無邪気な笑み
夕方、時計きっかり5時。
ヘルミオーネは、自分の部屋の窓のカーテンに手を掛けて、外に目を向けた。
屋敷のすぐ下を流れる運河の向こうの通り、その道を一台の馬車が通っていく。
その馬車の頂点に飾られるのは『盾に巻きつく二匹の赤い蛇』の紋章。ゼノン家の紋章だ。
毎朝同じ時間に馬車はこの道を通り、王宮へと向かう。そして、毎夕、同じ時間にこの道を通る。
そして、馬車から覗く顔も時間と同じように決まって酷く退屈そうに頬杖ついた横顔。
今をときめく貴公子、アレウス・ゼノン。
あんなに退屈そうなくせに、と窓辺に立つヘルミオーネは思う。
本当は花嫁なんて見つけたくないんでしょ?結婚なんかしたくないのでしょう?。そんな男に恋焦がれるなんて、馬鹿げてるわ。
ヘルミオーネは、少し乱暴にカーテンを閉めると、窓に背を向けた。
あんな退屈な男と結婚しても退屈な毎日が待っているだけに違いない。
でも、ヘルミオーネは知っている。
自分も同じなのだ。退屈な日々だと分かっていてもいつまでもこんな風に自由に過ごせないことぐらい。
分かってるもの。
ヘルミオーネが後ろ手にカーテンを握りしめながら、うつむいて唇を噛んだ、その時。
「ヘルミオーネ、いて?」
ドアが優しくノックされ、少女のように透き通る美しい高い声が響く。ヘルミオーネの母、エレア子爵夫人のオレスティアだ。
「お母さま」
カーテンを握る指に力が入る。
軽い足取りで部屋に入り、オレスティアは、窓辺に立つ娘、ヘルミオーネを見つけて微笑む。
「今日のピアノの音は素敵に響いていたわよ?あなたの音は、いつ聞いても多彩で楽しくなるわ」
娘であるヘルミオーネと同じ、暗い色の髪に茶色の瞳、そのせいで少し暗いイメージを持ちがちなティーバ特有の容姿を持つ母は、そういってヘルミオーネのピアノの音色を褒めた。
「ありがとう、ございます」
和やかな母に対して、ヘルミオーネは、少し心が緊張するのが分かった。母に向かってではない。母の背後で、侍女たちによって運び込まれた物を見て、だ。
退屈な日々へ招待状。
ヘルミオーネは笑みを浮かべながらも心の中でつぶやく。
「新しいドレスが出来上がってきたのよ。仮縫いをしないとね」
小さな滑車のついた衣装掛けに吊り下げられて運び込まれた幾枚のドレスは、どれも初夏の装いに相応しく、涼しげなレースで飾られ、シルエットも膨らみを押さえたシンプルなデザインになっている。
もっとも、今のティーバでは、王妃フレイアがシンプルなデザインのドレスを好む為に、冬でも以前のように堅苦しくないものが流行しているのだが。
にこやかな顔の母は、その中の一枚、白地のドレスを手に取ると、ヘルミオーネの身体に当てて、試着を促した。
「ずっと前にね、お見かけした王妃様のドレスがとても素敵だったの。ホラ、こんな風に後ろにレースのリボンがついていてね」
娘の為にドレスを選んだはずの母の瞳が輝く。まるで自分の娘時代に戻ったように。
その瞳を見るたびにヘルミオーネの心は少し痛む。ヘルミオーネはこんな素敵なドレスをみても少しもときめかないのだ。
「そうね、とても素敵なドレスだわ」
ドレスに興味がなくても母の少女のように輝く瞳を見るのが好きなヘルミオーネは、笑みを見せてドレスが気に入ったと褒めた。少し笑い方が硬かったかと気になったが、母は気が付かなかったようだ。
「そうでしょう?ヘルミオーネには似合うと思っていたの。これを着たらきっと素敵な方があなたを見初めてくれるわよ?」
素敵な方、それは、アレウス・ゼノン?ヘルミオーネはそう心の中でつぶやく。王都中で噂になっているアレウスに見初めらることを母もきっと望んでいるのだろう。
でも、私は嫌。あんな退屈そうな男。
私が好きになる人は、太陽の下で明るい笑みを見せてくれる人。お世辞や作り笑いなんかしない人。
そうやって大きな声で叫べたら、とヘルミオーネは思う。しかし、貴族の娘としては自由に育てられたヘルミオーネでも口にしてはいけないことぐらいはわかっている。
「そうね、次の舞踏会が楽しみだわ」
華やかな衣装に、煌めく灯り。優雅に奏でられる音楽。楽しいおしゃべりに素敵な貴公子との恋。
舞踏会。小さな頃に何度も母に聞かせてもらった場所。女の子の夢はすべてそこに詰まっている。
でも、知ってる?お母様。
ヘルミオーネは心の中でつぶやく。
王都中の乙女の噂を独占している素敵な貴公子は、本当はあんな退屈そうな顔をしている男だってこと。恋なんか全然、興味ないのよ。
本当のことを言ったら、母はどんな顔をするだろう。
「豊かな髪にヘイゼルの瞳。ヘルミオーネは、誰よりも素敵だわ」
白い手で優しく娘の髪に触れる母を見ながら、ヘルミオーネは心の中で首を振った。
誰よりも夢見がちで乙女のように無垢な母に、そんな事は言えない。
だって、お母さまは、きっと、私も舞踏会で素敵な貴公子と巡り合うと信じてる。
そう、自分が夫となった父と巡り合ったあの頃を重ねて。
「お母さま。ドレス着てみてもいいかしら?」
分かってる。ちゃんと「素敵」な貴公子を選んでみせるわ。
恋をするかどうかはわからないけれど。
本心を隠してニッコリと微笑んだヘルミオーネは、新しいドレスに着替えるべく、衣裳部屋へと向かった。
戦争をしている頃は、出かけることなどほとんどなかった父や母だったが、近頃では、出かけない日の方が珍しい。
この日もヘルミオーネのドレスの仮縫いが終わった母は、父と伴って、どこぞの貴族の屋敷へと出かけていった。きっと今宵も遅いのだろう。
「ふふ、インゲンのスープ」
ドレスの仮縫いをしていた時のとは全然違う晴れやかな顔でヘルミオーネは、ダイニングのテーブルについた。
大きなダイニングテーブルにたった一人分の食事。もはや見慣れた光景だ。
「エウリュナも一緒にいただきましょうよ」
そんな食卓にヘルミオーネは侍女のエウリュナを誘った。
「だめですよ。私なんか」
いくら一緒に育った乳姉妹と云えども、ヘルミオーネとエウリュナは、使従の関係だ。同じ食卓につくことは常識ではない。しかし、ヘルミオーネはそんな垣根を軽々と越えてしまう。
「だって、せっかく作ってもらった美味しいスープだって、一人でいただいても味が落ちてしまうというものだわ。大丈夫。あなたはマナーもきちんとしてるし、お母さまも許してくれるわ」
確かにそうだろうと、エウリュナは思う。一人娘に甘いエレア子爵夫妻は、咎めたりはしないだろう。むしろ、侍女のはずのエウリュナにマナーを教えたのは、こういう娘の我がままを許すためともいえる。
「はぁ…では…」
エウリュナは、大きな白いエプロンを外すと、しぶしぶといった風情でヘルミオーネの向かい側の席に座った。すぐさまスープが運ばれたところを見ると、エウリュナ以外の召使いは、すでに織り込み済みだったらしい。
「ああ、美味しいわ。自分が手伝ったと思うと格別」
ゆったりとした、実に貴族の一人娘らしい優雅な仕草でスープを飲みながら、ヘルミオーネは、子どものように無邪気に笑う。
「ええ、まぁ…そうですけど」
確かにそうだ、とエウリュナもうなづかずにはいられない。エレア家お抱えのシェフ腕は確かだし、インゲンは新鮮だっただけあって非常に味もいい。が、嫌な予感がする、とエウリュナは思った。それは、小さな頃からヘルミオーネに仕えて来たエウリュナにだけは判る予知のようなものだ。
そして、それはすぐに的中した。
「ね、ね、明日は、予定もないし、出かけましょう。お母さまやお父さまにもこんな新鮮な食事をいただいて欲しいわ」
「…え?…」
うまいことを言う、とエウリュナは内心、顔をしかめた。常々、上辺だけの笑みが集うなんてつまらないと舞踏会を嫌うヘルミオーネだが、こういう言い回しをさせたら天下一品だ。
けれども、エウリュナは、今日の一日がヘルミオーネが憂さ晴らしをしたいほどのことがあったのは知っている。
そろそろ婚期を迎える年頃のヘルミオーネが、どんな理由で両親がドレスを用意したか気が付かないはずはない。そもそも、今夜の子爵夫妻のお出かけもそれに関係ないとは言い切れない。
恵まれているけれども、自由がない。それが貴族に抱くエウリュナの素直な感想だ。
「ええ、楽しみだわ」
目を輝かせる主人を目に、エウリュナは本日、幾度目かのため息をついた。
明日の朝は早い…早く休まないと。
この美味しいインゲンの代償は、意外に高くつく。
エウリュナは、楽しげな主人を前にそう思わずにはいられなかった。




