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待ってる人

 待ってなんかいない。少し気になるだけ。そう、気になるだけ。

 ヘルオミーネは、エウリュナとラケイナが揃って出かけた隙を見て、ベッドから抜け出ると、足を引きずり、時折壁を伝いながらも一人で裏庭に出てると、鶏小屋を覗いた。

「ごきげんよう。ニワトリさんたち」

 ニワトリといえども世話した人間を忘れない。ヘルミオーネを見た途端に小屋の中のニワトリが忙しなく小屋の中を行ったり来たりと動き始めた。

 コケーッ…コッコッコッ…コケッー…。

 バタバタと羽根を広げながら、ニワトリたちは、先を競うようにヘルミオーネに向かって盛んに声をあげる。

 そんなニワトリに向かって、ヘルミオーネは嬉しそうに微笑んだ。

「あなたたちは私を忘れないのにね」

 世話をされたことは覚えていても、世話をしたことは忘れるものなのだろうか。

 ニワトリ小屋から離れたヘルミオーネは、裏庭の柵の向こうにあるリンゴの木を見つめた。あそこで出会う人は、名前しか知らないが、近くに住んでいるのだろうと思っていた。もしかして違ったのだろうか。

 どうにか柵までたどり着き、そこに座って風に吹かれていると、今年生まれたアヒルのヒナが足元にまとわりついてきた。

「かわいい」

 思わずヘルミオーネの頬が緩む。

 ヒナたちは風に揺れるスカートの裾にじゃれながら、盛んにピーピーと鳴き声を上げた。

 いつまでもこんな風に遊べていたらいいのに、と思う。そうしたら、このヒナたちのような無邪気に輝く瞳を持っていられるだろう。

 でも、アヒルのヒナではないヘルオミーネはいつまでもこうしているわけにはいかない。

 帰っておいでと盛んに便りをくれる両親をいつまでも無視を決め込んでいるわけにもいかず。もう使用人ではないラケイナの世話になり続けるのも限度があることぐらいわかっている。

「帰らないと」

 ポツン、と独り言を言った時だった。

「それは、いつにするんだ」

 いきなり低い声が降ってきて、ヘルミオーネは驚いて見上げた。

 いつのまに近付いてきたのか、すぐ背後にエウロスが立っていた。

「思ったよりも怪我は軽かったようだな、痛い、痛いと泣いていると思ったんだがな」

「お陰様で。順調に回復してます」

 ヘルミオーネは柵に腰掛けたまま、エウロスから視線を外して、頭をペコリと下げた。

 顔を見ずに話しをするなど失礼だと、子供の頃から教わってきたのであるが、何故かエウロスの顔がまともに見えない。

(きっと、太陽を背に立っているから)

 そう思ったのだが、エウロスが背後から前に回り、同じように柵に腰掛けても、やはり視線が合わせられない。

(違う、私はこんなんじゃない…はず)

 ラコニアに対して伏せ目で通したのは、あくまで演出だった。なのに、本当に見られなくなるなんて。

「どうした?何か悪いものでも食べたのか?」

 失礼だと言い返してやればいいのだ。

 言い返せ、言い返せ、黙ってるなんて。

 心の中でそう叱咤するが、一向に言葉は出てこず、視線はどんどん下に沈む。

「なんだ、やけに機嫌が悪いな」

 クスクスと首の後ろをくすぐるような笑い声が聞こえる。

 きっと、あの人を小馬鹿にしたような目をしているに違いない。確かめて、怒って、それから…。

「別に、機嫌など…いつもどおりです」

 自分の身体だというのに、心の叫びとは正反対に視線は上ることもなく、ただ、反対方向へと反れていっただけだった。

 心臓の音は早鐘を打っているかのように騒々しいのに、時間の流れはゆっくりなような気がする。

 鳥の声や風のさざめきはあんなに澄んだ音だっただろうか。アヒルが遊ぶ小さな池はあんなに光を煌めかせていただろうか。

 隣にエウロスが座っているだけなのに、どうしていつもとこんなに違う気がするのだろう。

 聞きたいことがあったはずなのだ。話したい事もあったような気がする。

 でも、何一つ出てこない。視線を上げることさえ出来ない。

「気持ちのいい風が吹くな、ここは」

「……はい」

 何を言っているの、私は…。なんてもどかしい。

 しかも、そのままエウロスの言葉が止まってしまった。

 風の音と、鳥のさえずりと、それから、エウロスの息遣いだけが耳に届く。

 この人はラコニアのように自分を飾ったりしないのだ、とヘルミオーネは思った。

 必要な時に、話したいことを話す。沈黙を恐れない。

 自然に…まかせるまま…。

 そう思ったとたん、ドキンとまるで何かに叩かれたような衝撃が走り、それからジーンと痺れるような余韻を残した。

 どうしたのだろう。本当に今日はおかしい。もしかして病気にでもなったのだろうか。

「…あの…」

 何とかしなければ。本当におかしいことになってしまう。

「……ん?…」

 意を決して視線だけをあげれば、目の前のエウロスは呑気に洗いざらしの髪を風に吹かせたまま、遠くの景色を見ている。

「…あの、ヘルミオーネ、です」

「…?…」

「名前、名乗ってなかったので」

 唯一、話す内容を思いついたのはこれだった。いや、これだけだった。 

「ああ、そうだったな。私に名乗る名などなかったのではなかったのか?」

 うつむく頭の上に笑い声が響く。

「もう、いいです」

 これ以上、からかわないで欲しかった。涙が出てしまいそうだ。

「ハーマイオニー…」

 何を言っているのだろう、ヘルミオーネは、ようやく顔をあげた。

 自分はそんな名前ではない。それはどこの女の人の名前なのだろうか。

 ようやく、二人の視線が合い、ヘルミオーネは改めてまじまじとエウロスの顔を見た。

 凛々しく上がった太めの眉毛、するどい視線を放つこともある目は、実は少し垂れぎみで、スッと通った鼻筋から伸びる鼻は高く唇は薄い。洗いざらしで風に吹かれっぱなしの髪はボサボサだが、不思議と不潔感は感じない。むしろ若そうに見える。しかし、25歳だというラコニアよりも少し上のような気もする。横顔だけしか知らない退屈男のアレウスに面差しのが似ている気がするが、もっと若い。それに雰囲気と表情がまるで違う。

 要するに、ヘルミオーネが知っている貴族の男とエウロスは全く違って見えた。

「…ハーマイオニーって…どなた?」

 エウロスのなんなんだろう。姉妹?それとも大切な人?

「昔、北の国との戦いに参加した。その国の言葉でヘルミオーネはハーマイオニーとなる」

 ティーバが北の国のノルドと国境を巡って戦いを繰り返していたのは、ヘルミオーネも知っている。ティーバの今の王妃フレイアは、元々はノルドの王女で、戦いの終結の証として嫁いできたのだ。

「ノルドとの戦いに行ったことがあるの?」

 あの大きな傷跡はその時のものだろうか。エウロスは瞳の笑みを消してうなづく。

「ああ、王妃様が嫁いでくる前にな」

「ハーマイオニーっていう人、いらしたの?」

 ふわっと風が下から吹き上げ、ヘルミオーネの髪を舞いあがらせた。

 しかし、ヘルオミーネは乱れる髪を押さえることなくエウロスの瞳を見つめた。

 自分と同じ名前の女の人を知っているの?

 そんな視線にエウロスは笑う。

「いや、だが、敵を知ることは大事だからな、言葉を覚えたんだ」

「その、傷…それも戦闘で?」

 ノルドとの戦いはいつもし烈を極めたと聞いている。

「まぁな、そのお蔭で俺はすぐに国に帰された。これで済んだと言うべきかな」

 エウロスの笑みは少し寂しそうだった。自嘲というのだろうか。その笑みはヘルミオーネではなく、自分に向けているようだった。

 しかし、これでヘルミオーネにはもう一つわかったことがあった。

「銃の音が嫌いなのも、そのせい?」

 無粋、そういったエウロスだが、ヘルミオーネはあえて「嫌い」という言葉を使った。

 エウロスの切れ長の目が少し見開いた。

「……カンがいいな…」

「ヘルミオーネ、です。ハーマイオニーでもないの。私の名前はヘルミオーネ」

 目に強気な光を取り戻したヘルミオーネに少し困ったような顔でエウロスは笑った。

「そうだったな」

「ヘルミオーネ」

 覚えて、とエウロスに念を送る。その心が通じたのかエウロスの唇が動いた。

「ヘルミオーネ」

「そうよ、間違えないで」

 本当はもう一度呼んでほしい。

 ヘルミオーネはそう思ったが、それは出さずに、そっと、口をつぐんだ。

 

 

 

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