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2. 『嫁ぎ』

「撫子ももう十七歳か……。私も年を取る訳だわ」


 両手を挙げるよう促しながら、由紀がそんな事を言った。撫子は答えず、黙って左右に腕を伸ばす。撫子はこれから行なわれる『嫁ぎ』の為、由紀に着物を着せてもらっているところだった。一人では着物を畳む事すらままならないので、裾よけと肌襦袢だけ身につけた後はされるがままになっている。


 『嫁ぎ』というのは、鳴神ノ森周辺に残る一種の儀式だ。

 この辺り一帯には、大昔に飢饉が起こった時、ある娘が山に棲む守り神に嫁ぐ事で村を救ってもらったという伝説がある。その言い伝えを模して、鳴神ノ森周辺で生まれた女子は十七歳になると木綿の着物に身を包み、山上の神社に行ってちょっとした儀式を行なわくてはならないのだ。

 その為、今日で十七歳になる撫子は、普段暮らしている都市部から父の実家へ帰ってきたのだった。ちなみに今着せられているベージュの紬は、祖母が昔使った物らしい。多少古ぼけてはいるものの汚れてはおらず、撫子は結構気に入っている。浴衣すら滅多に来ない身からすれば貴重な体験だ。


 母の作業はてきぱきと進み、さっきまで肌着だけだったはずの体は見る見る完成へと近づいていく。撫子が隣に置いてある姿見に目をやろうとすると、すかさず由紀の注意が飛んだ。


「撫子、ちょっと背筋伸ばして」

「あのさ、おか……」


 お母さん、と呼びかけたところで撫子は口を噤んだ。先程の叔母の話を聞いた後では、そう呼ぶ事が何となく躊躇われた。けれど母は娘の言葉に気づいたようで、裾を直している足元からは「なあに」と暢気な声が帰ってくる。撫子はごくりと唾を飲み込み、静かに切り出した。


「さっきの話なんだけど」

「義姉さんの言う事は気にしなくていいの」


 床に膝まずいている母の声は、硬い上に随分と早かった。そろそろ小皺の出始めた顔の色は悪く、動揺がありありと見て取れる。微妙に暗い照明の部屋では、それがより一層目立った。再び苦しくなりそうな呼吸を抑え、撫子は声を絞り出した。


「赤音叔母さんの言ってた事、本当なの?」


 真っ暗な庭では、夜の夏虫がちりちりと合唱している。うるさい程のその音に、撫子は耳を塞ぎたくなった。ややあって、消え入りそうな由紀の声が耳に届く。


「本当よ」


 返事をする代わりに、撫子は口内を強く噛んだ。歯を突き立てられた場所から鉄臭い血がじわりと滲み出す。暑さと緊張感のせいか、やけに喉が乾いた。

 撫子は水分を欲しがる喉を無視して、悲しさより先に湧き出した疑問を口にする。


「何でもっと早くに言ってくれなかったの」

「あなたがもっと大きくなってから言うつもりだったのよ」


 娘を思い遣ったらしい母の言葉も、今は言い訳にしか聞こえなかった。突然過ぎる事実に泣くことも出来ない。いっそ激情に身を任せて母をぶちたいとすら思った。

 出来るだけ感情を漏らさないよう努力しつつ、撫子は質問を続ける。


「じゃあ、私の本当のお父さんって誰なの? お母さんは?」

「……お父さんの友達の、福山(ふくやま)誠一(せいいち)さん。母親は……分からないわ」


 由紀が浮かない顔で答える。ややスピードは落ちているものの、その手は相変わらず撫子の着付けを続けていた。

 そんな名前は今まで聞いた事すら無かった。今更見知らぬ他人が父親だと言われても、自覚が湧くはずもない。一気に自分の存在が基盤を失っていくようで、撫子は両手をきつく握り締める。伸びた爪が食い込み、篭るような痛みが手を震わせた。


「どうして、お母さんが分からないの?」

「……あなたが五歳の時、誠一さんがいきなりぼろぼろな姿でうちに来て……、撫子を預かってくれって。理由も何も話さず、そのまま行ってしまったわ。……結局、母親の名前も言わないまま」


──「誰とも知れない雌狐の子だなんて、中々言える事じゃないわよね」


 悪夢のような叔母の声が、脳内に木霊する。

 着物自体の着付けは終えたらしく、帯を取るためこちらに背を向けながら、母は更に続けた。


「撫子、あなた五歳より前の事、ほとんど憶えてないでしょう? うちに来た時からそうだったの」


(もうやめてよ!)


 じわじわと嗚咽が喉元をせり上がってきて、撫子はほとんど逃げ出したい気持ちになった。

 確かに、撫子は五歳以前の出来事をほとんど覚えていない。微かに両親らしき人物の記憶はあるものの、顔がぼやけていて、それが片倉夫妻であるかどうか判別がつかないのだ。けれど幼少時の事など、ほとんどの人間は覚えていないのではないか。

 撫子は昔の話を頼りに、すがるように言った。


「私が四歳の時、プールで溺れかけた所をお父さんが助けたって言ったじゃない」

「……ごめんね」

「二歳の時の話もしてくれた。飛行機を怖がって大泣きして、結局旅行に行けなかったって」

「ごめんね」

「……もっと小さかった時の話もあったじゃない! お父さんが出張ばかりで、私が中々お父さんの事を覚えなくて……おじさん怖いって、いつも泣いてたって」

「ごめんね撫子、ごめんね」


 ラルフ・ローレンのTシャツを着た背中は震えていた。「ごめんね」を繰り返す声も湿っている。そんな母に感情をぶつける事も出来ず、撫子は力なく呟いた。


「……言い訳くらい、してよ」


 由紀は、今度は答えなかった。撫子は腰紐を巻かれたままうな垂れる。「どうして」ばかりが体の中を駆け巡って、おかしくなりそうだった。別に叔母が悪くない事は分かっている。それでも、あの色濃い唇を恨まずにはいられない。年甲斐なく派手な口紅を塗ったあの顔が憎らしかった。

 しばしの沈黙の後、不意に由紀が振り向いた。目元が赤く染まったその顔は、いつもより二三歳も老けて見えた。撫子も釣られるように顔を上げる。母は撫子の胴を抱えるようにして、帯を巻き始めていた。


「義姉さんも、何もあんな言い方しなくてもいいのにね」


 誤魔化すような母の台詞が聞こえる。彼女の中では、話はこれで打ち切りらしかった。撫子は釈然としないまま、内側に篭もるどす黒い感情と一緒に口を閉ざす。最後に淡い朱や辛子、紫色が可愛らしく配置された帯をそっと締めると、由紀は疲れた顔に微笑みを浮かべた。


「よく似合ってるわ、撫子」


 見やすいよう母がずらした鏡を、撫子はそっと覗き込む。

 一応由緒ある行事なので、薄かろうが何だろうが化粧の類は全て落とさなくてはいけない。ファンデーションすら塗っていない顔を眺め、撫子はこっそり眉をひそめた。元々童顔である上にくるんとした短いボブも手伝って、紬を着た自分は十七歳という年齢より幼く見えるのだ。

 せめて今日までに、少しでも髪を伸ばしておけばよかった。

 小さなため息をつくと、何か誤解したらしい由紀が撫子の顔を覗き込んだ。


「きつくない?」

「大丈夫」


 撫子はぎこちない笑みを作って返事をした。

 わざとらしい程いつも通りの会話。他所から見れば、さぞかし気味が悪いだろう。演じている撫子でさえ、そう思う。

 そろそろ下に降りるよう促した後、由紀がそっと撫子の肩に手を置いた。


「例え誰が産んだとしても、撫子は大事なうちの子よ」


(嘘だ)


 耳元で囁くその言葉を、しかし撫子は一瞬で見抜く。鏡に写る母の顔は、決して笑ってはいなかった。ほとんど吐き気にすら転じそうな感情を抑え、撫子は曖昧な笑みを作る。“娘”の内心を知ってか知らずか、由紀は小皺を寄せて微笑み返した。

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