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8. 孵化/不可

title by : alkalism (http://girl.fem.jp/ism/)

 白皙双紅の青年はスンと鼻を鳴らし、形のいい眉をわずかに顰めた。

 そう言えば昨晩転んだ時、撫子の体にはずいぶん土が付いたはずだ。あの後はずっと眠っていたので、お湯を使うことも出来なかった。汗だってかいている。ひょっとして臭うのかと、撫子は体を小さくした。

 しかし霧島は文句を言うことなく、思いのほか柔らかな声で赤城に告げた。


「赤城、少し外してくれるか」

「承知しました」

「え、ちょっと赤城さ……」


 撫子はあっさりと頷く赤城を慌てて呼び止めたが、彼を捕まえようとした手は宙を掻くだけだった。文字通り一瞬で消えた彼の後に、呆然とした撫子と霧島だけが残される。

 赤城の中でどう処理されているかは知らないが、恩人とは言え霧島とは見ず知らずもいいところだ。相手から見てもそうだろう。どうしていいか分かるはずもない。慣れない状況の中、気まずさだけがどんどん膨張していく。溜まったそれが破裂する寸前に我に返った撫子は、慌てて深く頭を下げた。


「あのっ、昨日は助けてくださってありがとうございました」

「構うことはない。俺とお前の仲だ」


 慌てふためいたせいで、ひっくり返ったような声になってしまった。撫子はうろたえ気味に視線を泳がせたが、返ってきた言葉の意外さにきょとんと顔を上げる。すると驚くような間もなく、撫子の頬にぺたりと指が添えられた。撫子は思わず体を硬くする。彼だけが夏からすり抜けたのではないかと思うくらい、冷たい指だった。


「本当に……久しぶりだな、撫子」


 囁くような声音に、撫子はひくりと息を呑んだ。怯えを隠せないままに霧島の顔を見上げて、また固まる。

 普通の人間では決してありえない紅の双眼には、慈しむような憐れむような、不思議な色があった。

 気圧された撫子が動けないままでいると、霧島はその整った唇に小さな微笑を浮かべた。そんなわずかな動作にさえ優美さが宿っていて、撫子の心臓の鼓動が不意に早まる。

 霧島はわずかに上気した撫子の頬からするりと指を抜くと、並んだ障子の一つに手をかけた。


「入るといい。ずっと、お前と話がしたかった」


 まるで古い友人に対するかのような霧島の態度に、麻痺寸前だった撫子の思考回路が蘇った。これ以上は流されまいと、撫子は慌てて濃色の着物の袖をつかんだ。不思議そうに振り向いた霧島に、焦りが顕著な表情で訴える。


「すみません、すごく言いづらいんですが……誰かと人違いされてませんか?」

「まさか。ずいぶんと背は伸びたが、お前と他人を間違うはずがない」


 低く落ち着きのある声で霧島は断言する。その親しげな口調に、じわりと不快感が背筋を這い上がった。湿気にも似たそれがどこから生まれたのかも分からないまま、撫子は首を振る。


「そう、じゃなくて……私そろそろ帰らないと」

「帰る? どこへだ」


 造形の整いが行き過ぎているのか、霧島の動作にはひとつひとつ妙な迫力がある。ただ問い返しただけのことが叱咤されたように感じられて、撫子は後込みした。

 沸き起こる過剰なほどの拒否感を不自然に思いながら、小刻みに首を振る。


「どこへって……。もちろん、家にです」

「戻りたくないのだろう」

「そんな事、思ってません」


 なりふりかまわず早口で撫子は言った。ぴりぴりと苛立ちが脇腹を蝕む。


(あなたにそんな事を言われる筋合いはない)


 そんな台詞は、仮にも命を助けてくれた相手に思うことではない。けれど撫子は歯ぎしりすらしてしまいそうな不快感を覚えていた。その出所は分からない。ただ、じわりじわりと背中に嫌な汗がにじんだ。

 追い詰められている。

 話をしているだけなのに、そんな感覚があった。

 撫子の感情の変化に感づいたようで、霧島は困惑めいた表情を浮かべていた。そんな些細な事にすら苛立ちが増してゆく。

 はたして自分は、これほど短気な性格だっただろうか。

 せり上がる嘔吐感を腹中に押しとどめて、撫子は霧島を睨む。


「私はただ、家に帰りたいだけです」

「何を言っている、撫子」


 理解しかねるといった様子で、霧島はゆっくりとかぶりを振った。


「お前が還る場所はここだろう」


 霧島の声の他、何も音が聞こえない。いや、後ろでくすくすと笑い声がした。背筋を芋虫が這うような不快感に襲われる。

 頭が痛い。心臓が痛い。耳が、口が、体の全てが痛む。くらくらする。きもちわるい。この場所は、だめだ・・・・・・・・・


「お前はここで生まれたのだから」


(──黙れ)


 次の瞬間、撫子は右手を振りかぶって霧島に襲いかかっていた。



***



「霧島様、いかがなさいました」

「……少々しくじった」


 主が左腕を押さえた瞬間、赤城はつむじ風のごとくその場に現れた。漂う錆臭の不吉さに眉を寄せつつ状況を確認する。撫子の姿がない。濃厚な血の臭いの元に目をやった赤城は、その傷の深さに目を見張った。

 鮮血が滴る霧島の腕は、着物ごと大きく切り裂かれている。刃物傷に似ているが、明らかに異なるのはその数だ。斜めに切りこまれた五本の線。それはヒトの片手の指の数だった。


「──撫子様の仕業ですか」

「早るなよ赤城。全面的に俺の手落ちだ」


 声の調子が低くなった赤城を、霧島がたしなめる。彼は特に自分の傷に興味を示すこともなく、しきりに何かを後悔しているようだった。

 流れた血が、木造りの廊下に赤黒い模様を落としてゆく。異変に気づいた数名の家僕が、慌てふためいて飛び出してきた。霧島はそれらを片手で追い払い、柳眉を寄せる。


「まさか『縛り』があそこまで厳重だとは思っていなかった」

「ああ、道理で話の食い違いが……。それで、撫子様はどちらへ」

「今の撫子なら、おそらく通りを抜けて川の方へと向かっただろうな」

「追います。しばしお待ちください」


 赤城の言葉に、霧島は否と首を横に振った。


「俺が行く」

「しかし」


 主を止めようとする赤城を、霧島が傷のない手で制する。


「どのみち俺の責任だ。俺以外が行っても無駄だろう」


 それに、と霧島は独り言のように付け加えた。真紅の瞳は撫子が去ったらしい方向を険しい色で見つめている。赤城はつられるようにそちらを見た。


「あのままだと、ろくな事にならない」

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