小皿
コトンと俺の側にお茶が置かれた。
俺と咲菜の間柄は、この数時間で全く変わってしまった。
彼女がここに来た時は、まさに敵であり、不幸をもたらす死神の様な風に見ていたのに、直に頼りになる同居人となり、そして今晩、お互いに思いを交わす間柄になった。
正直、彼女とそう言う間柄になれたことは、嬉しくてたまらないのだが、一方、あまりに急な展開に戸惑ってないかと言ったらウソになる。 正直、地に足がつかないような状態だった。
そんな気持ちをもてあまし、逃げるように机に向かった。取り敢えず、机に向かっていれば、妄想にニヤけた顔も見られずに済むし、こんなにハイなのもバレずに済むだろうと思ったからだ。
それに実際、ここのところ試験が近いというのに、勉強どころではなかった。このままだと、経済的な理由以前の問題で、行くところが無くなってしまう。
「草葉さん、御夜食、どうぞ」
「あ、ありがと」
…… 草葉さん、か。
俺の横にお茶とおかゆが置かれた。振り返って咲菜を見上げると、ホッとした笑顔で俺の顔を眺めていた。
さっきは「昇太さん」だったけどな
「精が出ますね」
「う、うん」
咲菜は俺に夜食を出したまま、俺の脇にずっと立っている。もしや、俺が夜食に手を付けるのを待っているのかと、手を伸ばすと、お口に合いますか?と、嬉しそうに聴いてきた。俺の仕草一つひとつを見守る咲菜の視線がくすぐったい。
「俺、週明けから試験なんだ」
「あらまあ、じゃあ、頑張らないと。大変です!」
俺はこの遣り取りを聞きながら、根本的なところに疑問を感じた。
「試験ないの?」
「わたしですか? ありますよ?」
「じゃあ、いつ?」
「いつでしょう?」
あれ?
なんか、斜め上の答え。笑顔で誤魔化してる。
「そう言えば、どこの学校に行ってるの?」
「あら、まだお話してなかったですか。『聖セラフィム高校』です」
「げっ、あの超お嬢様学校?って、お嬢様だもんな。あ、そうか、二学期制なんだ。」
「え? 3学期制だったですけど。あまり試験と学期とか関係ないんです……。わたし、先生に来て頂いていたんです、お屋敷に。生徒の皆さんとは、終業式とか、そう言う時しかお会いしなかったんです。わたしは学校に行きたいと言ったんですけど……。」
話を聞いていくと、咲菜の学生生活、試験だけじゃなく、全部が普通と違い過ぎてちょっとイメージしづらかった。要するに、家庭教師的に先生の方が来て、勉強見てくれていたようで、試験も個別にあるみたいだった。流石、一般庶民とは全く違う世界に住んでる。
「じゃあさ、今、こうしてここにいるの、どういう扱いになってるの?」
「お休みってことになってます。でも、わたし、もう卒業できるみたいなんです。良く分からないんですけど。」
そういうと、肩をすくめてクスッと笑った。
なんとも他人事な話だなと、すこし呆れる。そんな俺に、彼女は薄く笑って付け加えた。
「蝶山の女は、勉強、余りしなくていいんです。高校出たら、すぐに嫁ぎますから。私のように、在学中に嫁ぐ人は、最近はあまりいませんけれど」
そっか、さっきの話だなと思いつつ、あまり気持ち良い話ではないなと溜め息をついた。
「じゃあさ、もう勉強しないの?」
「わたしですか? 勉強してみたいです。これまで勉強どころじゃありませんでしたし。……特に高校生になってから」
「そ、そうだね……」
結婚ばっかりしてたんだもんな。
俺はなんて声かけてやったらいいの分らなくなって、目を泳がせて黙り込んでしまった。考えてみると、咲菜は俺なんかより、ずっと大人の都合で翻弄されてきた人間なのた。……ギシギシ心が音を立てる。
俺はそんな彼女が可哀想になって、もうちょっとましな高校生活が送れないかと、考えてしまった。
「じゃあさ、咲菜、何かしたいことってある? 勉強もいいけどさ、それ以外で」
「は、はい……したいこと、ですか?」
「そう、咲菜がずっとしたかったこととか、憧れていることとか」
一瞬、ドギマギしたような顔をしたけれど、直ぐに頬を赤らめ柔らかい笑顔にそれは変わっていった。
彼女はじっとこっちを見詰めながら、ニコニコしていたと思ったら、何か思いついたらしく、さらに嬉しそうな表情を浮かべ、恥ずかしそうに言った。
「御食事を作ることです、し、し、昇太さん……の。えへへ」
「そ、そっか?」
……あ、「昇太さん」になった。
咲菜は顔を赤くして、いつもよりずいぶん早口で続けた。
「わたし、料理には自信があったんですけど、だあれも美味しいって言ってくれなかったんですよ」
「え?」
「わたしの料理、美味しそうに食べて下さるの、昇太さんが初めてなんです!」
「そ、そうなんだ……」
これは喜んでいいのか、悪いのか?
急におしゃべりになった咲菜は、今までの自分の料理についてのエピソードを、楽しそうに話し始めた。
「わたしの料理って、田舎のおばあちゃんの味なんですって。失礼しますよね。ウフフ」
「田舎のおばさんの味ねえ」
なんか思い当るところがあるが、それって決して悪い事とは思わない。言ってしまえば、地味でカッコ良くなくても、素朴さや優しさが溢れるばかりに思いが込められている、ってことじゃないのか。
「そうなん、だ。」
「はい!」
真っ直ぐで透明な眼差しで、身を乗り出して話す咲菜。今度はこっちがドギマギする。
言った咲菜も、俺の反応に、自分のしていることに気づいて、頬を赤らめ目を泳がせた。じゃあ洗い物しますと、そそくさとキッチンの方に行ってしまった。
俺は勉強をしながらも、ちらちらと咲菜のことを考えてしまう。
彼女と過ごせば過ごすほど、その素顔に出会えば出会うほど、俺の中に湧いてくる複雑な気持ち。
この年頃としては有り得ないことを、大人の汚い世界を実体験しているはずの彼女。でも受ける印象は、心根の綺麗さと素直さばかり。下手したらそこら辺の擦れた小学生より、純粋な気持ちを持っているのじゃないかと、何度も思った。
しかしだ、そんな少女みたいな娘が、好きでもない十歳以上のオジサンに抱かれたのかと思うと、頭の中がぐちゃぐちゃになりそうなほど気持ち悪い。善人ぶるつもりはないが、俺はそう言うのが生理的にダメなのだ。
俺はそんな彼女の三人目の夫となった。
まあちょっと考えても、女の子と付き合ったことがないような俺が、その心根が綺麗だとか、分かったようなことを言うのは、笑われるだけかもしれない。
実際、俺はついこの間まで、彼女のこれまでを考え、闇雲に彼女は俺の生理的に受け入れることのできない人間だと決めつけ、距離を置こうとしていた。
でも、そんな風に咲菜を見ることも、そんな風に対応することも、今となっては俺にはもうできない。
もしもだ、彼女がここに来るまでに、俺が想像しているような「生理的に許せないこと」をして来ていたとしても、それが絶対的に拒絶するべきものだとは、思えなくなってしまっている。
「ちょっと、食べてみてくれますか?」
「あ、うん」
声をかけられ振り向くと、笑顔の咲菜がエプロンをつけて立っていた。その手には湯気の上る芋をのせた小皿があった。
俺はひょいと芋をつまみ上げ、熱い芋を口の中で転がす。一口で食べた俺を咲菜は、ビックリした顔をして見つめていた。
「だ、大丈夫ですか?」
「ア、アフイ(熱い!)」
彼女はそんな俺に、プッと噴出した。そして、アハハハと笑う。
「笑うことないだろ」
やっとのことで芋を飲み下した俺は、両手で口を押さえて笑う彼女に文句を言った。
「だって、昇太さんたら」
こんなことで、ここまで笑えるってのも……なんだな、と思わないではないが、その笑いっぷりがこれまた爽快で、俺はそっちの方に感動した。
整った白い顔をピンクに紅潮させて笑う姿には、屈託などどこにもない。
そんな彼女を眺める俺の胸は、本当に音、傍から聞こえてんじゃないかと思うほど、キュンキュンいっている。
俺、やっぱ、この娘には笑っていてほしい、ずっと笑い続けて欲しい。
ごめんなさい、ごめんなさいと必死に謝りつつも、やっぱり笑いをかみ殺せずに変顔している彼女を眺めながら、俺は真剣にこの娘の夫、……この笑顔のために、自分の持っているもの全部をかける男になろうと覚悟を決めた。