赤い鼻
梅雨ももう開けようとしている初夏の頃、その日もまだ梅雨は明けてはいないというのに、真夏の様な暑い一日だった。
古いアパートの一室。建てつけの悪いしっかり閉まらない窓。小さな穴が開いた網戸の網、古ぼけたステンレスの流し、所々剥げた土壁。古い家独特の臭いに、この家の長い歴史を感じ取る。
その家の小さな板張り床のダイニングに置かれた、傷だらけの4人掛けのテーブルに、見るからに余りぱっとしない、いかにも目立たなそうな白黒の学生服姿の男と、雪のように白い肌をし、真黒な長い髪を大きなポニーテールにまとめ、どこから見ても良家のお嬢様に見える少女が、向かい合って座っていた。
そんな彼女の着る服は、何故か洗いざらした明らかに中年女性向けのブラウスであり、毛玉がところどころに出来ているひざ下の長さのグレーのスカート。
それはこの少女にはあまりにも似合わず、そんなアンバランスさが、この部屋だけ古い時代に取り残されたみたいな、不思議な印象を与えていた。
彼女は小一時間、泣き続けた。これまでの人生、まだ18だというのに、二度も離婚をしたという、拭い得ない重い過去を思い、自分の愚かさと不運を泣いた。
俺は肩を揺らして泣く彼女を、ずっと見守っていた。
彼女が体験したであろう、俺の知らない世界。今まで絶対に直視しようとしなかったことを、敢えて見つめる。彼女のことについてだけではない、俺自身についても真剣に見つめ直した。
先のことが予想できない不安定な今の生活のこれから。そんな状態で結婚という大きな変化。
結婚生活を続けるという事について、起きてくる山のような問題。生活費、住むところをどうするのか。
そしてはっきり分ることは、やはり俺たち二人がやっていくことは、滅茶苦茶大変だという事。
じゃあ別れるのか?
別れたら、一応は元の生活に戻ることになるだろう。しかし、あの殺伐とした元の生活に戻って、何になる?
そんな俺の脳裏に、彼女が来てからの日々が、走馬灯のように巡って行った。初めは地獄だと思った彼女との生活。けれどもそれは、いつしか俺の安らぎの場となり、力の源となり、喜びとなり楽しみとなっている。
もう彼女無しの生活には、絶対に戻りたくない。俺は心からそう思っている。
だとするならば、もう逃げてばかりはいられない。
逃げているだけでは、絶対にここから先には進むことは出来ない。
彼女の過去についても今更変えようのないことであり、俺たちが背負っている現実も、絶対に変わりはしない。立ち向かっていく以外に、道しかない。
思考の海の中で、俺は必死にその道を見出そうと喘ぐ。
その時間はそうは長くないはずだったけれど、俺にとっては気の遠くなるような長い時間のように思えた。
彼女の涙がやっと収まったころには、俺もまた一つの結論に至っていた。
一つ深呼吸をして、おもむろに彼女に打ち明ける。
「俺としては、ずっと一緒に居たいと思ってる」
彼女は眼を見開いて、俺の顔を見つめた。喜んでいるような、苦しいような、揺れるまなざしに色々な色が移っては消える。彼女は頭を振り、苦しそう口を開いた。
「わたしなんかといたら、草葉さんが不幸になってしまう……」
「っていったって、既に俺たち結婚したんですよ。後戻りできないんだったら、とことんやるしかない。」
「そ、……そうですけど。」
彼女は押し黙ってしまった。
「俺のこと、そんなに嫌ですか?」
「そんなこと、絶対に、絶対に……」
フルフル首を振って俺の言葉を必死で否定するも、最後はまた湧いてきた涙で言葉にならなかった。背中を丸めた咲菜は、とつとつと話し始める。
「草葉さん、わたしはもう、二度も結婚して失敗しました。そんな女がこれから未来有るあなたの様な方を、捕まえていてはいけません。……ですから、もう、もう、……お別れしましょう」
そう言うと、口を一文字に固くつむった。その口元がぴくぴくと震えている。
これは俺のうぬぼれかもしれないけれど、彼女が本当に別れたいと思っているとは思えなかった。
彼女は自分が二回も離婚をしているという事にさめざめと泣いた。そんな女の子を押し付けられたと、不平を言ってしまっていた俺だったが、当の本人にとっては、俺のそれよりもずっと深刻で苦しい現実なんだ。俺の腹の底にポッと何かが点った。
「言ってること変だよ。あんたも同い年でしょ。俺が可能性あるんだったら、あんたも有るんじゃないの?」
ヒッと肩を竦めた。俺はそんな彼女にため息をつき、話をつづけた。
「確かにバツ2というのは、まだ高校生の俺にとって滅茶苦茶気になる。世間を知らない俺は、そのことがこれからどんな『悪さ』をするのか、想像することもできない。でもさ、だからといってこれでもうお別れっていうのは。……嫌だ」
彼女は険しい顔をこっちに向けた。
「なぜ、そんなにわたしにこだわるんですか? 可哀想だからですか? 一度結婚しちゃったから、成り行きですか?」
いつになく、棘のある言い方。
「確かにそうかも。俺さ、あんたの様子見てて、すげー可哀想に思った。他人事じゃなくなった。あんたも被害者なんだって、良く分かった。そんな娘置いて行けって? 知ってしまっちゃんだから、んなこと、今更出来ないよ俺」
じっと俺の話を聞いていた咲菜は、深くため息をついた。
「あのさあ、こんなに話してるけど、とことん「今更」だよね。もうあの時、-----結婚した時、全部、どうしようもなく決まっちゃったよ。…… 俺たちには、そこから始めるしかないと思う。後戻りしたらそっちの方が大変だ、きっと。もっと難しいことになる」
「そうですね、もう取り返しつかないですよね。本当に、本当にごめんなさい。謝るしかできないけど、ごめんなさい……」
見ているのが辛くなるほど、謝り続ける咲菜。
文句ひとつ言わず、あんなに手の凝った食事を作り、親切に世話をし、掃除をしてくれた。不思議に思っていたけれど、こんな風に思っていたからなのか。
でも、この娘のせいじゃない。親の都合でこんな目に合ってるんだ。俺はこの娘を責めようなどと、少しも思っちゃいない。逆にこの娘にこんなことをさせていることも知らず、のうのうと生活している親がめちゃくちゃ腹立たしい。
かと言って、俺は親たちに仕返しなどしてもつまんないと思っている。いや親のせいで自分たちの人生が、これ以上ダメになるのはもう嫌なのだ。
逆にそんな目に合わせて大人たちに、あんたらの仕打ちに負けずに、ここまでなってやったぞと言ってやりたいのだ。
「咲菜さん、俺、思うんだけど、大人に振り回されるのいやなら、自分たちで生きれるようになって、自分たちで幸せになるしかないんじゃないかな。だからさそれを一緒にしようよ。俺、確かにあんたの過去のこと、全部受け入れられるかどうかは分からない。でも、幸せになるには、それするしかない。で、適当なことやって、子どもに責任取らせるような親、絶対に見返してやる。あいつらより、絶対ましな人生を生きてやる」
ふと見ると、咲菜が泣きはらした目でこっちを見ていた。流石の整った顔も、目の周りが真っ赤、鼻の先がピンクだと、美女というより小さな幼女だった。あまりに無防備な姿に、思わず吹き出してしまった。
本人、何を笑われたのか分からずにきょとんとしているも、そのうち咲菜も肩をゆすらせ笑い始めた。
「何が可笑しい?」
俺が聞くと、彼女は眼をこすりこすり答えた。
「わたし、昇太さんのこと、大好きです」
「え?」
いきなりなので思わず固まってしまった。彼女はあれ??と思って、くるっと目を動かしたと思ったら、目や鼻だけではなく、耳まで真っ赤になった。
「あ、あ、あのう…… それは、今みたいに前向きな考え方出来る昇太さんって、凄いなって」
呼び方が「昇太さん」になってるし。でも、本人、全然気づいていないみたいだった。
彼女はそれから、何を考えたのかすっと立ち上がった。しばらく目を泳がせていたけれども、口元を引き締めて、俺の方に向き直った。そして、まっすぐに俺を見つめた。
「昇太さん。わたしとしては、もう何も言うことはありません。本当にご迷惑ばかりかけると思いますけど、わたしは昇太さんと一緒にいれて嬉しいです。でももし、出て行ってほしいと思ったら、おっしゃってくださいね。」
俺が目で分かったと告げると、ニコッと笑った。そして姿勢を正すと深々と頭を下げた。
「ふつつかものですが、どうぞよろしくお願いいたします」
「……あ、いや、こちらこそ」
いきなり決定的な決まり文句言われて、ビビった俺って、マジ、……カッコ悪い。