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6. 遠雷遙か

 ひとしきり笑った後、撫子はふと外へ目をやった。どこからともなく、猫が喉を鳴らすような音が聞こえたからだ。縁側へ身を乗り出すようにして空模様を伺うと、この周辺は相変わらずの快晴だった。しかし遠方一面、おそらく実家の辺りには暗雲が覆いかぶさっている。赤城に目をやると、彼は太陽にも遠雷にも興味がないといった様子で正座していた。どうやらイヌ科らしい彼は、雨の匂いを早くから嗅ぎつけていたのかもしれない。撫子は畳を擦らないよう注意して赤城の方を向いた。

 先程からの話の流れで、ここ鳴神ヶ里の大体の位置は聞いている。この場所は、社からしばらく北東に行った地点らしい。そう遠くはないようだが、今すぐ帰れる距離でもない。出来れば家に連絡を入れておきたいというのは、自然な思いだった。


「赤城さん、電話をお借りしてもよろしいですか? りょ……」


 両親が、と言いかけて撫子は口ごもった。頼み事ついでに頭を下げたまま、畳を見つめる。

 撫子にとって、京助と由紀は既に『両親』ではない。それを知ってしまったという事実が、今更のように肩へと重くのしかかってきた。

 赤城は無表情のまま、琥珀色の目でにこちらを見つめている。

 うっかり声など漏らさないようこくりと息を飲んで、撫子は再び口を開いた。


「保護者が心配していると思うので」

「分かりました」


 赤城はすっと流麗な動作で腰を上げた。彼は「こちらへどうぞ」と言って襖を開き、そのまま奥へと姿を消してしまう。撫子は慌てて立ち上がり、畳縁を踏まないよう気をつけながら赤城の背中を追った。

 和室を一歩出た廊下は綺麗な飴色をしていて、長年丁寧な手入れがなされてきた事が伺える。ぺたぺたと音が響くのは、裸足の撫子がそわついてその上を渡っているためだ。赤城は撫子の前をすいすいと歩いていく。

 何せ慣れない家屋である上、目の前を行く彼の足は早い。撫子が刻み足でその背中を追いかけていると、不意に赤城が足を止めた。振り向いた仏頂面の彼にぶつかりかけ、撫子は思わず一歩飛び退る。

 急に立ち止まった事に対してかそれとも本題についてなのか、赤城は一言「すみません」と前置きした。


「撫子様が昨晩着ておられた紬ですが、ずいぶん泥が撥ねていたので勝手ながら洗いに出させて頂きました」

「そんな、申し訳ないです」


 うっかり衝突しかけた後ろめたさも手伝って、撫子は焦り気味に言った。

 ただでさえ保護してもらい迷惑をかけているというのに、決して安くないはずのクリーニングなど頼める訳がない。その上、今の撫子には何のお礼をする事も出来ないのだ。焦れる内心に拍車を掛けるかのように、どこからか規則正しい秒針の音が聞こえる。

 しかし撫子の考えに反し、赤城はゆるりと首を振った。


「撫子様は霧島様の大切なお客人ですから。当然です」


(……また、その名前だ)


 撫子はわずかに鼻白んだ。

 『キリシマ』とは、先程から何度か赤城が口にしている名前だ。話の感じからして、人名である事は間違いないだろう。無論撫子にはそれが誰なのか知る由もないのだが、彼があまりに当然のように話の中へ混ぜ込んでくるため、つい尋ねられずにいた。

 相手が黙っている事で了解を得たと思ったのか、赤城は軽い会釈をしてこちらへ背を向けてしまった。このまま歩き出されると、次に質問のタイミングを見つける事は難しくなるだろう。

 撫子は意を決して、「その事なんですが」と切り出した。


「すごく今更で尋ねにくいんですけど……どなたですか? その、霧島さんって」


 一歩踏み出しかけていた赤城が、その動きをぴたりと止める。

 まさか訊いてはいけない事だったのだろうか。撫子は気を揉んで一歩後ずさった。

 だが予想に反し、振り向いた彼は少し困惑したような表情をしていた。


「……撫子様は、よくご存知のはずなのですが」


 その言葉に、撫子は眉を寄せて小さく首をかしげた。何だか互いの間に、認識のズレが生じているような気がする。赤城もそれに気づいたようで、柳眉が訝しげな皺を作っていた。彼はそのまま口内でいくつか言葉を転がしていたが、何らかの解決を見たようで、

 

「いえ、憶えていらっしゃらないのでしたら詮無い事ですね」


 独り言のようにそう呟いた。何だか置いてけぼりにされたようで、撫子は釈然としないものを感じる。するりと平静な表情に戻り、気を取り直したように赤城は言った。


「霧島様は、この鳴神ヶ里を治める一族の長子にあたる方です。昨晩撫子様を助けられた方でもあり、私はもう十年ほどお仕えさせて頂いています」

「……つまり、偉い人なんですね?」


 先程からどうにも引っかかる。撫子は首をひねった。

 そんな人物、いや妖怪が、どうしてああもタイミング良く撫子を助けてくれたのだろう。ますます疑問は膨れるばかりだ。


(まあ、人でも妖怪でもどっちでも同じか)


 昨日の『猿犬』のような余程の化け物でない限り、今なら対処出来る気がする。

 その反応こそが異常である事に気づき、撫子は浮かびそうになった苦笑を噛み殺した。昨日今日の出来事だというのに、既に順応しかけている。自分を守ろうとする本能が働いているのだろうか。

 撫子は少し視線を持ち上げ、赤城の顔をまっすぐに見つめた。


「後で霧島さんに会わせてもらえませんか? 助けて頂いたお礼を言いたいんです」

「無論、いずれご挨拶頂くつもりでした。ですが……」


 赤城は思案顔をしてみせた。琥珀色の視線を辿ると、撫子の背後の壁ではレトロな掛け時計が律動している。知らぬ間に結構な時間が過ぎていたらしく、針の位置は既に午後五時を過ぎていた。

 赤城は腕組みし、頬に手を当てて考え事の姿勢を取った。その仕草が、妙に様になっていた。


「この時間だと、まだお休みになっておられるかもしれません」

「……えっと、その霧島さんって吸血鬼か何かですか?」

「当たらずとも遠からず、です」


 撫子は半ば呆れ気味だったのだが、赤城の返事はあくまで真面目だった。とは言え、撫子もほとんど夕方まで眠っていた身なのだから、どうこう指図出来る立場でもない。

 どう反応したものかと撫子が迷っているうちに、赤城はお手本のような歩き方に戻って行ってしまった。撫子が慌てて墨色の背中について行くと、彼は数歩の場所で立ち止まり、脇の台を指す。


「こちらになります」

「く、黒電話……」


 赤城が示した台には、艶々と光沢のあるレトロな電話機が鎮座していた。

 撫子は生まれて初めて見る黒電話に一種の感動を覚えながら、大きなダイヤルに指を掛ける。数字盤の回るじいじいという音は、聞き覚えがないにも関わらずどこか懐かしい。使い方の確認を兼ねて赤城を伺うと、彼は無言のままこくこくと頷いた。

 撫子は受話器を耳に当て、大人しく誰かが電話を取るのを待った。出るのは由紀か、それとも京助だろうか。ひょっとしたら赤音叔母さんかもしれない。声が聞こえる瞬間が待ち遠しいような疎ましいような、不思議な気分だった。

 しばらくどぎまぎとした胸を抱えてそうしているうち、撫子はおかしな事に気がついた。

 

「あれ? 出ないな……」


 呼び出し音がいつまでも止まないのだ。撫子は受話器を持ったまま首をかしげた。

 あちらからすれば撫子は行方不明になっている訳だから、警察にでも行っているのかもしれない。まさか娘が妖怪の棲む場所で保護されているなど、どこの親が思うだろう。ということは、事件扱いになっているのだろうか。

 出来れば留守番メッセージを残したかったが、呼び出し音が響くばかりでいつまでたっても電話取次の声は聞こえてこない。

 撫子は諦めて受話器を置き、赤城に向き直った。


「せっかくお借りしたのにすみません。家に誰もいないみたいです」

「では、先に霧島様のところへ参りましょうか」

「いいんですか?」


 撫子が驚き問うと、赤城は頷いた。


「霧島様が望まれたお客様なのですから、たとえお休みだったとしても起きてこられるでしょう」

「……ご迷惑ばかりおかけしてすみません」

「いいえ、全く」


 撫子がしょげたように俯くと、赤城は気に留めない様子でかぶりを振った。しかしあまり表情が揺れないのが彼の普通であるようなので、あまり内心は分からない。そのまま赤城は「支度を」と先程歩いてきた廊下を戻り始める。

 大人しく彼に続いて飴色の廊下を歩き始めた時、撫子の頭にある疑問が浮かんだ。撫子は一歩前の赤城の隣に立ち、相手の顔を覗き込むようにして尋ねる。


 「ところで、その霧島さんってどういう方なんですか?」


 一種の好奇心と警戒心が入り交じった質問だった。

 昨晩気を失う前、撫子は確かに誰かの声を耳にしている。その声の主が『キリシマ』で間違いないのだろう。それにしても、


(どうして「おかえり」だったんだろう)


 撫子は内心首をひねっていた。

 赤城は先程、撫子が『キリシマ』を知っているはずだと言った。『キリシマ』自身が撫子を客として望んだのだとも。けれど、偶然この状況に流された撫子がそんな人物を知っているはずもない。ひょっとして、人違いでもされているのか。だとすれば、さっさと誤解を解いてしまわなくてはならないだろう。

 すると赤城は、朽葉色の髪をさらりと揺らしてこちらを見た。無表情とはまた違う、真面目な顔だった。

 赤城はきっぱりとした声で言った。


「鬼です」


 どこか遠い場所から、雷の轟く音が聞こえた。

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