、少し呆れたのだった。
色とりどりの美しいドレスに、流れるような音楽。甲高い笑い声にむせ返りそうな香水の香り。
ヘルミオーネがヘイラー男爵家に到着した時、すでに大広間は人でごった返していた。
こんな場所で恋を見つけたお母さまは凄いわ。
一通りの挨拶を済ませたヘルミオーネは、そうそうにバルコニーへと退散した。ダンスは苦手でも嫌いでもないが、むせ香る香水には酔ってしまいそうだ。
「あら、珍しいこと」
そんなヘルミオーネに後ろからかかる声がった。同い年でしかも同じ子爵令嬢のティマイアだ。
「どうしたの?いつもは寄りつかないくせに」
ティマイアは、時折、教会のバザーなどでよく顔を合わせる関係で割と仲はいいのだが、華やかな場所を好むティマイアとは性格も好みもまるで違う。
けれども、ヘルミオーネにとっては仲のいい友人だ。
「深い意味はないけれど、タマにはいいかな、と思って」
「まさか、あなたもアレウス様狙い?」
ティマイアの瞳がキラリと輝く。と、いうことは、ティマイアはアレウスと恋に落ちたいらしい。
「人気があるのね、そんなに素敵な人?」
まったく、どこへ行っても…とヘルミオーネは思う。しかし、ティマイアはウンザリ顔のヘルミオーネに安堵をしたらしい。
「そりゃあ素敵よ。背も高いし、着ている服だってセンスもいいし。それにダンスも上手よ」
「踊ったんだ?」
ヘルミオーネの言葉にティマイアは残念そうに眉を落としてうつむき加減で首を振った。
「競争率高くて」
なるほどね、あの退屈男は少なくとも自己を装うだけの技を持っているらしい。
「それはそうと、ヘルミオーネ、ちょうどよかったわ。明日、あなたの家を訪ねようと思っていたのよ」
でも、すぐにティマイアは気を取り直した。
「何かあったの?」
「美味しいベリーのジャムをいただいたの。ベリー、好きだったでしょう?」
確かにベリーはヘルミオーネの大好物だ。昨日まで…いや、一昨日か。ベリーに罪はないが、嫌な顔がついてくる。
しかし、ここで気分を乱すのもあいつに踊らされているようで面白くない。
「そうね、大好きよ」
ニッコリ笑って、頭の中の洗いざらしの頭を追い出す。
「よかった、じゃあ、明日」
ティマイアがそこまで言ったところで、二人の間に二つの手が差し伸べられた。
「よかったら、ダンスを」
「まぁ」
アレウス狙いのはずのティマイアの瞳が輝く。恋の予感に。
ヘルミオーネも負けじと作り笑いをして、差し伸べられた手を取った。恋の予感を感じたのではない。一曲踊ったら、帰ろうと思ったからだ。
ダンスを踊ったら一応の予定は終わる。母のがっかりした顔も見ることもない。
作り笑いの陰で何分で音楽が終わるか、などと母が聞いたら卒倒するようなことを考えながら、ヘルミオーネは、優雅に音楽が流れる広間へと向かったのだった。




