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待っていたもの

 待っていても手紙の返事はこず、夜は眠れず、朝は起きられない。

 どうしてこんなに弱くなったのだろう。

 ヘルミオーネは、重い身体を引きずるようにしながらベッドから起き上がった。

 部屋の中はとうに明るくなっている。もう朝とも呼べない時間だ。

 前はもっと身体が軽かったはずだ。心だってそうだった。でも、今はベッドから起き上がる事すら嫌悪感が伴う。

 ゆるゆるとだらしない動きでベットの上を這い、裾に座って顔にかかる長い髪を掻きあげたところで、部屋のドアをノックする音が聞こえた。

「お嬢様、お起きでいらっしゃいますか?」

 エウリュナの声だ。

「……ええ」

 ヘルミオーネが寝起きのかすれた声を発すると、それを合図に侍女たちが部屋に入ってきた。

「おはようございます」

 何時に起きても朝の挨拶は一つ。

 そして、朝は、コップ一杯の水から始まるのもヘルミオーネの小さな頃からの習慣だ。

 侍女が用意した水で顔を洗い、髪を整え、着替えはエウリュナに手伝ってもらう。

 日差しがやたらとまぶしく感じるのは、寝つきが悪いことの代償だろうか。

「朝食の用意ができておりますよ」

 そんなことを言われても食欲が出ない。

「ミルクだけでいいわ」

 ヘルミオーネがそう答えると、エウリュナは、着替えを手伝った侍女が部屋から出ていくのを見計らって、ヘルミオーネの前に白い封筒を差し出した。

「だめですよ、そんなことでは今度お会いした時にがっかりされてしまいますよ」

 エウリュナの目は笑っていた。

「…え?もしかして」

 渡された手紙を手に、驚きのあまりに目を見開いてエウリュナを見るヘルミオーネにエウリュナはただ、笑みを作ってうなづいた。

「今朝、母から届いた荷物の中に入っていました」

 その言葉と共にヘルミオーネは「ああ」と感慨深げに手紙を胸に押し付けた。

 待っていたのだ。声が聞けないのなら、顔が見られないのなら、せめて忘れていない証拠が欲しいと。

 ヘルミオーネは急いで手紙を開けると便箋を取り出す。

 何にも飾り気がない、質素で実用的な紙。確かにエウロスらしい。

 ………が。

 そこに入っていたのは、たった便箋一枚。しかも文章はたったの一行だった。

『元気そうでなにより。再び会える日を楽しみに』

 何度読み返しても、裏を見ても封筒の中を見直しても、書いてあるのは、それだけだ。

 どういうこと!?

 感激よりも疑問の方が沸き上がってくる。

 こっちは毎日エウロスの事を想っていたのだ。それこそ朝起きてから夜寝るまで。何とかラコニアからの誘いを断ろうと、それこそ夜も眠れずに考えていたのだ。

 それなのに。

 あの手紙だって、考えに考え、言葉を選び、長く長く便箋三枚分に想いを込めた、なのに、その返事がこれだろうか。

 これは何を意味するのだろう。

 愛情の丈?やたらと短いのは想いの長さの現れ?つまりは遊びの証明だろうか。

 母は、父と付き合っていた時、熱烈な手紙を毎日のように貰っていたと言っていた。それがとても嬉しかった、と。子爵である父とエウロスが違うのは分かっている。なのに、それを差し置いても冷たすぎるではないのだろうか。

「エウリュナ」

 ヘルミオーネ自身でも驚くほど低い声が後ろに控える侍女に投げかけられた。

「お嬢様…?」

 そのいまだかつてない声の雰囲気に、さすがのエウリュナも眉をひそめる。

「キュニスに言ってくれる?パンは種類が違うものを三つ以上用意して欲しいって。卵は特大のオムレツにして。サラダは大盛り。オレンジジュースも絞りたてにして。それからフルーツも食べたいって」

 手紙を持つ手が震えていた。こんなものを恋焦がれて待っていたのだろうか。怒りがヘルミオーネを支配していき、その結果として空腹を教える。

「え…?そんなにたくさん?」

 手紙の内容を知らないエウリュナは、ハトが豆鉄砲を食らったかのような顔だ。

「ええ、そうよ。お腹が空いたの」

 このヘルミオーネの言葉は、常に傍に仕えるエウリュナだけでなく、塞ぎこんでいると心配していた料理人のキュニスも驚かせたのであった。


 なによ、なによ、なによ、あんまりよ。

 口の中で食べ物が砕けるたび、ヘルミオーネは心の中で叫び声を上げた。

 傍にいる者は、無言で、しかも無表情で豪華すぎる朝食を次から次へと口の中に放り込んでいくヘルミオーネに驚きの視線を向けている。

 いつものヘルミオーネなら、取り繕うことをしたはずだ。表面だけでもサラリとなぞり、周りに不安を与えない。そういう振る舞いと気遣いをするのだが、今日は違っていた。そんなことはどうでもよかった。マナーなんかクソくらえだ。

 食べても食べてもお腹がいっぱいにならないのも、大好きなキュニスの料理が美味しく感じられないのもすべてエウロスのせいだ。それからもう一つ、テラクロ村へ行けなくなったのも、馬を取り上げられたのも。

 すべて、あのゲジゲジ眉のたれ目のせいだ。

 しかも何が一番腹が立つって。

 ヘルミオーネは用意されたすべてのお皿を空にすると、自室へ戻って長椅子の上に無造作に倒れ込んだ。そして、エウロスから届いた便箋を手の中でグルグルと丸めると部屋の天井に向かって投げつけた。

 エウロスの想いが籠ったはずの便箋が、シャンデリアのガラスを揺らし、それが部屋に差し込む太陽の光を反射してキラリと光った。

 何よ、こんな手紙。こんなのを待っていただなんて。

 エウロスの仕打ちにも腹が立つが、何よりも自分に腹がたつ。

 それは、自分が今でもエウロスが恋しいと思っているから。手紙ではなくて声が聞きたいと思っているから。あの逞しい腕で抱きしめて欲しいと、優しいキスをして欲しいと願っているから。

 なのに、それなのに、エウロスは冷たくて。

 目から涙が溢れだし、それが目じりから流れ出す。

「エウリュナ!」

 行儀悪く長椅子に寝転んだまま、ヘルオミーネは傍に控えているはずの侍女の名を呼んだ。

「はい…なんでしょうか」

 普段は冷静なエウリュナもこのヘルミオーネの態度に馴染めないのか、返事がおっかなびっくりだ。

「返事なんか書かないわよ。手紙が来ても受け取らないんだから!いいこと!絶対だから」

 子供のように感情をむき出しで泣きながら叫ぶヘルミオーネにエウリュナは思わず吹きだしそうになり、口を塞いだ。

 可笑しくて笑うのではない。自分の感情に忠実でなんと可愛い主人だと思ったからだ。

「…はい」

 笑いを何とか口の中で噛み砕きながら、そう返事をすると、エウリュナは、こう付け加えた。

「そうですか、では、馬はもう要りませんね」

「え?」

 長椅子の背もたれの向こうで、濡れた声が上がった。

「奥様に内緒でなんとか馬に乗れる手はずをしたのですが…お断りしてきます」

 ペコリと頭を下げ、そのまま部屋を出ようとするエウリュナ向かってヘルミオーネは「待って」声をあげた。

「本当なの?それ?」

 もう一度、問い直すと、エウリュナももう一度「はい」と頭を下げた。

「テラクロへ行けるの?」

「はい、いい馬ではありませんので、多少はいつもと勝手が違うでしょうが」

 なんてことだろうか、ヘルミオーネは急いで長椅子に座りなおして、後ろを振り向いた。

「ああ、エウリュナ、あなたって最高」

 その顔は、涙でグシャグシャに濡れていたが、笑顔を見せると顔がパッと光を放った。

「ええ、ですから、そのお顔を直さないと」

 侍女にクスクスと笑われたヘルミオーネは、慌てて両手で両頬を押さえた。

「違うわ、これは…。別にエウロスなんか…」

「そうなのですか?では馬は…」

 エウリュナはもう一度頭を下げた。

「違うわよ、エウロスに会いに行くんじゃないの。ええと…あの…そう…そうよ。ラケイナに会いに行くの。ヒヨコさんに会いに行きたいの」

「そうですね、皆、お嬢様を待っていますよ」

 素直で素直じゃなくて、可愛らしい主人に、エウリュナは、笑みを浮かべながら白いハンカチを持ってその泣き顔を直すべく長椅子に近づいたのだった。


 

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