リンゴの木の下で
別れる時、エウロスは次の約束をしなかった。
けれども、ヘルミオーネは、リンゴの木の下で座っていることにした。言い訳としては「木陰で本を読みたいから」だがページが進んでも内容は一向に頭に入らず、エウリュナが面白いと言って勧めてくれた本もそんな風には到底思えない。
しかし、約束が無くてもここでなら会えるような気がするのだ。ここでしか会えないような気がすると言った方が良いのかも知れない。
しかも、ヘルミオーネの期待通り、エウロスはリンゴの木の下にやってきた。
「へぇ、ここまで歩けるようになったか」
そう言うなりエウロスは、ドカンと無造作にヘルミオーネの隣に腰を降ろした。
弓は持っていない。狩りの途中ではないようだ。
もしかして会いにきてくれたのだろうか。そう思うだけでヘルミオーネの心は少し弾む。
「どこに住んでいるの?ラケイナはこの辺では見かけないと言ったわ」
「ああ」
エウロスは自分の片方の膝を立てると、その上に額を乗せた。両腕で顔を隠すように囲い、背中を丸めて下を向いているその姿はひどく疲れているように見えた。
「疲れているの?」
「まあ…ほどほど…」
歯切れが悪い言葉だった。どうしたのだろう、とヘルミオーネが思った時、エウロスは疲れたように下を向いたまま前方の山を指さした。
「俺の家は、あっちの方向にある。ここには狩りにくるだけで、家はこの村にはない」
その指の方向は、王都の方向でもあった。だが、同時に隣の村がある方向でもある。では、ラケイナの言ったとおり、隣村の地主の息子なのだろうか。
「あのね、私……」
もっと色々なことを話したいとヘルミオーネは、エウロスに問いかけた。
エウロスが何を考えているのか、自分が何を考えているのか。
しかし、エウロスからは返事はない。それどころか微動だにしない。
その代わりにヘルミオーネの耳に届いたのは寝息だった。
信じられない。なんて人、せっかく会えたのに。
憤慨しつつもヘルミオーネは、起こさないよう無言で再び本を開いた。少し読み進めると、さっきとは打って変わってこの本がとても面白い物語に感じてきた。
(あれ?こんな話だったかしら)
ヘルミオーネは、一度本を閉じて、再び最初から本を読み始める。
強みを帯びてきた日差しを遮る木陰で、鳥のさえずりと、風の音と、それからエウロスの寝息を聞きながら。
本の中の物語は、ヘルミオーネをとても楽しませてくれた。
その翌日もエウロスはリンゴの木にやってきた。
「帰るんじゃなかったのか?」
そういいつつも、エウロスも昨日と同じようにヘルミオーネの隣に座った。
「あなたこそ寝るなら自分のベッドに入った方がいいと思うわ」
フン、と横を向きつつも、ヘルミオーネは、膝の上の本をパタリと閉じた。
エウロスと話をするために。
「…疲れてたんだ、仕方ないだろう」
幹にもたれながらエウロスはフゥと息を吐く。
自分と会っても少しも嬉しそうな顔をしないエウロスにヘルミオーネは軽い苛立ちを覚えた。
「疲れているなら、来なくてもいいのに」
我ながら可愛くないとは思う。しかし、他に言葉も見つからない。エウロスの前ではどうにも装うことが出来ない。
「ふぅん?なら、そうするが」
エウロスの余裕のある言葉にただでさえ平静を装えないヘルミオーネの顔がカッと熱くなった。
しかも、そんなヘルミオーネをエウロスは笑う。
「笑うなんて!」
「いや、飽きないな、と思って」
「からかわないで!」
泣きたくなるから。ヘルミオーネはエウロスとは反対に顔を背けた。鼻の付け根がツンとなって、目頭が熱くなってくる。
だめなのだ、エウロスの前に出ると、どうしても。
その時、肩にかかる髪がふいに軽くなった。時折引っ張られるその感覚はエウロスが髪に触れているに違いなかった。
髪に触れられる、たったそれだけなのに、胸が締め付けられるほど恥ずかしくてヘルミオーネは目をギュッとつぶった。喉の奥の奥が熱い。心臓が激しく動いたと思うと急に止まるのではないかと思うほど静かになり、止まるかと思う頃、再び大きく動き出す。
髪に指が触れられている、たったそれだけだというのに。
「……あ……」
肩が小さく震え、堪らなくなったヘルミオーネが思わず声を出すと、波が引くようにスッとエウロスの手が離れた。
同時にヘルミオーネの心も落ち着きを取り戻した。しかし今度はどこか寂しい。
そんな思いを振り切りたくて、ヘルミオーネは、小刻みに震える唇を開いた。
「そ、そんなに疲れているなんて、普段は何をしているの?」
「何って…働いているよ」
心臓の鼓動さえも抑えられないと思うヘルミオーネに対し、エウロスの声はいたって普通だった。
「仕事って、大変なの?」
「楽しいものじゃないさ。気晴らしの狩りは楽しいがな」
「じゃあ」
ヘルミオーネは振り返った。こうして私といるときと狩りとどっちが楽しい?そう言いたくて、言いかけて、そして、口をつぐんだ。
もし、狩りの方が楽しいと言われたらどうしよう。ここにいるのは、怪我をさせた責任を感じただけなのだと、言われたら。
そう思うだけで、心の中が冷たくなる。
だから、それ以上はとても聞けない。
「でも、ま、こうしているのもいいものだな。のんびりしてて」
「本当?」
考えもせずに答えてしまったヘルミオーネは思わず口を押えた。思ったことをすぐに口に出すなど行儀の悪いことだ。
抑えた口が熱い。多分、耳も赤くなっている。
そんなヘルミオーネをエウロスは声をたてて笑った。その笑顔があまりにも無邪気で楽しそうで、益々顔が熱くなる。
「面白いな、お前は」
お前、と言われて今度は反射的に眉根が動いた。
そうじゃなくて、違う。
すると、ヘルミオーネの思いが通じたのか、笑いが収まりかけていたエウロスが再び小さく吹きだした。
「ああ、失礼。ヘルミオーネ様、だったな」
「そうじゃなくて」
そんな敬称など欲しくはない。ここで座ってる時は、子爵の娘という立場は忘れたい。
「ハーマイオニーだったっけ」
なのに、あまりにも目の前のエウロスは意地悪だ。明らかにヘルオミーネを焦らして遊んでいる。
「…もう、いい、です。お前でも何でも」
知らない女の人の名前でも、と横に顔を背ける、すると再びエウロスの指が髪に絡みついてきた。
「悪い、怒るな、図に乗りすぎたな。ヘルミオーネ」
トクン、とヘルミオーネの心臓が音を立てた。まるで、身体ごと返事をしたように。
「な、ん、でしょうか、エウロス様」
でも、ここで嬉しそうに微笑んだら、なんだか負けのような気がする。
そんなヘルミオーネの気持ちをエウロスは知ってか知らずかクスクス笑いながら髪にじゃれていた指を、膝の上の本へ伸ばしていた。
「何を読んでいるんだ?」
膝の上からヒョイ、と取り上げ、エウロスはペラペラとページをめくり始めた。
「あ、はい、エウリュナから借りたの。小さな頃に読んでいたんですって」
庶民の家では本は貴重だ。古いものだが、ラケイナがとても大切にしてきたことが分かる一冊だ。
「王子様が出てくるヤツか?」
「違うわ。冒険に出るの」
「ダメだな、こんな剣では役には立たない」
「だって、それは……」
いちいち物語にケチをつけるエウロスをヘルミオーネは必死に弁解をする。
「だいたいなんだ、全てを防御するマントって…そんな便利なものがあるわけないだろう?」
「それは、魔法が掛かってるから…いいの…でも……」
ヘルミオーネはそういって、エウロスのシャツの上からそっと、傷跡を触れた。
「本当にそれがあったら良かったのにね。そうしたら、こんな酷い怪我をしないですんだのに」
「そうでもないさ」
エウロスは笑う。前と同じに、やはり少し悲しそうに。
「どうして?怪我をしない方がいいのではなくて?」
「言っただろう?怪我をしたから帰ってこれたって、だが、帰って来なかった方が良かったかも知れないと思う時もある」
「どういうこと?」
まさか、死んだ方が良かったなんていうのではないのだろうか。
「世の中は思い通りには出来てないってことさ。だが、今までの全てが揃わなければ、私はここにはいない。こうして、多分…」
エウロスの大きな手がヘルミオーネの頬を包み、髪の中へと入っていく。
「……エウロス」
ヘルミオーネが小さくつぶやくと、エウロスの口端が綻んだ。
「明日もここで、逢えるだろうか…ヘルミオーネ」
エウロスの瞳は微かに揺れていた。
「……はい」
小さな声で、だが、はっきりとそう返事をしたヘルミオーネに、エウロスは、その柔らかな頬に、自分の唇を優しく、壊れ物に触れるように、そっと、触れさせたのだった。




