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約束として

 昨日よりも早く家を出てきたヘルミオーネだったが、エウロスは既に木の下で座っていた。

 木には馬が繋がれてはいるが、弓を持ってはいない。

 ヘルミオーネを見つけたエウロスはスッと立ち上がった。

「どこか…行くの?」

 てっきり今日もここで話すのばかりだと思っていたヘルミオーネは、エウロスの顔と馬を交互に見ながらエウロスを見上げた。

「ああ、少し遠出をしようかと、ね」

 エウロスに立たれるとヘルミオーネは完全に見下げられる高さになってしまう。

「でも、私、何も言ってないわ」

 エウリュナもラケイナもヘルミオーネは木の下いると思っている。黙っていなくなるわけにはいかない。

「大丈夫、私が言って来たから」

「うそ、そんなこと言って」

 ヘルミオーネが来た時は、既にエウロスは待っていたのだ。そんなはずはなかった。しかし、エウロスは笑っただけで、ヘルミオーネの脇を持って、ヒョイ、と抱き上げてしまった。

「あっ…そんな…」

 抱き上げられ、二人の目線の高さが逆転した。今度はヘルミオーネがエウロスを見下げる位置だ。

「大丈夫、夕方までには帰ってくる」

 ニッコリと笑ってそう言われれば、いいのかも、と思ってしまう。

 怪我をした時のあの手際の良さを知っているからか、ヘルミオーネは、心の奥でどこかエウロスに頼っている自分に気が付いた。

 大丈夫。

 彼に言われるその言葉は、なんと安心に満ちているのだろう。

 ヘルミオーネを先に馬の背に乗せたエウロスは、リンゴの木に繋いでいた縄をほどくとすぐに自分も馬にまたがった。

 ヘルミオーネを前にしてエウロスは手綱を取る。

 守ってもらう背中が暖かい。思わず頬が緩んだ。

 二人を乗せた馬は、ポカポカとまるで人が歩いているぐらいの速度で田舎道を進んでいく。

「こんなにゆっくり乗ったのは初めて」

 エウロスに守られるように両腕に挟まれたヘルミオーネは笑う。

「さては、手綱を持つと人が変わるタイプか、じゃじゃ馬だな」

「そんなことないわ。でも、風を切るのは気持ちがいいもの」

 でも、馬の背で風に吹かれるのも悪くない。

 こうして二人で揺られて、おしゃべりして、それから…。

 そう思ったヘルミオーネの頬がポッと熱くなった。そこは、昨日、エウロスの唇が触れた場所。

 実は、夕べはこの火照りが中々消えなくて寝付けなかったのだ。

 その時、ふいに馬が止まる。どうしたのか驚いて見上げると、エウロスと視線が合った。

「あそこを抜ける」

 指した場所は、山に入り峠を抜けた、その先だ。

 テラクロにはよく来るヘルミオーネだが、実のところ、王都との往復だけで、この村から出たことはない。指さす方向には何があるのか見当もつかない。

「どんな場所?」

「何もないところ」

「だったら、テラクロでも同じだわ」

「……かもな、少し、走るぞ」

 エウロスの手綱を持つ手と身体が大きく揺れ、馬が走り出す。

 速度はヘルミオーネ自身が手綱を握っている時ほど早くはない。それでもエウロスにしがみついた。

 ドクン、ドクン、耳にエウロスの心臓の音が聞こえてくる。それは自分の心臓よりも少し早いような気がした。目を閉じて、エウロスの心臓の音と自分の呼吸の音を合わせてみる。

 同じ、エウロスと。

 その感覚は、ヘルミオーネに最上の幸福感を運んで来た。こんなに柔らかで温かな気持ちがあるのだ。

「怖くないか?」

「平気」

 そんなものあるわけなかった。だって、こうしてヘルミオーネは守られているのだから。

 やがて、二人を乗せた馬は、新緑の峠を抜けて、その先の丘の上へとたどり着いた。

「ここ?」

「そう」

 馬から降りた二人は、丘のもう少し奥へと進む。

 今日のエウロスは、ヘルミオーネを置いていったりしなかった。

 ヘルミオーネは、差し伸べられた手を取り、丘を登る。

「もういいよ」

 上まで辿りついた所で、ヘルミオーネは来た道を振り返った。

 そこに広がっていたのは、今までみたことのない景色だった。

「…わぁっ…」

 眼下に広がるそれにルミオーネは思わず声をあげた。

 広がる緑。所々にポイントのように見えるオレンジは民家の屋根だろうか。鮮やかなブルーの川は、まるで、エウリュナに借りた本に出てくるドラゴンの背のように流れを鱗のように煌めかせながらくねっている。

 美しいと言葉にすることさえも難しいほどの景色。

「明るいうちに見せないとな、と思って」

「だから、馬を走らせたの?」

「そういうこと」

 感動して高まる胸を押さえ、誰かにこの気持ちを教えたいと、もう片方の手を伸ばす。もちろん、掴んだのはエウロスの腕だ。

「素敵、何て言ったらいいの。言葉が見つからない」 

 ヘルミオーネは自分の声がひどく興奮しているのがわかった。

「きっと、そういうと思ってたよ」

 エウロスの声もとても今までにないほど楽しそうに弾んでいた。

「凄いわ。きっと、ラケイナだって、知らないわ。よく知っていたわね」

 こんなに素晴らしいのだ。知っていたら、きっと教えてくれていただろう。

「私も教えてもらったんだ。私の代わりにここに帰るはずだった奴にね」

「…それって…」

「ここを教えてくれた奴は、戦いの中で私を庇って死んだ。そして、私はこうして生き延びた」 

 生きて帰ってこなかった方がよかったかも知れない、と前にエウロスは言った。怪我で済んだとも。

 それはこういうことだったのだ。

 ……でも。

「そんなこと、言わないで」

 ヘルミオーネは、エウロスの傷跡が深く残る腕を掴んだ。

「……ヘルミオーネ?」

「私はあなたとここに来れてよかったと思ってる。連れて来てくれたのがあなたで良かったと思ってる、だから……」

「ヘルミオーネ」

 大きな手がヘルミオーネの腰と背中を包んだ。引き寄せられて、抱きしめられる。

 エウロスの心臓の鼓動が馬の乗っていた時よりも大きくヘルミオーネの耳に届く。

 この音は生きている証だ。

「そいつと約束したんだ。……たら、会わせると。だから、ここへ連れて来た」

「…え?…今…なんっ…」

 腕の中で心臓の音を聞いていたヘルミオーネは、思わず顔を上げた。

 背中を包んでいた手が、今度は頬を包み込む。それから髪の中に指を潜らせて、引き寄せる。

 エウロスの瞳が揺れている。

 昨日と同じように。

 でも、そこから先は違っていた。

 少し笑みに緩んだエウロスの唇が触れたのは頬ではなかった。

 それは、言われたことに衝撃を受けて、微かに震えるヘルミオーネの唇。

『そいつと約束したんだ。好きな子が出来たら、会わせると』

 好きな子とは私のこと?

 ヘルミオーネは自分の体温とは違うその唇を感じながら、自分の腕を、エウロスの広い背中に回した。

 重なった時には、違う体温だった唇が、徐々に同じ体温へと変わっていく。

 二人が同じ温度になった時、ヘルミオーネとエウロスはお互いの唇を離した。

「眉間に皺が寄ってるぞ、そんなに嫌だったか」

 お互いが離れたとたん、エウロスはヘルミオーネの眉の間をつついた。

 クスクスと笑うエウロスは自分をからかっているのだ。分かっていても…いや、そうであるからこそ余裕のない自分が恥ずかしい。ヘルミオーネは両頬を手のひらで押さえた。

「そうじゃないわ…そうじゃなくて…あの…」

「どうした?嫌だったら…」

 大粒の涙を流し始めたヘルミオーネにエウロスは驚いた様子でその泣き顔を覗き込んだ。

「そうじゃなくて」

 実際に唇を重ねていた時は、恥ずかしいよりも驚きに近かったのだが、遅まきながらようやく実感が湧いてきたのだ。

「…じゃなくて?」

「あの…私…びっくりして…あの…もし、嫌じゃなかったら…」

「だったら?」

「…も…も…もう…」

「もう?」

 埒が明かない話をエウロスは怒りもせずに、ただ、うなづく。

「も、も、も、も、」

「何だよ?やめてくれよ。魔法が解けて牛になるとか」

「違うの、そうじゃなくて」

 いい加減にしないとエウロスを怒らせてしまう。ヘルミオーネは、思い切って息を止めた。

「もう、も、もう、一度、して、欲しいの」

 それは声というより、囁きに近かった。

 真っ赤になってうつむくヘルミオーネを見つめるエウロスの目は笑いを堪えているようにも見えた。しかし、長い髪を撫でる手は優しい。

「いいよ、何度でも。ヘルミオーネ」

 エウロスの手がヘルミオーネの腰を引き寄せる。

 そして、ヘルミオーネが上を向いて瞳を閉じると、もう一度、エウロスはゆっくりと唇を重ねた。

 

 夕暮れ前に、二人は再び馬に乗って家路に帰る。

「そんなに忙しいの?」

 エウロスは、しばらくはリンゴの木の下には来られないらしい。

 しかし、ヘルミオーネも同様だ。もう王都に帰らねばならない。

 無意識にエウロスのシャツを掴むヘルミオーネの指に力が入る。そんな初心で素直な反応にエウロスは笑みを作ると、その額にチュッとキスをした。

「その傷が完全に治った頃には会えるよ」

「本当?」

「ああ」

 ラケイナの家の前で二人はもう一度唇を重ねた。

 再び会う約束として。



 

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