3. 短刀と薬指
「へえ、中々似合うじゃない」
撫子が慣れない着物に苦労しながらリビングへ戻るなり、ビールを片手に目を眇めた叔母がそう評した。当然その後には、「体つきがちょっと貧相だけど」と余計な一言がおまけされていたが。
今日に限ってやけに興味津々らしい夕刊から、京助が顔を出す。視力の低い父にも見え易いよう、撫子はマネキンの真似に徹した。京助はべっ甲縁の眼鏡を押し上げ、ぼそりと呟いた。
「サイズが合っていてよかったな」
「もう少し、褒めるか何かしてあげてよ。着物なんて滅多に着ないんだから」
夫のコメントに対し、由紀が不満げに口にした言葉はどうしようもなくズレていた。大人達にばれないよう、撫子は小さなため息をつく。
(さっきまで家族だったのに)
十七年、いや十二年間一緒に過ごしたはずの二人が、まるで知らない他人にしか思えなかった。ほとんど投げやりになって、シックなデザインの時計に目をやる。短針は既に、十一へと近づきつつあった。そろそろ神社へ向かう時間だ。撫子が遠慮がちに肩をつつくと、腕組みしていた由紀が手を打ち合わせた。何か思い出す事があったらしい。
「いけない、まだ草履出してなかったわ」
「玄関まで送ろう」
慌しく玄関へかけ出す妻をしり目に、京助が腰を上げた。よっこいしょ、という声がやけに年寄りじみて聞こえる。そんな些細な事ですら、今は溝を感じさせた。撫子は一瞬ぎゅっと目をつぶって、無理やりにはにかんで見せた。
「うん、ありがとう」
特に嫌がらず、喜びもせず、四十代の父を持つ女子高生らしい返事を心がける。京助の申し出に対して、無邪気に笑う事すら出来ない。仮面を被っているような気がした。
こちらは見送る気がないらしく、赤音がソファから手をひらひらと振る。
「行ってらっしゃい、カッコウちゃん」
「赤音ッ!!」
京助の怒声を他人事のように聞き流して、撫子はリビングの扉を押し開けた。玄関では草履の箱を手にした由紀が、娘を待ち構えて微笑んでいる。
カッコウ。托卵をする鳥。本当の親には育てられず、偽物の親に寄生する鳥。叔母の雑言は言い得て妙なのかもしれなかった。この短時間ですっかり淡白になってしまった自分を滑稽にすら思いながら、撫子は玄関の段差に腰掛ける。隣に立っている京助の声が、頭上から降ってきた。
「くれぐれも気をつけるように」
「……はい」
クリーム色の草履に足を通しながら、小さな声で答える。撫子は“父親”の目を見る事が出来なかった。京助もまた、無理に視線を合わせようとはしなかった。
撫子はとんとん、と普段の靴を履く要領で踵を合わせて立ち上がった。振り返り、指先を揃えて頭を下げる。
「じゃあ、行ってきます」
自分も出る準備をしている由紀の左で、京助は重々しく頷く。その仕草すら、どこかわざとらしかった。
***
決して明るくない田舎の夜道に、ずるずると草履を引きずる音が響く。撫子と由紀の足音だ。神社への道にある家々は、揃って軒先に提灯を下げている。撫子の『嫁ぎ』のためだ。暗い夜道に人影は少ないが、出会う近所の老人たちは必ず同じ台詞を口にした。
「どちらへ?」
「守り神様の元へ。これから嫁ぎに参ります」
撫子も軽い会釈と共に、事務的な言葉を返す。そう答えるのも、行事の決まりごとに含まれていた。すれ違った背中からは、決まって「大きくなったもんだねえ」と声が聞こえる。規則でもないのに共通しているそれに、撫子は噴き出しそうになった。道端の草陰では、相変わらず夏虫がころころとうるさい。隣を歩く由紀が、のうのうと口を開いた。
「田舎の月は大きいのね」
「そう?」
撫子は重い肩に苦心しつつ、つられるように空を見上げた。射干玉の空に浮かぶ月は確かに丸くて大きい。けれど。
「田舎とか都会とかって、関係なくない?」
「どうかしらね」
そんな他愛もない会話を交わしていると、いつの間にか赤い門は目の前だった。撫子は、由紀にそっと目配せした。鳥居の奥に作られた、約二十段の石段が神社の入口だ。ここからは撫子一人になる。お情け程度の電灯しかない石段は、はっきり言って恐ろしい程に暗い。
撫子は由紀に向き直り、低く頭を垂れた。
「十七のこの時までを育てて頂いたご恩は、決して忘れません。これより撫子は、守り神様の元へ嫁ぎます。どうかどうか、お達者で」
かつての村娘を模した文句は、これもあらかじめ決められているものだ。撫子は精一杯感情を込めず、それを言い切った。梳いた髪が無駄に揺れないよう、注意深く頭を上げる。こちらを見つめる由紀の体が小さく震えているのは、見ない振りをした。
由紀に言われた通り爪先に重心をかけ、撫子はゆっくりと石段を上り始める。ちかちかと頼りない電灯を横目に見ながら、何となく思い出したのは叔母の悪口だった。
(誰とも知れない雌狐の子、だって)
撫子の唇は、知らず知らず笑みの形に歪んでいた。
雌狐の子。まるでドラマの典型的な悪役の台詞だ。もし赤音叔母さんが女優だったら、昼ドラの嫌な女を任されるに違いない。きっとはまり役だ。
(この泥棒猫、なんてね)
そう長くはない階段は、既に中程に差し掛かっている。撫子は、ふと自分の頬が濡れている事に気づいた。
「……あれ?」
見上げた所で、満月が力いっぱい睨み返してくるだけだった。雨雲など、影も形もない。そこでようやく、撫子は自分が泣いている事に気づいた。
一度涙だと知ってしまえばそれは止まらず、一筋二筋と頬から顎を流れ続ける。半襟に雫が染みこんだところで、撫子は初めて嗚咽を漏らした。袖で涙を拭く訳にもいかず、ぼろぼろと涙が溢れ続ける。
実子でないと知らされて悲しかった。叔母の悪口が痛かった。両親の沈黙が怖かった。そして何より、先程まで無邪気に生きていた自分が羨ましかった。
「……っく」
泣き声を何とか押し殺し、撫子はたどり着いた社を見つめる。どうせ十分もかからない儀式だ。赤くなった目は暗がりで誤魔化すとして、少なくとも帰りまでに濡れた顔を何とかしなくてはならない。撫子は焦燥感に襲われながら、濡れた口元を親指できつく拭う。そして懐から、あらかじめ持たされた短刀を取り出した。
守り神は、娘を娶る前にある物を求めたらしい。それが、娘の薬指とその血だったそうだ。たちの悪い神様だ、と撫子は思う。血を要求するなんて、神というより妖怪だ。もちろん、今ここで薬指を切り落とす訳ではない。そんな風習があったら、今頃大騒ぎだ。あくまで形だけ、薄皮一枚切って血を流せばいいらしい。それだけでも、結構痛そうだが。
撫子は質素な木製の鞘から、月光を受けて光る刃を抜き出した。守り神に語りかける言葉だとされる文句を口にしながら、短刀をじっと見つめる。
別に今飢饉に襲われている訳ではないから、『嫁ぎ』の際には何でも好きな事を願っていいらしい。例えば玉の輿だとか、世界平和だとか。けれどこの辺りで大富豪と結婚した話など聞いた事がないし、ニュースでは依然として事件、事故が報道され続けている。
どうせ誰も聞いていないのだから無言で構わないのだが、撫子の心には泡沫のように、ある願いが思い浮かんでいた。
(このまま)
このまま、どこかへ消えてしまいたい。
教わった通り左手の薬指に短刀を押し当てつつ、そう口に出しかけたその時だった。
──「おまじない」
本当に何となく、右でなくてはいけない気がした。撫子は短刀と手を見つめる。返事代わりに、きらきらと刃が照り返した。
(まあ、一瞬の事だし。左右くらい別にいいか)
何故右なのだろうと自分でも疑問に思いつつ、撫子は柄を持ち替える。鋭い痛みに備え、大きく息を吸い込んだ。そして白い指に短刀で線を引き、呟く。
「このまま、どこかへ消えてしまえますように」
薬指の付け根に近い位置からぽたりぽたり、一滴二滴と赤い雫が滴り落ちる。敷石を汚すそれを、撫子はしばらく見つめた。当然、何も起こらない。ややあって、撫子は小さな笑い声を上げた。大昔の迷信にすら縋ろうとした自分がおかしくて、だ。普段なら、夏の心霊番組すらフィクションだと笑って見ているのに。
あっけない行事より、今は泣いた跡の始末の方が重要だった。由紀と京助は見て見ぬ振りをしてくれるかもしれないが、あの叔母はそうもいかないだろう。
(とりあえず、濡れた所は何とかしないと)
猫のように、手の甲でごしごしと顔をこすって社に背を向ける。
それと同時にうなじが泡立ち、撫子はその場に立ち止まった。青ざめた幼げな顔は、信じられないといった風に目の前の空間へ向けられている。
「何、これ……」
さっきまで何も無かったはずの目前は、青白い濃霧で覆われていた。