ひっくり返る
初めて会った時は、怒りしか湧かなくて…でも、忘れられなくて。逢えばドキドキと胸が高まるようになって、逢いたくて、逢えなくて、寂しくて、辛くて。
今は……。
もう、何だかわからない。
日を追うごとにその不可解さは大きくなっていく。
もし、今度エウロスの顔を見たら、何て思うのだろう。逢いたかったと思うのか。それとも……。
「お嬢様、お茶が入りましたよ」
エウリュナに声を掛けられ、ヘルミオーネは顔を上げた。膝の上の本は、読み始めた時から1ページも進んでいない。
「ありがとう。エウリュナも一緒にいただきましょう?」
「いいのですか?」
「一緒にいただいた方が美味しいもの」
二人で向かい合って座りながら、にこやかにお茶を飲む。以前と変わらない日々。
「お母さまは?」
「お出かけになりましたよ?お茶会に呼ばれたとか」
社交界の噂は移ろいやすい。あれほど話題を独占したティマイアのことも今ではほとんど話題に上ることはない。閉じこもりがちだった母もこのところ出かけるようになり、前と同じ明るさを取り戻している。
しかし、だからといって、ティマイアの消息はあれから全く聞こえてこず、両親も表には出てこない。元に戻ったというより、なかったことになっているのだ。
「…お茶会…」
嫌な予感がする、とヘルミオーネは思った。ティマイアのことがあってから、母は舞踏会に行こうと誘わなくなったが、お茶会に出かけたのならば、招待状の一枚も貰ってくるというのは、いつもの習慣というよりほんの挨拶のようなものだ。
案の定、母は、舞踏会の招待状を持って帰ってきた。
しかもヘルミオーネに必ず行くように、と言いつけた。
「だって、伯爵夫人のお誕生日なのよ。挨拶しないわけにはいかないわ」
「でも…」
行きたくない。
エウロスに期待や望みを持っているわけではないが、新しい出会いなど考えたくもない。
しかし、母は、引き下がらない。
「ダメよ。いつまでも塞ぎ込んでちゃだめなのよ。誰も望んでいないわよ、そんなこと」
誰も…それは、はっきりと言わなくてもわかる。ティマイアのことだ。
母の言いたいことはわかる。しかし、そんなにうまく切り替えられないのが気持ちというものだ。深く、深く、思っていた分、余計に。
「行きたくない」
母が出て行った部屋で、長椅子に座ったヘルミオーネはうつむいて、大きく息を吐いた。およそ苦労を知らなそうに整った眉間に深い皺が刻まれている。
「けれども、奥様のおっしゃることも……」
その膝元でエウリュナは、そっと、ヘルミオーネの手に触れた。
「分かっているの。頭の中では、お母さまのおっしゃることもわかっているのよ。こんなことしていてもティマイアは喜ばないわ」
「……お嬢様」
一瞬、エウリュナは、眉根を寄せ、何かを言いかけたが、すぐに口を閉ざした。そのまま、ヘルミオーネも口を閉ざし、しばらくは無言のままで時が流れたが、やがて、エウリュナの手に重ねられたままのヘルミオーネの指がピクリと揺れた。
「…そうだわ」
同時にヘルミーネは顔を上げる。
「…お嬢様?」
嫌な予感がすると思ったのはエウリュナの方だった。なぜなら、その輝く瞳は、子供の頃、悪戯を思いついた時、そのものだったから。
「あなたが、私の代わりに舞踏会へ行ってくれない?」
「へっ」
重ねられていた二人の手が離れ、エウリュナは驚きのあまり、声が裏返ってしまった。
「だって、体格は同じなんだから、サイズは平気なはずよ。それに今日は新月だから、お化粧も工夫をすればきっと、お母さまにもわからないわ」
確かに月がなければ、外は暗い。ダンスフロアも昼間のように明るいわけでもない。ドレスと髪型と化粧で誤魔化しが出来ないとはいいきれない。
「何をおっしゃっているんです?ダメですよ。今日は……」
「だって、行きたくないの。遊ぶのも遊ばれるのも、もう…たくさん。でも、今日は伯爵夫人の顔をつぶすわけにはいかないわ。だから───」
「冗談にもほどがありますよ?これからどうするおつもりなんです?」
「ここにいられなくなったら、修道院へ行って神の花嫁にでもなるわよ」
「何をおっしゃって……」
立ち上がったエウリュナを追いかけてヘルミオーネも立ち上がった。そして、逃げるエウリュナの手をヘルミオーネが掴んだ。
「お願い、エウリュナ。嫌だって言えるのはあなただけなの。私の願いを聞いて」
一粒、ヘルミオーネの涙がこぼれた、と思ったとたんに、堰を切ったように真珠のような大粒の涙が次から次へとこぼれていく。
「……お嬢様…それ、反則ですから」
困ったことに、その涙にエウリュナは、勝てたことがなかったのだった。
結局、後で行くからとエレア夫妻を先に送り出し、エウリュナは、ヘルミオーネのドレスに袖を通した。そして同じ化粧を施すと、確かに面差しはヘルミオーネによく似た姿となった。
「それなら絶対バレないから」
と、すっかり気をよくしたヘルミーネは、手を叩いて喜んだ。
エウリュナは眉間に皺をよせ、小鼻をピクつかせながらも、その声に押されながら馬車に乗る事になったのだった。
「どうなっても知りませんからね」
という言葉を残して。
そして、そのエウリュナの捨て台詞は、ヘルミオーネの頭の上にとんでもない爆弾を落とすことになるのである。
第一波は翌日に早速やってきた。
「ああ、なんて素敵なバラなのでしょう」
真っ赤な赤いバラを抱えた母が、今までに見たこともない笑みとともに部屋にやってきたのである。
「……お母さま、それは何?」
ヘルミオーネは、そのバラの贈り主に心当たりがない。
「何を言ってるの?昨夜の舞踏会で、あなたはゼノン家のご子息とそれはそれは息の合ったステップを踏んでいたそうじゃないの。見たかったわ」
「…なんですって?」
冗談にしても聞きたくない話だった。行きたくないとエウリュナに身代わりを頼んだのに、どうしてこうなるのだろうか。
思わず立ち上がったヘルミオーネを母は上機嫌な顔で振り返った。
「こんな深い色のバラ、そうそうに手に入れられるものではないわ。さすがは王の信任熱いゼノン家のご子息というところね」
「でも……お母さま…私は…」
そのゼノン家の子息が気にった相手はエウリュナだ。だから、バラはエウリュナのものだ。
「ふふ、ディナーの招待状も入っていたわよ?よほど気に入られたのね」
しかも第二派として、母の笑い声に釣られたのか、父も上機嫌で部屋に入ってきた。
「聞いたぞ!ヘルミオーネ、ゼノン家から招待状が届いたそうじゃないか」
「そうなんですよ。あなた」
本人そっちのけで手を取って喜び合う両親にヘルミオーネは、頭を抱えそうになった。
なんてことだ。よりにもよって、なぜに退屈男が出てくるのか。
ヘルミオーネの指が震えた。他の男だったら、まだ、マシというものなのに。
「やめてください、お父さま、お母さま」
それは、自分でもびっくりするほどの大きな声だった。
「…ヘルミオーネ?どうしたの?」
「そのお話、お断りします」
静寂は部屋を支配し、キョトンとした両親の目が同時に瞬いた。
「何を言っているのだ?ゼノン家だぞ?侯爵だぞ?こんないいお話、どうして断るのだ」
「だって、嫌です、あんな────」
あんな男の傍にいたら、自分も一生退屈して過ごさなければならない。それなら神の花嫁のほうがずっと、いい。
しかし、父はヘルミオーネの声をかき消した。
「何を言っているのだ。わがままは許さんぞ!侯爵家の縁が出来れば我が家にどんな誉れをもたらすことか。わからぬ子供ではないだろう!」
いつにも増して父の厳しい声だった。恐らく今までで一番の。
「まぁ…あなた、ヘルミオーネが嫌だといっているのに、無理に勧めるのも……」
母がそう取り成しをしても、父は引き下がらない。
「今まで、わがままに育てすぎたようだ。貴族の娘に生まれた以上は、責任というものがある。この縁談は潰すわけにはいかない」
父の一喝は、母を黙らせた。しかし、ヘルミオーネは黙らない。
「…でも」
実際には、ダンスを踊ったのはエウリュナで、気に入られたのもエウリュナだ。
だから、行くべきはエウリュナなのだ。
「でも、ではない。まだわからないのか!」
「…あなた、大きな声で」
父の声は母も震えるほど大きかったが、ヘルミオーネもそれに負けじと大声を張り上げた。
「だって、昨日の舞踏会は私の身代わりにエウリュナに行ってもらったのですもの。気に入られたのはエウリュナですわ」
「なんだって…?」
父も、そして母も、娘の言葉に目を剥いた。そして、天を仰いで倒れそうになった母を父がすばやく支える。
しかし、ヘルミオーネは怯まない。自信たっぷりに言葉を続ける。
「そうです。変わってもらったのです。ですから、息の合ったステップも赤いバラもディナーもエウリュナのものです」
「本当なのか?」
父の怒鳴り声がドアの傍で控えていたエウリュナに向かう。
「なんてことをしたのだ!こんなことしてタダですむと思うのか!」
それまで、頭を下げて黙って聞いていたエウリュナだったのだが、そこでようやく頭を上げた。
そして、ゆっくりと余裕を持って笑みを作り上げ、ゆっくりと口を開く。
「旦那様。お嬢様は照れてらっしゃるのですよ」
「エウリュナ、あなた!」
今度はヘルミオーネは目を見開いた。
「昨夜のお嬢様は、大変美しかったですから、ゼノン家のご子息であるアレウス様も見逃さなかったのでしょう」
エウリュナの言葉に父も母もホッとしたように肩の力を抜いた。
しかし、今度はヘルミオーネの口が開いたままだ。
「まったく、人騒がせな」
「本当ですよ。心臓が止まると思いましたよ」
再び手を取り合う父と母の後ろで、エウリュナはニコリと微笑み、ヘルミオーネに向かって口だけを動かした。
「ですから、どうなっても知らない、と申し上げました」
ヘルミオーネに返す言葉はなかった。




