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1. 雌狐の娘

「で、本人にはもう言ったの?」


 熟れたように赤い唇が、煙草の煙と共にそんな言葉を吐き出した。

 夕食後の皿洗いを手伝っていた撫子は、シンクから顔を上げてリビングを窺う。

 キッチンとひと続きになっているそこのソファには、片倉家唯一の喫煙者、撫子の叔母である赤音(あかね)がくつろいだ様子で座っている。

 撫子は、彼女が常に纏っている煙草と化粧品の臭いが苦手だった。口の悪い叔母はいつだって、他人の心をざっくり傷つけるのだ。しかも今夜は酒が入っている。いつもに増して突き刺さる言葉が用意されているのは間違いなかった。


「何の事だ」


 赤音の隣に座っていた撫子の父、京助(きょうすけ)が娘に代わって口を開く。夕刊で隣との壁を作ろうとしている辺り、彼も煙草の臭いが気に入らないらしかった。

 撫子が代わる代わる二人を窺っていると、弟の怪訝そうな眼差しを受けた赤音は、気だるげに短くなった煙草を灰皿にねじ込んで言った。


「撫子が養子だって事よ」

「……え?」


 撫子は思わず泡だらけの手を止め、ぽかんと口を開く。

 一瞬、蛇口から溢れる水音すらも聞こえない無音の時間が出来た。夕刊に顔を突っ込んでいる父も、ちょうど二階から降りてきた母も、等しく黙り込んでいる。

 ただ、鳴神ノ森(なるかみのもり)から吹く東風だけがうるさかった。

 そんな家族を眺め、赤音はふんと鼻を鳴らすとガラステーブルから煙草の箱を取り上げた。流れるような動作で火を点け、美味しそうに煙草を銜えては紫煙を吐き出す。

 呆然としている撫子をよそに、叔母は更に続けた。


「ま、養子じゃ言い方が変かもね。押しつけられた子供なんだから」

「赤音、よせ!」

「何よ、本当の事じゃない」


 京助が紙面越しに怒声を上げた。新聞を持つ両手は僅かに震えているが、影のせいか表情は分からない。弟に叱咤された赤音は、酒臭がするワインレッドの唇を尖らせた。

 皮肉にも息が吸い込めないような苦しさで我に返った撫子は、何とか平静を繕おうと皿洗いを続ける努力をした。顔を伏せてこちらへ歩いてくる母を横目に、かすかに震える声で尋ねる。


「あの、叔母さん。それってどういう……」

「なーんだ、やっぱり言ってない訳? そりゃそうよね。誰とも知れない雌狐の子だなんて、中々言える事じゃないわよね」

「よせと言ってる!」

「うっさいわね京助。何か文句でもあるなら言ってみなさいよ」


(雌狐?)


 二人の口論をどこか遠くに聞きながら、撫子は今や完全に止まった両手を見つめていた。

 それは母、由紀(ゆき)を罵った言葉だろうか。違う。たった今叔母が言った事が本当なら、撫子は片倉(かたくら)京助と由紀の娘ではないという事だ。そしてそれが真実なのかどうかは、二人の沈黙こそが何よりも雄弁に語っていた。

 放置された水道水がシンクに溢れる。それを勿体無いと考える事も出来ない程、撫子は混乱していた。


(私はお父さんとお母さんの子供じゃない?)


 そんな訳がない。けれど、それが嘘だという証拠もない。現に叔母を咎める父も、彼女の言葉を否定はしなかった。

 息が上手く吸えなくなる。心臓の鼓動がうるさい。貧血に襲われた時のように、目の前がちかちかする。

 その時、背中に何かが触れて、撫子はびくりと姿勢を正した。

 振り向けばそこには由紀が青い顔をして立っていた。彼女はそのまま動けないでいる撫子とシンクの間に割って入り、撫子に布巾を押し付ける。


「撫子、そろそろ二階で準備しなさい。もうすぐ『嫁ぎ』の時間でしょう。ほら、手を拭いて」


 不自然な程の早口で促され、撫子はぼんやりとしたまま布巾で手を擦った。赤味を帯びた手の平が妙に小さく見える。濡れ布巾を受け取りながら由紀は蛇口を締め、撫子の背を押した。

 撫子は二三歩よろよろと歩いて振り向く。リビングはいつのまにか静かになっていた。京助は夕刊を大きく広げ、上半身のほとんどを覆い隠していた。当然、表情など分からない。赤音は何がおかしいのか、けらけらと笑っている。


(誰か否定してよ。ドッキリならさっさとフリップを出してよ)


 けれども誰も撫子の望んでいる言葉を口にしてはくれない。

 撫子は完全に色を失った唇を震わせ、蒸し暑い廊下へと出た。

 魔女のようにかん高い叔母の笑い声は、階段を上りかけて尚も聞こえてくる。

 山からの風は嘲るかのように、小さな石を運んで窓ガラスへぶつけていた。

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