いたんだ弁当
「おかえりなさい」
咲菜は俺の顔を見るなり、ビックリした顔をして目を瞬かせる。
「どうされたんですか? そんなに息せき切って」
確かに俺は、肩で息をしていた。
「ちょっとそこに座ってくれる?」
俺はエプロンをつけて、手が濡れている咲菜に、自分の前に座るように願った。彼女はハイと、小さく答えて正座する。俺は彼女の前に土下座した。
「まず、ごめんなさい」
「え?」
スクールバックの底から弁当箱を出して、両手で彼女の前に捧げた。
「実は昼食べられなかったから、夕方食べようと思ったら、いたんでたんだ」
「あ、……はい」
彼女はちょっと寂しそうな顔をするも、今日はちゃんと話したせいか、それ以上の動揺の色を見せなかった。
「で、ひとつ、聞きたいんだけど?」
「なんでしょう」
「どうして、お弁当を作ってくれるようになった?」
「ああ、……それですか」
しばらく躊躇した咲菜だったが、視線をそらさずに彼女が口を開くのを待っている俺に観念したのか、ボソボソと話し始めた。
「御夕飯、草葉さんが食べられなくなってしまわれたからです……」
彼女は弁当と食事に託している彼女の思いを、訥々と綴っていく。
自分がここに来た日の夜、俺がコンビニおにぎりを買ってきてくれて、嬉しかったこと。
翌朝、自分の作った味噌汁を飲みながら、俺が涙を流しているのを見て、もっと食事を作ってあげたいと思ったこと。
そうしているうちに、役に立たない自分がもし出来るとしたら、食事を作ことだと思ったこと。
それなのに俺が夕食を食べなくなったこと。
俺に食事を食べてもらうために、弁当を作ることを思いついたこと。
経済的でもあるので、絶対に喜んでもらえると思っていたこと。
「でも、勝手に思い込んでやっただけですから、嫌でしたらそうと言ってください……。」
俺は言葉が出なかった。
彼女が挙げたことを、聞きながら思い出していた。挙げられたことは、自分としては、どれも特に考えることなくしたことだったけど、話しを聞いているうちに、何故か胸が高鳴り熱いものが迫ってくる。
決して不快ではないこの感触。懐かしくもあり、慕わしくもあり、あれ、唇がぴくぴくして、目頭に……。
ひと通り話を聞いた俺は、兎に角、話してくれてありがとうと礼を言い、改めて一生懸命作ってくれた弁当を粗末にして悪かったと謝った。咲菜はそんな良いですと、ちょっとはにかみながら手をひらひらさせた。
彼女はじゃあ、お茶でも入れましょうとすっと立ち上がった。
身長は160そこそこだろう。来て直ぐには何故かダブダブの汚いスウェットを着ていたけれど、最近はゆったりしたブラウスに、ひざ下のスカートをよく着ている。
髪の毛は真っ黒で相当長く、全部下ろしたら腰ぐらいまであるそれを、ポニーテールにして後ろにまとめていた。
俺は彼女の後ろ姿を眺めながら、首を傾げる。あの初めの日の異様な服装は一体なんだったのかということ。
今となっては、あの時限定だったという事は疑いのないことだが、そうした理由はというと、未だに理由は思いつかない。まだまだ彼女のことは不思議なことばかりだ。
俺が知っていることといえば、彼女はここに置いてもらっているお礼だと言って、食事を作りたいと思ってくれていること。彼女が思ったより普通の感覚の持ち主であるという事。物凄い美女であるという事。バツ2であるということ……。
それ以外の彼女の素性もこれまでの生活についても知らない。俺は腕組みをし、こんなんじゃ、「法律上の夫婦」すらもやってはいけないと項垂れる。
…… もっと、彼女のことを知りたい!
それは今の、俺の一番素直な気持ちだった。
じゃあ、何を聞いてみようか。何だったら答えてくれるだろうか。
急須にお茶の葉を入れ、ポットのお湯をさす彼女をボーっと眺めながら、俺はどうしたら良いだろうかと思いめぐらす。
初めのころに比べたら、台所での様子が随分と自然になったなと、そんなことを考えていると、こんな質問が口をついて出てきた。
「あ、あのさあ」
「はい?」
「帰りたくない?」
彼女はコップにお茶をさす手を止めた。
俺の額にじわっと汗が滲む。勢いで聞いてしまったが、いきなり聞く質問ではなかったと、頬をぴくぴくさせてみても、出た言葉は戻らない。
彼女はお茶の入ったコップをお盆に乗せ、こっちにやって来た。コップを俺の前に置くとこっちに向き直り、真っ直ぐ俺を見た。
「わたしですか?」
「あ、ああ」
……「帰りたい」と言われたら、俺……
背中がゾクっとした。その時、胸のワッと広がった感情は、「怖い」というのが一番近かかった。自分では彼女に近づきすぎないようにしているつもりだったけど、俺の中には、それを望まない強い気持ちが宿っていることは、もう、隠しようのないこととなっていた。
「帰りたいとは思いません」
彼女はそう言って、白い頬をピンクにして、顔いっぱいに笑顔を輝かせた。俺がびっくりした顔を向けると、ヒョイと肩をすくめる。俺の心臓はその笑顔に、またもや打ち抜かれてしまった。
「どうして? こんな一方的で理不尽な結婚って嫌でしょ?」
それは他ではない、俺自身がずっと抱えてきた疑問の一つだった。他人から強いられたものは、他人には良くっても、強いられた本人にとっては、不幸以外の何物でもない。そうなんじゃないのか?
「わたし、二回、わたしの思いなんか完全に無視で結婚させられました。一回目の時、結婚式直後、相手の人がどっかに行ってしまって、ショックでした。
その時、本当に思ったんです。みんな、わたしのこと大事にしているとか、大事に思っているとか言っても、結局、自分のことしか考えないんだって。わたしがどれほど傷ついても、わたしの人生が滅茶苦茶になっても、自分に関係なかったら、平気なんだって。
それから、他の人、……親もですけど、勝手なことしか言わない人たちが言うことを、言われるままに従うということが、とても嫌になったんです。」
彼女はそう言うと、ちょっと照れた顔をして、くるっと目を回して見せた。
でも、…… そっか。それ、凄く分る気がする。
俺も親父の適当な会社経営のお蔭で、こんな人生を無理強いされているのだから。俺は一つ大きくため息をついた。
「二回目の結婚のときですけど、わたし、押し付けられた結婚を、徹底的に拒絶しました。それでも無理強いするので、強硬手段です。男の人が絶対に近づこうとは思わない女になろうと頑張りました。わたしがここに来た時の格好、覚えてますか? あれで二人目の人、即刻、追い返してしまいました。」
フフフと小さく笑ったと思ったら、直ぐに一人でズドーンと落ち込んでいる。咲菜ってこういうキャラなのか。
俺は初日の異様な出で立ちを思い出していた。確かにあんなにドロドロに汚れたダブダブのスウェット来てたら、どんな男でも一気に引いてしまい、近づきたいとは思わない。フムフムと納得する。
「……実はここに来た初めの日、二人目の人と同じように、草葉さんに同じことして、この縁談を壊してしまおうと思ってたんです。でも、上手く行きませんでした。」
「なるほどね」
「はい……」
済まなそうに肩を落とす彼女だったが、俺はこの話を聞いて、やっと一日目の彼女と、翌日の彼女とのギャップがなんだったのかわかった。
いや、ちょっと待て。
ということはだ、ダブダブを止めた時点で、俺のとの関係をぶち壊すことは止めたってことなのか。
じゃあ、もうこのままで良いと思ってる?
夫婦でいようと、…… 思ってる???
「……上手く行かなくって良かったです」
眉間にしわを寄せて考え込む俺に、ホンワカ頬を赤らめて、囁くようにそう言った咲菜は、口をモニョモニョして俯いた。
「わたしだって、相当、身勝手ですよね。わたし、草葉さんの人生、滅茶苦茶にしたんですもんね。嫌われてもしょうがないです。今更ですけれども、もし出て行ってほしいと思われたら、いつでも言ってくださいね。わたし、直ぐそうしますから」
つい今、少女のようにはにかんでた彼女だったが、そう言った時は、ちょっと寂しそうな大人の顔をしていた。
俺は彼女の切々とした話を聞きながら、自分の内側に、どうしようもない衝動が巻き起こってくるのを感じた。
それは俺の中で自分を律し縛りつけていた、羞恥心とか遠慮とか、人の目を気にする気持ちとかを全て薙ぎ倒していく。そして俺の口に、さっきまで決して口に出来ないと思っていた問いを吐かせた。
「あのさ、俺としては」
「はい」
咲菜は目を泳がせ、体をこわばらせた。
「ずっと、ここに居て欲しいんだ」
「……え?」
「だから、もし君が良いっていうんだったら」
「……」
「ずっと『夫婦』でいたい……」
硬い静寂が、俺と彼女の間を流れる。やっぱ、調子乗り過ぎたかな?と思うと同時に、全身から冷や汗が噴き出る。
どうにか収拾しようと、震える声で続けた。
「っていうのが、今の俺の気持ちなんだけどさ、やっぱ無理だよな、俺なんか」
「『俺なんか』じゃなくって、わたしなんか……です」
彼女は本当に悲しそうに、絞り出すように言った。
「わたし、……二度も離婚した……ん……」
後は涙と嗚咽で、言葉にならなかった。
俺は肩を揺らして涙を抑える彼女を見ながら、今までの拘りが霧のように消えていくのを感じていた。
この人は確かに色々あって、人にはない経験、二度の結婚と二度の離婚を通ってきた。でも、そのことでこの人の心が、何か汚れたものになったのでは決してない。
いや、誰よりもそのことの重さを知っているこの人は、誰よりもその大切さを知っている人なんだ。
俺は人生に関しても、男女の間のことについても、妻をリードし、尊敬され頼りにされるような夫にはなれないけれど、もうそんなことはどうでもよくなった。
この結婚が俺たちの希望からスタートしたものでないことも、全く気にならなくなった。
逆にこれを人生に一度、有るか無いかのチャンスとして握りしめ、この人を幸せにしてやる。俺も幸せになってやる。
今までにどんなことについても感じたことのなかった、メラメラと熱いものが胸の奥から突き上げてくるのを感じ取りながら、シュンシュン鼻をすする咲菜を見つめていた。