プロローグ
どこか青白い霧の中で、その女の子は矮躯を精一杯使って泣き叫んでいた。
「やだ! お別れするのやだ!」
「撫子」
「やだったらやだ!!」
女の子は服がくしゃくしゃになるのも構わず、紺の浴衣を着た男の子に抱きつく。
少し年上らしい少年は、困ったように女の子の名前を呼んだ。
その顔には、狐の面があった。
二人をとりまく霧のどこからか、女の子の名前を呼ぶ声がする。
だんだんと近づくその声に、少女はいっそう泣き声を強めた。
ワンピースに涙がぽろぽろと滴る。
男の子は無言のまま狐の面を少しずらして、桜色の唇を露にした。
そのまま女の子の右手を取り、薬指の付け根にそっと口づける。
「おまじない」
目の端に涙を浮かべたままの女の子は、けれど叫ぶのをやめてきょとんと首を傾げる。
男の子はお面の位置を元に戻しながらくぐもった声で言った。
「また会えるように、おまじない」
飾り気なく語られるその言葉に、女の子は瞳を濡らしたままはにかむ。
そのまま薬指と男の子の顔を交互に見、幼い口調で強く言った。
「約束だからね。撫子、絶対に帰ってくるからね」
「待ってる」
少年は面の下から答え、少女の頭をそっと撫でた。
女の子はそれをくすぐったそうに受け、ごしごしと顔をこする。
真っ白い目元に、赤い跡が出来た。
「撫子」
「今行く!」
霧の中からの呼び声に、少女はようやく答えた。
名残り惜しそうに少年から離れ、何度も振り返りながら駆け出す。
ぴょこぴょこと跳ねる後ろ姿は次第に遠ざかり、やがて見えなくなった。
狐面の男の子は小さな背中をしばらく見つめた後、霧に溶けこむようにそっと姿を消した。