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9. 寒気のする愛しさ

title by : 浴槽に椿 (http://callers.xxxxxxxx.jp/)

 右を左を、景色が飛びすさってゆく。撫子は凄まじいスピードで見慣れない通りを駆け抜けていた。走競技が得意だったことなど一度もないのに、呼吸が乱れる様子もない。しかし息を吸い込む暇もないほど、撫子は追い詰められていた。

 悪寒にうっすらと涙をにじませながら、撫子は生々しい感触の残る手に目をやる。血のこびり着いた、鋭く長い爪が見えた。自身の行為を後悔して唇を噛む。みちりと音がした。

 裸足に往来の砂が食い込んでいるが、不思議と痛みは感じない。人影の少ない通りを抜けて藪に入ったところで、撫子はようやく走ることをやめた。心を落ち着かせるため、徐々に歩調をゆるめていく。

 今の自分の状態が恐ろしくて仕方なかった。

 『撫子』にこんな爪はない。『撫子』はこんなに速く走れない。『撫子』は訳の分からない感覚のために人を傷つけたりしない。

 彼にとっては理由も分からないまま切り裂かれた霧島は無事だろうか。

 もし、致命傷だったら。

 そう思ったところで、撫子は力なく首を振った。考えたくなかった。

 しかし撫子が何よりも怯えているのは、自身に鋭い爪が生えたことでも、じきに誰かが探しに来るであろうことでもない。今の撫子に恐怖を与えているのは、脳裏にふわりと浮かんでは消える、泡沫のような記憶だった。


 草風の匂い。後ろ姿の男女。泣きじゃくる声。狐のお面。


 あまりに断片的で曖昧なそれらに、撫子は覚えがない。けれど確かに自分の記憶なのだと、本能が叫んでいる。変生していく内面が、『撫子』を『偽物』に変えていく。

 強い笹の匂いを嗅ぎながら、撫子はごくりと息を嚥下した。


(じゃあ、私はいったい──)


 私は誰?

 物思いに沈んでいたせいか、足元への注意が散漫になっていたらしい。苔むした石に気がつかず、撫子は勢いよく転倒した。


「っあ!」


 膝に痛みがにじむ。撫子は軽くぶつけた頭を抱え、その際触れたふさふさとした感触に絶叫しそうになった。いつのまにか隣を流れていた清流に慌てて自分の姿を映し、一瞬気が遠くなる。

 撫子の耳は消え失せ、代わりにあからさまな獣の耳が生えていた。


「何よ、これ……」


 もう泣くことも出来ず、ただただ呆然とするばかりだった。

 撫子は真っ青になったまま、おそるおそるその耳に触れてみる。茶色っぽい毛むくじゃらのそれは、かすかに震えて温かかった。

 間違いなく自分に生えているのだと再確認させられ、ますます撫子は落ち込んだ。恐ろしい閉塞感が、じわじわと体を蝕んでくる。驚愕と恐怖を飲み込もうとしても、付け焼刃の技術がそれほどの功を奏するはずもない。これは悪い夢か何かだと、そう思いたかった。鬱蒼と生い茂った木々の陰が、不安に追い打ちをかける。

 しばらくその場でかたかたと震えているうち、撫子はある事に気がついた。

 隣を流れる青竹の香りをまとった小川の向かい。ちょうど足首の辺り、地面にほど近い位置に細いロープが張られていた。

 撫子はよろよろと立ち上がり、それを注意深く眺めた。ロープの両端は茂みの中へと伸びていて、どこで途切れているかはわからない。


(これを越えたら、変な夢から醒めるかもしれない)


 根拠のない確信があった。

 ここを抜ければ、きっといつもの日々が戻ってくる。化け物に襲われたことも、爪や耳が生えたことも、訳の分からない記憶も。全部が悪い夢になる。

 そう信じて、撫子はゆっくりと清流へ一歩を踏み出した。裾をまくった足に、冷たい水が優しく触れてくる。久しぶりに落ち着ける要素を得て、撫子は表情を引き締めた。

 フィクションだと、この手の縄には得てして鈴などがつけられているものだ。万が一にも音を立てないよう、撫子は慎重にそれをまたいだ──


「あれ?」


 はずだった。

 足の裏に冷たい石を感じ、撫子は首を傾げる。嫌な予感に振り向いて、そして慄然とした。

 今まさに乗り越えたはずのロープは、撫子の背中側に張られていた。


「なんで……」

「やめておいた方がいい」


 愕然とする撫子に涼しげな、しかし哀しそうな声がかけられた。撫子は真っ青な顔を上げ、声の主を見る。

 先ほどの着物から着替えた霧島は、同情に似た表情で首を振った。


「お前はそこから出られない」

「……なんで、分かるんですか」


 いつもなら真っ先に霧島の傷を気にしただろうに、撫子はまるで牙を向きそうな目で彼を見た。睨みつけられた霧島は、同じような表情で撫子を見つめるだけだった。

 それが、撫子の何かを刺激する。


「お前が帰ろうと思わない限り、何をしても無駄だよ」

「帰りたいと思ってるからここにいるんです」

「……いいから戻ってこい。そこは危険だ」


 噛みつくような台詞にも、霧島は眉ひとつ動かさない。大概の女性がうっとりするような低い声でそう言うにとどめた。

 霧島と対峙するうち、撫子は彼の犬歯がいやに鋭いことに気がついた。巧みに隠されたそれは、間違いなく捕食者のそれだ。

 言いようのない不安に駆られ、撫子は一歩二歩と後ずさる。そのままくるりと向きを変えて駆け出そうとするが、後ろから強く抱きすくめられた。


「いっ、嫌ぁ!!」

「暴れるな」


 力いっぱい暴れる撫子の耳元で、霧島は諭すように囁いた。

 そんな事を言われても、大人しくしていられるはずがない。撫子が返事もせずにただもがいていると、背後から小さなため息が聞こえた。その声すらも魅力的だった。


「あまり痛いことはしたくないんだが」

「放して、放してくださいったら!」


 じたばたと暴れる撫子を、霧島はため息混じりに振り向かせた。撫子は歳の割に幼い顔を不審感と怯えの色に染め、霧島を嫌悪のまなざしで睨む。

 霧島は美しい顔に少しだけ躊躇を覗かせ、撫子の首筋に唇を寄せた。とっさに拒もうとした撫子は、次の瞬間襲ってきた熱い痛みに悲鳴を上げる。


「ひぅ……っ」


 霧島の鋭い歯が、撫子のうなじに食い込んでいるのだった。激痛に体を離そうとする撫子を、霧島は首筋に顔をうずめたまま押さえつける。痛みをより深く押し込まれ、撫子は気絶しそうになった。


「いっ……痛っ……」


 体をそのまま貪られるような感覚に、ぞくぞくとうなじが粟だった。霧島の吐息が首にかかり、疼くような感覚が体を駆け巡る。

 徐々に混濁する意識に視界が潤んだ。撫子はくらくらとめまいすら感じながら、震える指先を霧島に向ける。引っかいてでも逃げたいのに力が入らない。それどころか腕を彼の背に回したくなるような、抗いがたい衝動に駆られる。

 やっとの思いで熱のこもった息を吐き出し、撫子はとろんとした視線で霧島を見た。喉がひりつくようなじれったさに思考回路を遮断される。霧島は時折唇を離しては何度も撫子の首に噛みつく。その行為には、夢中という言葉がよく似合った。


「霧島……さ……っ」


 撫子は力の入らない指で、霧島の肩に甘く爪を立てた。波のような痺れが思考を侵し、まるで霧島が恋人のように感じられた。

 けれど名前を呼ばれた霧島は、途端に愕然とした顔で口を離した。

 痛みと恍惚を同時に抜き取られた撫子は、糸の切れた人形のように膝から崩れ落ちる。おぼつかない思考のまま霧島を見上げると、うっすらと赤く濡れた唇が入った。彼の唇に紅色を乗せているのは、紛れもない撫子の血だ。


(ああ、やっぱりきれいな人だ)


 撫子は遠のく視界に、そんな事を思った。



***



 ぬるり、と生温かいものに頬を撫でられ、撫子は悲鳴を上げて飛び起きた。とっさに跳ね除けた布団の陰からキャンと鳴き声が聞こえる。はだけた胸元にはびっしょりと汗をかいていた。


「……キャン?」


 慌てて襟元を直した撫子は鳴き声を疑問に思い、そっと布団をめくる。そこには見覚えのある小さな獣がぐてっと寝そべっていた。先ほど撫子の頬を舐めたのは彼だったらしい。撫子は慌てて子犬を救出した。


「ごめん愛宕……えーと、愛鷹の方?」


 愛鷹と撫子が口にしたとき、子犬は元気よく一声鳴いた。撫子は少し表情を崩し、朽葉色の彼を撫でてやる。赤城の弟は元気よく吠え、縁側へと走り去った。撫子はしばらくぼうっとその姿を眺めていたが、記憶が戻るにつれ、表情はしだいに暗くなっていく。

 さっき──日が明るいところを見ると、既に昨日になったのかもしれない──の出来事を思い出すと、自身に対するどうしようもない不安感に襲われた。

 何より、どうして自分は再びここで寝ているのか。なんとか着物を正した撫子は、足音も荒く縁側へと飛び出す。

 そこで赤城とぶつかった。


「きゃあっ!」

「うわっ!」


 二人同時に驚いた声を上げて後ずさる。赤城はぶつけた肩が痛むだろうに、撫子が倒れないようしっかり彼女をつかまえた。彼は琥珀色の瞳をほんの少し細め、撫子に問うた。


「お加減はいかがですか、撫子さま」


 撫子はそれを無視し、相手が赤城であることを確認するなり彼に詰め寄った。突然掴みかかられた赤城はたじろいだように撫子を見下ろす。


「何なんですか、ここ」


 撫子は搾り出すような声で言った。不安とやりきれなさを黒瞳いっぱいにたたえ、悲鳴のように問う。


「ここは一体何ですか!? 何で霧島さんは私にあんなことしたんですか!? 私は……」


 私は誰なんですか。

 その言葉を最後まで口にすることが出来なくて、撫子は肩を震わせながらうつむいた。ずるりとその場に崩れ落ちた撫子に視線を合わせるように、赤城もまた腰を折る。彼は悲鳴に答える代わりに、撫子の柔らかな髪をそっと撫でた。


「お可哀想に」


 女性の低声のような、ハスキーな囁き。それがとても優しくて、撫子は今にも涙をこぼしそうだった。抱き寄せられた訳でもないのに伝わってくる温もりが、何より嬉しかった。

 空気がゆらりと揺らめいたのは、その時だった。


「久しぶりやなあ」


 くつくつと笑い声混じりに聞こえたその声に赤城は顔色を変える。中庭へと琥珀の視線を走らせ、信じられないと言いたげな表情を浮かべた。赤城の一変に気づいた撫子も釣られてそちらを見る。

 まず目についたのは、象牙色の生地に咲き乱れる色とりどりの蓮。声から感じる男性らしさと相反し、着流された着物は女もののように派手派手しかった。

 視線を上げると、声の主である青年が目に入る。その顔立ちに、撫子は目を疑った。


「……榛名(はるな)さま、いつお戻りに?」


 緊張気味の赤城の声に、呼ばれた彼は応えない。その代わり、隣で呆然としている撫子に邪気のない笑みを見せた。膝をついたままの撫子は目をそらせないまま、彼を見つめ返す。

 栗色を少し和らげたような髪。薄く笑う口元。そして赤い瞳。

 その顔立ちは、霧島とよく似ていた。

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