バイトを始める
買い物に付き合って以来、俺は家に居づらくなってしまった。
ニコやかに楽しそうに家事をこなす咲菜は、とても可愛らしく魅力的にだった。それはまるで綺麗な蝶みたいで、ひらひらと華やかで、見ているだけで癒され、心が熱くなっていく。
しかしだ、彼女が良いなあと感じるということは、俺にとっては諸刃の剣。一番厄介なことなのだ。
彼女のこれまでが、生理的に許すことの出来ないことは、今になっても変わりない。
それなのにその人に惹かれるようなことがあるなら、自分の中で相反するものが、真正面からぶつかってしまうことになる。それは生き地獄そのものである。
例えば今日の朝もこんなだった。
俺が朝起きたら、いつものように彼女は朝飯を作っていた。パタパタと走り回る姿にボーっと見惚れていると、シンクの前で何やらオタオタと困り始めた。
その困っている様子が、ハムスターがちょこまかしているみたいで、こっちは吹き出しそうになって仕様がなくなる。ここで吹き出してしまったら、今までずっと保ってきた「超・硬派」のキャラが崩れてしまうと、奥歯を噛みしめて必死に耐える。
でも余りに可愛いので、魔が差したのだ。ちょっと手伝ってやろうという気になってしまった。
「なんか手伝おうか?」
「え? ありがとうございます。じゃあ、これテーブルまで運んでくださいますか?」
そう言って、不意に投げかけられた笑顔に、全く無防備でだった俺は危うく萌え死にかけた。よろよろとおぼつかない足元を、必死で踏ん張って、目を白黒させながらも差し出された味噌汁の椀を受け取ると、どうにかテーブルまで持っていった。
しばらくすると、おかずとご飯をお盆にいっぱいに乗せて、彼女はやってきた。そして言ったのだ。
「昇太さんに手伝っていただけると、……なんか、幸せです!」
そう言って、さっきにも増してキラキラ輝く笑顔を投げかけられたところで、俺はついに気を失った。
でも気を失って見た夢は、そんな清純そのものの彼女が、良く分からん二人の男に陵辱されているという、破壊的なものなのだ。
「ガー!!!」
「昇太さん、昇太さん、しっかりして!」
大声をあげて息を吹き返し目を開けると、息もかかるような距離に、目に涙を溜めて心配そうに顔を歪めた咲菜の顔があった。
さてこの場合、俺はどんな顔をしたら良い? 笑うか?、それとも怖い顔して払いのけるか?
……そんなの分かるか!
ここ数日、日常的にこんなことをして暮らしているのだ。いつか本当に覚醒できない時が来るにちがいないと、本気で心配している。
しかも厄介なことに、このモヤモヤはむちゃくちゃしつこく、少々のことでは、どこかに行ってくれない。
顔を見なければすこしはましかと外でぶらぶらしても、それぐらいではまったくダメ。気がついたら、頭のなかは咲菜のことでいっぱいになっていて、にやけたり落ち込んだりを、絶え間なく繰り返しているのだ。
「おい、マジ大丈夫かよ?」
「……そろそろ、ヤバイかもなあ」
今日も安三が声をかけてきた。最近、毎朝こんな感じだ。
「おまえなあ、何をそんなにしんどがってる?」
「いや、まあ……」
言えるか! 嫁がやって来て、そいつのお陰だと。
安三は一つため息をつくと、諭すように話し始めた。
「言いたくないことを言えとは言わない。言いたいことだけでいいよ、何か言えよ。俺たち友達だろ」
「……そうだ、な」
友達……か。
こいつは俺のこと本気で友だちと思っててくれるのか。机に突っ伏したまま、俺はジワッと来てしまった。
俺としては安三のことを勝手に「親友」というカテゴリーに入れていたが、安三はどう思っているのかは問いただしたことはなかった。
安三にもまだろくに自分の真実を明かしていない。きっと安三にとって、俺という人間は未だによく分からん人間に違いないだろう。でも、俺を友達と呼んでくれる。
おもむろに顔を上げると、くったくのない顔がそこにあった。
……マジ、良いやつだな、こいつ。
このまま、何も言わんわけにはいかんだろうと思った俺は、人に迷惑になるようなことや、不名誉に関わるところは伏せながらも、思いの丈を、俺の抱えていることを、俺を友達と言ってくれる人間に話し始めた。
「……そっか、色いろあるんだな」
俺は家の家業が傾いたからここに来たことや、親が放任主義なことや、お陰で家が相当居づらいことを話した。ただ、咲菜のことについては、うまく話せそうもなかったので、今日は話さなかった。
でも、安三に問題の一端を話せてかなり楽になった。お陰で色々と考えが浮かび始める。そこで思いついたのは、その悩ましい笑顔の記憶に、「上書き」することだった。
簡単に言うなら、咲菜以上に夢中になる何かを見つけることである。
まず思いつくのは、咲菜以上の女性と出会い、その人の笑顔で咲菜のことを過去のものとする……などと、いうことになるかもしないが、そんなことが出来るのだったら世話はない。
まず俺たちは紛いなりにも、法律上では夫婦なのであるから、もしそんなことをするならば、高校生にして「不倫」したなどということになり、新聞紙上をにぎわすことになるだろう。結果、俺の社会生命も絶たれることになる。
更に根本的なことを言うなら、自慢ではないが俺は生まれてこの方、女の子には全く縁がなかった人間なのだ。おいそれと思うままに相手が現れるはずはない。
ということで、仕様がないと手を出したのが、これからの生活の事も考えて、バイトをすることだった。今まで、そういう必要があまりなかった俺だったので、全くの未経験者である。
どんなところでバイトをしようかと考えあぐねて、結局選んだのは、この店だったら、うちの学校の連中もあまり来ないし、咲菜に会うこともないと、ほとんど降りたことのない駅の駅前にある、小さなハンバーガーチェーン店だった。俺は決心が鈍る前にと、早速、マネージャーの面接を受けた。
「よろしくお願いします」
「じゃあ、頼むよ。あ、この娘が色々教えてくれるから」
人手が足りないらしく、即座に面接に合格。早速、仕事内容について教えて貰うことになった。先生として紹介されたのが、目の前の少し大人びた、格好良い美形のお姉さんである。
「よろしくね、えっと……」
「草葉です」
「私、大町かやの、よろしくね」
「あ、はい」
俺の返事に、ニコッと笑顔で答えてくれた。その笑顔がなんか凄く大人で、知的で出来るって感じ。
「草葉くん、大町さん、クルー・コンテストで上位入賞者だから、色々習うと良いよ」
「あ、はい!」
マネージャーさんの言葉に、思わず二度見する俺。確かにすごく切れる感じ。
「じゃあ、早速行こうか。えっとね、これだけど……」
こうして、生まれて初めてのバイト生活が始まった。
「あのさ」
「はい」
いつもより大分遅く家に帰り着いた。当然のように咲菜は俺の帰りを待っていて、俺が着替えてテーブルに着くや、御飯と味噌汁が用意される。
咲菜、いつもより少しテンション高め。思い上がった考え方かもしれないが、多分、俺の帰りを待ちわびて、やっと帰ってきたと張り切っているみたいだった。
本当に咲菜は理想的な「妻」である。見た目も気持ちも性格も、ほんとうによく出来ている。そう考えると、俺は幸せものだと思えてくる。
だがこの主婦スキルが、これまでの多くの「経験の積み重ね」の上であるというところに考えが行くと、今度は素直に喜べない。
俺じゃない誰かのためにも、こんな風に甲斐甲斐しく仕え、その残り物をもらっている……とも、言えなくもないからだ。
なんとも心の狭い人間だと自嘲したくなるが、俺はまだ何も知らない高校生のガキなのだ。そんな俺に、やっぱり咲菜は荷が重い。
「あのさ、明日からも、今日みたいに、いや、もうちょっと遅くなるかも」
「……どうかされたんですか?」
見る見る、当惑と悲しみの色が、今までニコニコしていた顔をに広がっていった。
「いや、ちょっと、用事が出来て、しばらくそうなるんだ」
「……はい」
しばらくではなく、ずっとそうする気でいる俺の良心が、チクチクと痛む。
「あ、あのう、夕食はこちらで摂られるんですよね」
「ちょっと、分からないかな。あ、要るときには、電話するし」
「……」
「……咲菜さん?」
なんか凄くショック受けてる。夕食食べるか分からないと言っただけで、ここまでショボンとするとは思わなかった。
「……分かりました」
それから食卓は、お通夜みたいな雰囲気になってしまったのだった。