それぞれの想い
その日、ヘルミオーネは、ラケイナの家に泊まっていくことに決めた。
「それでね、アヒルがね…」
浮かれてる。それには自覚があった。頬がいつまでもほんのりと温かい。気が付けば明後日の方向に視線がいってしまっている。それになにより、おしゃべりが止まらない。
「私が話しかけたら返事をしたのよ?」
声がいつもよりも一オクターブ違うのではないかと思えるほど高く、一つ一つの音がスタッカートがついたように弾む。
それだけではない。ラケイナの作ってくれる素朴な料理が、何よりもごちそうに見え、ランプの光は星のように光り、部屋の中を明るく照らす。
そして、その明かりの中心にヘルミオーネは座っていた。
まるで、世界が変わってしまったようだ。
「よろしゅうございましたね」
そんなヘルミオーネにラケイナもエウリュナも笑みを浮かべる。
「あっ…信じていないでしょう」
「そんなこと言ってませんよ」
「うそ」
「本当ですとも」
部屋の中に笑顔と笑い声が溢れ出し、楽しくて、楽しくて、仕方がない。
昨日までの不安や怒りなど、もう、どこにもなかった。我ながら単純だとは思うが、身体の中のどこを探しても、そんなものはない。
酔いしれている。まさにそうだった。エウロスがくれたものにヘルミオーネは酔っていた。そして、覚めないで欲しいと思っていたのである。
そして、その夜、動物も植物もすべての生き物が寝静まったころ、ラケイナの家を抜け出す人影があった。
その影は、そのまま、ニワトリを起こさないように大回りをしながら裏庭へと向かう。
向かう先、リンゴの木の陰にも大きな影が二つ。月明かりが照らし、三つの陰に青白い光を浴びさせた。
そこに現れたのは、エウリュナと繋がれた馬、そして、エウロスだ。
「出立ですか?」
エウリュナが低い声で話しかけると、エウロスは「ああ」とやはり低い声でうなづいた。
「いつまでこんなことを続ける気ですか?」
ヘルミオーネに従っている時とは雰囲気の違う厳しい声色でエウリュナが問うとエウロスはもう一度、しかし、今度はさっきよりも少し面倒くさそうに「ああ」とうなづいた。
「お嬢様をこれ以上騙したくはありません」
「そういうつもりはないんだかな」
月明かりに照らされた顔に笑みが浮かぶ。
「でも、結果的にはそうなってます。これ以上長引かせれば傷つくのはお嬢様です」
「そうか…そうだな…だが、本当のことを知ったら何て言うかな、彼女は」
「…それは」
エウロスの近くにいつエウリュナにはその表情が読み取れたのだろう。エウリュナは少し眉根を寄せた。
「ま、いいか。元に戻るだけだ。大したことではない」
「終わったことです。忘れてもいい頃だと思います。そんなにご自分を責めることは…」
「私は忘れていないよ。自分のことも、エウリュナ、あなたのこともね」
そこまで言って、エウロスは、マントを翻し、軽い身のこなしで馬の背にまたがった。エウリュナは視線をそらさず、馬に乗った相手を見上げながらもこう叫んだ。
「私は、もう、忘れました。ですから…あなた様もお忘れください」
「忘れられると思うか?」
「それは……」
「そんなに上手くはいくまい。私も、エウリュナ、お前も」
馬の上のエウロスは、自分の傷跡が残る片腕をギュッと強く握りしめ、傍に立つエウリュナに厳しい視線を向けた。
夜が明けて、帰る準備が整ったヘルミオーネは、隣に立つエウリュナを振り返った。
「私ね」
一晩が過ぎて、浮かれた熱も下がったのだろうか。ヘルミオーネの瞳には何か強いものが宿っていた。
「ラコニア様のこと、ちゃんと断わろうと思うの」
「お嬢様、でも、それは……」
言いかけたエウリュナの口を止めるように、ヘルミオーネは手の平を向けた。
「わかってるわ。ラコニア様とエウロスとの違いぐらい。でも…それでも、断ろうと思うの」
そういうと、ヘルミオーネは、馬の背にまたがった。
太陽を背に微笑むヘルミオーネは、自信に満ち、まるで、輝いているようだ。
「…お嬢様」
その姿は眩しい。エウリュナは、目を細めた。
「だめよ、小言は聞かないわ。もう、決めたんだから」
馬の頭を王都に向けたヘルミオーネは、そう言って、手綱を強く握ったのだった。




