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4. 鳴神ヶ里

 真夏だというのに、背中を冷たい汗がつたう。撫子は目の前の光景が信じられず、力なく首を振った。ほんの数分前まで、こんな所に霧は出ていなかった。それに、鳴神ノ森に霧が出た話など聞いたことがない。けれど、その青白い濃霧は確かにそこにあった。

 撫子は急な不安に襲われ、石段を中程まで駆け下りた。踏み外しそうになりながら、白い周囲を見回す。ほんの短い距離なのに、下にいるはずの由紀の姿が見えない。それ程、この不気味な霧は濃いのだ。慌てて頭上を見上げる。先程までその存在を誇示していた満月ですら、朧に霞んでいた。


「そんな……ありえない……」


 震える小さな呟きは、あっさりと白い壁に飲み込まれてしまう。

 それとほぼ同時に、いきなり石段脇の茂みがざわざわと蠢いて、撫子は更に降りかけていた石段を一歩後ずさった。怪しげなその音は次第に近づいてくるようで、撫子はじりじりと後退を余儀なくされる。うなじを焦がす恐怖に耐えきれず、撫子は叫んだ。


「誰っ!?」


 答えの代わりか、低い唸り声のようなものが辺りに響いた。撫子は圧されるように石段を後ずさり、茂みを睨みつけた。そこに何かいるのだ。山猫か野良犬の類だろうか。狸かもしれない。いずれにせよ、相手が見えないという事は酷く恐ろしかった。

 幸か不幸か、答えはすぐに分かった。真っ黒に見える茂みが最後に一際ざわめいて、『それ』を吐き出したからだった。濃霧に四つ這いで現れた『それ』は、山猫でも狸でもない。『それ』は、薄汚れた犬の姿をしていた。しかしその体についている首は、愛らしい犬のそれではない。醜悪な猿、いや、人間の顔だった。こちらを向いた『それ』はにたりと嫌らしく笑い、撫子へと躙り寄ってくる。


「コンバンハ。コンバンハ」

「ひっ……」


 まるで動物の鳴き声を集めて合成したような、奇妙で耳障りな声だった。撫子は息を呑み、とにかく怪物から逃れようと走りだした。『それ』が人間のような笑い声を上げる。草履で上手く走れない撫子を嘲笑うかのように、『それ』はゆっくりと追ってきた。


「ちょっと、来ないで……、来るな、来るなってば!」


 走る途中、一度だけ振り向いた撫子は、その行為を酷く後悔して悲鳴を上げた。人面の犬はにたにたと笑いながらこちらへ近づいて来ている。「お前が上手く走れないのは知っている」とでも言いたげだった。何とか石段を上りきり、目前の社を目指して懸命に駆ける。あの中へ逃れれば、何とか『あれ』を締め出せるかもしれない。けれど着慣れない紬が足に絡まり、撫子は石の床に倒れ込んでしまった。そんな僅かなタイムロスの間にも、化け物はどんどん近づいてくる。


「逃ガサナイ。逃ガサナイ」

「嫌ぁ!!」


 もう、裾に泥が撥ねることなど気にしていられない。必死で起き上がった撫子は社の外れ、林の中へと駆け出した。右の草履が脱げてしまったようで、丈の短い雑草が足の裏に刺さってくる。夜の林は灯りなど一つもなく、ただ勘で抜け出すしかない。けれど撫子にとっては、その暗さや得体の知れない虫よりも、あの人面犬の方がよっぽど恐ろしかった。


(『あれ』に捕まったらまずい)


 そんな確信があった。撫子は汗を拭う事も出来ず、ひたすら木と木の間を抜けようと試みる。けれどついに、日陰のぬかるんだ土が撫子の足を捉えた。今度こそ足を挫いてしまった撫子は、絶望に唇を噛んだ。体に押し潰された草が青臭い匂いを放つ。ひりひりとした痛みからして、顔にも擦り傷が出来ているのだろう。撫子はそれでも這いずって逃れようと、腕を思い切り伸ばす。


「遊ボ。遊ボ」


 しかし、ついに追いついた異形の犬が灰色の舌をだらしなく垂らし、喘ぎながら撫子にのしかかってきた。その口からは何かが腐敗したような、とても嫌な臭いがした。

 殺される。今まで意識した事のない、そんな恐怖感が体を駆け巡った。撫子はもはや叫ぶ事すら出来ず、ただ死の予感に震えていた。


 どうしてこんな事になってしまったのだろう。ほんの数時間前までは、十七歳になる喜びと珍しい経験を間近に控えて、ただ無邪気でいられたのに。そこに危険はなく、恐怖もなかった。


 少なくとも、“父”と“母”に愛されていると信じていた。

 

「誰か助けて……」


 撫子はぼろぼろと涙を零しながら、今まさに食い千切られそうになっている喉で、懸命に声を絞り出す。怪物はその言葉の意味が分かっているのか、にたにたと笑いながら口を開いた。


(駄目だ、殺される)


 撫子は絶望と諦めに目を瞑った。せめて、化け物の姿を見ずに死にたかった。恐ろしい臭いのする吐息が顔にかかる。何故か、縁日で売っているような狐の面が心に浮かんだ。

 その時だった。空気を切り裂く、鋭い音が聞こえた。同時に耳をつんざく悲鳴が聞こえ、撫子は思わず目を開いた。胴に跨っていたはずの『それ』が消えている。疑問に体を起こそうとするが、体に力が入らない。目だけで辺りを伺うと、頬に何かが触れた。撫子は反射的に体を硬くする。けれどそれは撫子を傷つけるのではなく、そっと擦り傷を撫でるだけだった。どうやら男性らしい声が耳に届く。


「おかえり、撫子」


(……誰?)


 土と草の臭いが遠ざかり、誰かに抱き起こされたのだと分かる。暗がりで相手の顔はよく見えない。ただ体に感じる温もりだけが優しかった。ひとまずの安心と脱力のせいか、口を開きたいのに目の前がどんどん暗くなっていく。

 そこで撫子は、意識を手放した。



***



(蝉が夜に鳴くはずないのに)


 ぼんやりと覚醒した撫子が、まず考えた事がそれだった。夜に聞こえるはずのない暑苦しい鳴き声は、けれど間違いなくどこかで合唱している。有り得ない状況に、撫子は慌てて身を起こした。同時に布団が上体から滑り落ち、イグサの匂いが鼻をつく。

 撫子がいたのは、知らない和室だった。旅館のような広い和室に敷かれた布団。そこに撫子は寝かされていたようだった。ますます有り得ない。もしかして、まだ夢の中にいるだろうか。混乱しながら撫子は立ち上がる。欄間から入り込む光は、明らかに昼間のそれだった。ついでに目に入った自分の服のせいで、撫子の頭上に浮かぶクエスチョンマークはどんどん増えていく。今撫子が着ているのは、泥で汚れたベージュの紬ではなく、薄青色の清潔な浴衣だった。

 つまり撫子は寝ている間にここへ運ばれ、しかも誰かに着替させられたという事だ。


「……誘拐?」


 ニュースでお馴染みの単語を、口に出して確かめる。同時に「まさか」という思いが沸き上がったが、しかし疑うというなら『あれ』の方が先決だろう。撫子は痛む頬にそっと触れた。その鋭い痛みは、昨日の出来事が間違いなく現実なのだと思い知らせてくる。じんじんと騒ぎ始めた感覚を出来るだけ無視し、撫子は和室の襖をそっと開けた。眩しい光に目を刺され、撫子は慌てて額に手をかざした。

 撫子が立っているのは、この建物の縁側らしい。典型的な日本の庭に生い茂る木々には、数匹の蝉がしがみついて絶叫していた。その大合唱に混じって小さな足音が聞こえ、撫子は慌ててそちらを向く。木製の雨戸が全開にされた廊下の先には、一人の人物がかなり驚いた表情で立っていた。撫子はあっけに取られ、その人影を見つめる。


 その痩身の人物は衣服こそ地味な着物だが、かなり日本人離れした外見をしていた。見開かれた双眸は琥珀色だし、ウルフカットの髪は朽葉色をしている。その整った顔は、凛々しいという言葉がぴったりだろう。どこからか、僅かに獣の臭いが流れてくる気がした。

 撫子はまず日本語が通じるかどうか迷ったのだが、唇から溢れる少年のような声は、撫子の耳に慣れた言葉だった。


「……随分、早いお目覚めですね」


 一瞬、嫌味かと緊張した。けれど相手は本当に驚いた顔をしている。その姿に見とれたのもつかの間、我に返った撫子はずんずんとその人物に歩み寄った。謎の人物が戸惑っている内から、焦りのためどうしても逸りがちな言葉を投げかける。


「拾っていただいたようでありがとうございます。いきなり失礼ですが、あなたは誰ですか? 私はどうしてここにいるんですか? そもそも、ここはどこですか?」

「落ち着いて下さい。順に説明しますから、一度に答えろというのはご容赦を」

「……すみません」


 詰め寄られた相手は、撫子を宥めるジェスチャーつきでそう言った。まるで子供をたしなめるかのような口調に、撫子はむっつりと口をつぐむ。

 確かに食って掛かるような真似をしたのはこちらの非だが、そもそもたった今まで意識を失っていて、自分がどのような状況に陥っているのかすら分からないのだ。少しくらい、配慮してくれてもよさそうなものだ。

 しかし相手は大して気にする様子もなく、「最初に」と右手の人差し指を立てた。


「私は赤城(あかぎ)と申します」


(あかぎ、さん)


 撫子は心の中で復唱する。古風な響きからして苗字だろうか。赤城と名乗る人物は続けて中指を立て、ピースサインに似た手の形を作る。


「昨晩あなたが猿犬(さるいぬ)に襲われている所を、私の主が助けました。あなたは今、主の客人としてここにいます」


 猿犬というらしい化け物の姿を思い出して、撫子は鳥肌の立つ腕を撫でた。あの不気味な姿や笑い声、腐敗臭は脳裏にはっきりと刻まれている。濃い死の気配を思い出した撫子を一瞥し、赤城は三本目の指を立てた。


「そして最後にこの場所ですが」


 話の間に一拍挟まれ、撫子は思わず息を呑む。少年のような声が紡いだのは、聞き慣れない地名だった。


鳴神ヶ里(なるかみがさと)、といいます」

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