なんて、失礼な
たっぷりのバターと新鮮な卵を使った生地に獲れたてのフレッシュなベリーを使った手作りの艶のあるベリーパイ。
それを木陰の下でおしゃべりしながら食べたのなら、音楽もドレスもいらない。むしろ、そんなものは邪魔になってしまう。
鼻歌を歌いながら、ベリーを獲っていたヘルミオーネだったのだが、早起きの疲れが出てきたのか、持っていた籠がいっぱいになったところでファと欠伸をすると、目を軽く瞬かせた。
眠い、少し休もうかしら。
ラケイナの裏庭、といっても、子爵家のように建物に囲まれているわけではない。ヘルミオーネは敷地を囲う低い柵をドレスの裾をなびかせてヒラリと跨ぐと、リンゴの木陰に身を寄せた。
きれい。
空を見上げると、リンゴの葉が日差しに透けながら風に揺らめいている。街中では味わえないその小さな動きは感動さえもヘルミオーネに与える。
ここにいると嫌なことをすべて忘れることができる。
ヘルミオーネは幹にもたれて座ると、ベリーが入った籠を膝に抱きながら、目を閉じた。風の音は音楽のようで、鳥のさえずりはおしゃべりのようだ。
すると、心が落ち着くのと同時に眠気が襲ってきた。何しろ、起きたのは夜明け前だ。
昼ごろ起きるのが貴族の習慣からすると、楽しみのためとは言えど早すぎる朝といってよかった。
ちょっと、だけ…。
その後、ヘルミオーネは自分でも何を考えていたのかは知らない。気持ちのいい風に吹かれて、フワフワと漂うような気持ちのいい心地の中を泳いでいただけだ。
でも、誰かに呼ばれた気がして、目を開けると、幹にもたれていたはずの身体が、草の上に横になっていた。どうやら寝ていたようだ。
「動くな」
現実のこの声は、エウリュナでもラケイナでもなかった。もっと低い、男の人の声。だが、父でもない。
言われたとおりに、身体は動かさず目だけ動かして声の方向を見ると、馬の足だけみえた。
綺麗。
きちんと手入れをされた馬。もっと見たい。
そう思ったヘルミオーネが頭を動かそうとした、その時。
「動くな、といったろうが」
ヒュン、と視線の先を細く長いものが素早く通り過ぎた。
「え?」
思わずヘルミオーネは目を見開く。眠気のためにぼんやりとしていた頭の中がそれによって一気に晴れ渡った。
「誰?」
横たえていた身体を起こしてよく見てみれば、目の前には馬に乗った男がいた。身なりは質素で少なくとも貴族には見えない。それに…ヘルミオーネはすぐに視線の先を男が持っていた矢に目を向けた。
「呑気なものだな」
襲われる、ととっさにヘルミオーネは思った。馬に乗り、しかも武器を持った男に素手で敵うわけがない。
「…なんですって?」
それでもなんとか、強気な声を発したヘルミオーネだったが、軽い身のこなしで馬を降りた男には身を縮ませた。さっき、顔のすぐ前の走っていったのは、男の持っている矢に違いない。
今度はその矢は自分の胸に刺さるのかもしれない。
男の大きながっしりとした体躯が自分の方へと動く。
怖い。
とっさに肩をすくませて身構えたが、男の手は、ヘルミオーネの身体を超えて、幹に刺さる矢を抜いた。
「見て見ろ」
木の幹から抜かれた矢じりはヘビの頭を貫き、そこから一筋の血がタラリと流れている。
「キャッ」
そのヘビを前に、ヘルミオーネは思わず、後ずさりをした。が、幹に阻まれ下がることができない。しかし、男は怯えるヘルミオーネを楽しむように、矢が突き刺さった蛇をすぐ目の前に突き付けた。
「ヘビに狙われているのも知らずにうたたねとはいい身分だな」
助けてもらった、確かにそうだ。しかし、モノのいい方というものがあるだろう。
ヘルミオーネは目の前の男を見た。改めてみたその姿は、短い髪が洗いざらしのままに風に吹かれ、身なりは貴族のように着飾ってはいないが、粗末というものでもない。農夫でもなさそうだ。
しかし、そんな身なりよりもヘルミオーネには気になることがあった。切れ長の鋭い目が、明らかに自分をからかっていることだ。
「礼はいいます。けれども、女性に対してそれは失礼というものではありませんか?」
相手に負けじとヘルミオーネは睨んだ。すると、相手は「おっ」と意外そうに眉を上げて短い声を出して、頭を矢に貫かれたヘビをひっこめた。
「ああ、失礼。呑気な娘だと思っていたが、そうでもないようだな」
からかわれるのも面白くないが、その口調はもっと面白くない。ヘルミオーネは不機嫌を隠さず眉根を寄せ、目を細めた。
「何ですって?失礼なのはそちらでしょう。誰も助けてくれなんて頼んでいません」
男はヘルミオーネから体を離すと、「へぇ」と腕を組んだ。
「さっき、キャッ、なんて言ってなかったか?」
「言うわけないでしょう」
ヘルミオーネが睨み付けると、男は、大きな口を開けて笑い始めた。しかもお腹を抱えて。
なんて、失礼な男だろう。
これほど手荒に扱われたことがないヘルミオーネは怒りの目をそのまま男に向けた。すると、さすがに悪いと思ったのか、男は大きな手で口を覆って何とか笑い声を止めると、改まってヘルミオーネの足元へ膝をつけた。
「ああ、これは失礼したようだ。私の名はエウロス。あなたの名は?」
「お前のような失礼な者に名乗る名などありません」
ヘルミオーネは、フィと横を向いた。
すると、エウロスは、再び笑い始めた。
「これは気の強いお嬢さんだ。これからの季節は生き物の動きも活発になる。せいぜいクマにでも襲われないように気を付けるんだな」
そういうなり、再び馬に跨ったエウロスをヘルミオーネは睨みつける。
「ああ!なんて失礼なの。クマだなんて。あなたに言われる筋合いなんかないわ」
しかし、馬上のエウロスは笑うばかりだ。
「心配しなくても、肉のない貧弱な身体のお嬢さんを狙うようなクマなんかいないさ」
声高に笑うエウロスについにヘルミオーネは遂に立ち上がった。
「なんですって?失礼にもほどがあるわ!」
真っ赤になって怒るヘルミオーネにエウロスは怯むどころか余裕の笑みを向けるばかりで、その洗いざらしの黒髪に帽子を乗せると、笑いを止めることなく、ヘルミオーネに向かって馬を尻を向けた。
「じゃあな、勝気なお嬢さん。どこかで会えるといいな」
「二度と会いたくないわ!」
力の限り、叫んだヘルミオーネだったが、その怒りは、エウロスの笑い声を止めることさえできなかった。
しかも……。
「誰よ、あの男!」
出来上がった大好物のパイを目の前にしてもヘルミオーネの怒りは収まることがなかった。
「誰って、いいましても」
しかも、この土地に住んでいるラケイナにも心当たりはないらしい。
「ちらりと後ろ姿を見ただけですけど、貴族…というわけではなさそうでしたね。地主…にしては若すぎるようですし…」
エウリュナも首を傾げるばかりだ。
「そういえば、丘の向こうの地主のご子息が王都から帰ってきたとかなんとか…。その方でしょうか?」
「ああ、そんな感じの身なりでした」
どうにか思い当たった二人が同時に顎に指を当てたところで、ヘルミオーネが力いっぱい机を叩きつけた。
その衝撃でカップがガチャンと音を立てて揺れ、中に入ってたお茶がテーブルに零れた。
しかし、ヘルミオーネは構わない。
「誰でもいいわよ!あんな失礼な男。今度会ったら、叩きのめしてやる」
ヘルミオーネの怒りは、それこそ頭から湯気が出そうなくらいだったのであった。