表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/10

5. 行儀のいい獣たち

「なるほど。おっしゃる事はよく分かりました」


 赤城曰く、現在は午後四時半を過ぎた頃らしかった。依然として止まない蝉の声が、一層蒸し暑さを強調してくる。軒に吊るされた風鈴のつつましい音だけが、わずかな涼しさを感じさせた。先程寝かされていた所とは違う和室に通された撫子は、出された緑茶を静かに啜る。冷たい新緑の香りが喉を滑り落ちていった。

 一服して、撫子は口を開く。


「信じられません」

「そうですか」


 向かいに座る赤城の声はあくまで冷静で、表情にも特に変化は見られなかった。撫子は墨色の着物を着こなした目の前の人物をじっと見つめる。赤城はその視線にも涼しい顔を崩すことなく、平然と背筋を伸ばして座っていた。


 昨晩から撫子の面倒を見てくれたらしい彼、赤城はなかなかに謎めいている。全体的に日本人離れした色合いに対し、地味な着物を纏っているのはまだいい。どう見てもこの家に赤城以外の人間がいないのに、眠っている間に撫子が着替させられている件も割愛しよう。問題は、今しがた赤城が語った内容だった。

 撫子は再び湯呑みの緑茶を啜り、中身を空にする。


「あえてもう一度言います。信じられません」

「信じる信じないは撫子様のご自由ですが、私がお話した事は全て事実です」


 淡々とした口調に、撫子は愛想笑いしてみせた。

 赤城の『お話した事』は、それほど信じがたいものだった。


 曰く、ここ鳴神ヶ里は妖怪のみが棲んでいる特別な土地であり、目の前にいる人物、赤城もヒトではない。そして撫子は、昨晩悪い妖怪に襲われているところを彼の主に助けられた。


 普段の撫子なら、笑い飛ばすか赤城の正気を疑うかのどちらかだっただろう。その位あり得ない話だ。しかし実際に撫子は化け物に襲われて失神した挙句、ここに座っている。

 現実と幻想の板挟みになり、撫子は大きくため息をついた。


「正直言って、出来の悪い漫画みたいな話ですよね」

「漫画を読まないのでよく分かりません」


 撫子がわずかに皮肉な調子を交えて呟くと、赤城はどこかズレた言葉を返した。その返事に撫子が苦笑いする間もなく、彼は青丹の湯呑みに目をやって、「代わりをお持ちします」と腰を上げる。赤城は客が遠慮するより前に、流れるような動作で陶器を下げた。

 撫子は何となく居心地の悪さに身動ぎして、ぺこりと会釈で応える。赤城のそつのない仕草を見送り、襖がきっちり閉じられたことを確認して、彼女はようやく肩から力を抜いた。両手を後ろの畳につき、天井を仰ぐ。馴染みのない木目をぼんやりと眺めてから、撫子は静かに目を閉じた。


「……疲れた」


 ここ一日だけで自分の置かれた状況が目まぐるしく変わり、頭がパンクしそうだった。実は養子だったと告げられ、化け物に襲われ、そして自称妖怪の青年に拾われ。もうどうにでもなれと思いたいところだが、既にどうにかなってしまっている。意図せず『嫁ぎ』の途中で姿をくらましてしまった事を思い出し、撫子はゆっくりと目を開く。


「お母さん、心配してないかな」


 ぽつりと水滴のように唇から言葉が零れた。叔母の赤音辺りならむしろ面白がっているのかもしれないが、京助と由紀はそうもいかないはずだ。そう思いたい。


「……後で電話貸してもらおう」


 そう呟いて再び目を閉じようとした矢先、赤城が出て行った襖の反対側から犬の吠える声がした。昨晩のトラウマもあり、撫子は反射的にびくりと体を震わせる。念のため襖側へ擦り寄ってから音の方を見やってみると、いつのまにか蝉が鳴き止んだ庭先では二匹の犬が走り回っていた。赤城の飼い犬だろうか。二匹の方では先程から撫子に興味津々だったらしく、こちらが気づくやいなや、縁側を飛び越えて室内へと走りこんできた。


「きゃあっ!?」


 慌てて逃げようとした拍子に、撫子は畳で手を滑らせて倒れた。無様に突っ伏した撫子の傍に、朽葉色の獣たちが寄ってくる。すわ噛まれるかと覚悟した撫子だったが、その白い頬に触れたのはざらざらとした温かい感触だった。


「……へ?」


 撫子は固く閉じていた目を開く。一度観念してしまった分、拍子抜けの感が大きかった。こちらの脱力を知ってか知らずか、子犬たちは撫子にじゃれついてくる。撫子は慎重に起き上がると、自身の周りで大騒ぎしている二匹を眺めた。

 小さな体を覆う毛は、濃い朽葉色だ。少々目はつり上がっているものの顔は愛らしく、少なくとも昨日の『猿犬』とはずいぶん違っている。恐る恐る指を差し伸べてみると、二匹は競うように撫子の指を舐めた。


「か……可愛い……!」


 思わず感嘆のため息を漏らし、相好を崩す撫子。元々動物嫌いという訳ではないし、疲れた心と身体に小動物の可愛さは格別だった。ふわふわの二つの毛玉は、見知らぬ少女の内心を知っているかのように撫子にじゃれついてくる。

 撫子がぷるぷると唇を震わせたまま子犬たちを抱き上げようとした時、しかし背後から待ったがかかった。


愛宕(あたご)愛鷹(あしたか)、下がれ」


 まるで少年のような声が聞こえた瞬間、名前を呼ばれた二匹はその場に縮こまってしまった。撫子が驚き振り向くと、開け放たれた襖の手前には厳しい表情の赤城が立っていた。彼の手には湯呑みの乗った盆が抱えられていて、その妙な生活感のせいか、何となく母親が子供を叱る光景を思わせた。

 撫子が半ば唖然としていると、仁王立ちの赤城はしょげた様子の二匹を続けて絞る。


「土足で上がるなと何度言えば分かるんだ」


 愛宕、愛鷹と呼ばれた子犬たちは、ますます沈んだ様子で哀れっぽく鳴いた。

 赤城が「もういい、行け」と追い払う仕草をすると、二匹は耳を垂れ下げたまま縁側を飛び下りて行く。片割れが走り去る一方で、愛宕と愛鷹のどちらかが振り向いて撫子の様子を伺ってきた。撫子が戸惑いながら小さく手を振ると、その一匹は尻尾を振ってから庭を駆けて行ってしまった。撫子はその仕草に再びほころびかけたが、赤城がこちらを向いたので慌てて表情を取り繕う。

 赤城はため息まじりに撫子へ青丹の陶器を出し、深々と頭を下げた。


「弟たちが粗相をいたしました」

「いえ、そんな……弟?」


 相手の謝罪の言葉が引っかかり、撫子は首をかしげた。今の台詞を犬が言うのであればまだしも、赤城には尻尾も無ければ獣の耳がついている訳でもない。

 犬をまるで家族のごとく言う赤城に、撫子は尋ねた。


「弟って、あの弟ですよね」

「同じ親から生まれた年下の男子です」


 辞書で引いたような赤城の返事に、撫子は笑うべきか困るべきか分からなくなった。とりあえず真面目な表情を保つ事に決めて、少し前から抱いていた疑問を口にする。


「さっきも思ったんですけど、赤城さんはどう見ても人間ですよね」

「化けています」

「化け……」


 予想外のファンタジックな返答に、撫子は思わず絶句した。否、実際に赤城や先程の子犬──赤城によれば弟──たちが妖怪なのであれば、あるいは不思議ではないのかもしれないが。

 撫子が黙っていると、その沈黙を疑問と受け取ったらしく、赤城は真顔で更に続けた。


「普段から獣の姿では、何かと不便ですので」


 赤城の言い草は、まるでそれがごく当たり前であるかのようだった。撫子はしばらく瞬きを繰り返して、困ったように笑う。僅かに眉間に皺を寄せた赤城に、撫子は苦笑を交えたまま髪に指を絡めた。そのまま、呟くようにぽつりと漏らす。


「何て言うか……世界って広かったんですね」


 今度は赤城が首をかしげる番だった。


「妖自体の存在は、否定されないのですね」

「いえ、それが意外と驚いてない自分がいるんです」


 彼の目は、探るかのようにこちらへと向けられている。射抜くようなと表現して差し支えない視線に、けれど撫子は悠然と笑ってみせた。開放された黒髪がはらりと肩に落ちる。


「昨日実物を見ちゃったっていうのもあるんですけど」


 撫子の微笑が、自分にしか分からない小さな苦笑へと変わる。その変化が理解出来なかったのか、赤城の端正な顔に疑問の色が混ざった。

 撫子はふっと息を吐き出し、なだらかに言った。


「これも一つの現実だと思って受け入れた方が、自分の為にもいいと思って」


 全部否定して拒絶するより、いっそ飲み下してしまった方が楽なのだ。それが一種の現実逃避であることは分かっていたが、撫子ははっきりとそう言った。

 全て信じる。それが、昨日からショックの連続に晒された撫子の結論だった。

 別に赤城がそんな答えを求めていた訳ではないとは分かっていたが、意外にも更なる質問は投げかけられない。見ると、赤城は琥珀色の双眸でまじまじと撫子を見つめていた。


「撫子様は変わった方ですね」

「自称妖怪さんに言われたくありません」


 赤城の率直な感想に、撫子もあっさりと答える。ほんの短い間、沈黙が部屋に入り込んだ。風鈴の涼やかな音色をきっかけに、再び音が戻ってくる。撫子は小さく噴き出して、口元を覆った。それを眺める赤城の表情も、僅かに和らぐ。あるいはそれが、彼の微笑なのかもしれなかった。

 まだまだ照り続ける太陽が、少しずつオレンジを帯び始める。遅い夏の日の入りが、ゆっくりと近づきつつ合った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ