自覚
サキは、気づけばうずくまっていた。顔を上げると、視界が段々と鮮やかさを増していく。数秒経って、ここがどこかわかった。
(家だ)
マネストの本島衆の集落。彼女が巫子になる前に、両親と共に住んでいたあばら家。基礎の石垣の隅だった。海が間近にあってしかし、他の家は間近にはない。ここに自分がいるということは。
試しに、自分の手を見てみる。小さく痩せこけて、あちこち擦り切れ、いつもヒリヒリする手。ああ、夢だったのかもしれないとどうしようもなく思った。巫子になって、そして村が滅びて、一人で旅をする羽目になったのは、全部夢だ。自分はまたここで寝てしまって、こんなでたらめな、妙に長い夢を見たのだ。
(もうすぐ日が暮れる……嫌だな)
真っ赤な太陽が西に沈んで、波の縁を金に彩るこの美しい光景が、サキは嫌いだった。どうしてもそれからのことに思いを馳せて、恐怖が身体にまとわりついてくるからだ。
怖いものは怖いが家に戻ろうと、なけなしの勇気を足に込めて彼女は立ち上がった。着ているのは未毘古風の帯がない生成り、すその長い服。労働力として数えられる六歳の、帯を結う前の子供の服だった。無機質なその色と、海の砂に汚れた味気ない匂いとざらついた手触り。そして南国には暑いぴったりとした未毘古の長袴。それらが、彼女をこれが現実だとますます思わせた。
そっとため息を吐いて、長いこと座っていたせいで痺れる足を宥めつつ、壁伝いで歩いていくと、突然、ガッシャーン、と貝の皿が割れるような、激しい物音がした。
「うっ!」
聴覚の刺激に反応して、身体が必要以上に強張って、腕やら足やらが変な方向へ行きそうなのを感じて怖くなった。こうなると逃げようと思ってもうまく身体が動かせない。同時に、またかとも思う。ひどく冷たい自分が脳の中にいるようにも感じる。さっきの予感が、何度も現実に変わった失望。それでもなんとか四つん這いで這って、家の中を覗くと、父が罵声を浴びせながら母を殴りつけていた。床には割れた貝の食器が散らばって、素足では足を傷つけてしまうだろう。
(やっぱり、ここが家で、ほんとなんだ)
父は瞬間湯沸かし器だった。気に入らないことがあればすぐ手を上げた。母はそんな父に怯えきっていた。サキが殴られていても、何をするでもなく青ざめた顔で立ちすくんでいたのが記憶に残っている。自分が殴られるのも、母が殴られるのを見るのも嫌で、家が外れで遊んでくれる奇特な者もいないくせに遊びに行くと称して地獄を出ては、やはり逃げられずにこうして隅で自分の体を抱いていた。
本当に遊びに行こうとした時もあった。けれど、同年代の帯結い前の子はある程度関係を作ってしまっていた。稀に遊びに入れてもらえても、どこか村人はよそよそしかった。
無理もないと思う。帯結い前の子は粗相を昼間あまりしなくなって初めて、外に出されるのだ。彼女はそれがなかなか遅かった。その印の袴を履くのも遅かったから、外に長いこと出られなかった。先代巫子が、巫子に選ばれた子は皆そうだよと教えてくれるまで、それもたまらなく辛かった。
結局帯結い式で巫子に選ばれるまで、父は彼女を殴った。そして巫子になってからは、神聖な存在として村人から崇められた。人間の女の腹から生まれた、同じ人間のはずなのに、一方は虐げ、一方はただ崇める。不条理を感じずにはいられなかった。
誰からも自分は同じ人として扱われ、愛されないのだと、心のうちに悟ったのは、一体いつの頃だったのだろうか。巫子になったからには、誰も愛することもできない——普通の娘が一人の若者を見初めるようには。
舟が崩れて、皆が燃え尽きて海に沈んでいく時、思わずにはいられなかった。お前らはつくづく都合が良いな。さんざん虐げたり崇めたりしておいて、本当に力が必要な時頼むことすらしなかったのか。お前らが祟りだとか、浄めだとか言って、私を利用したにもかかわらず、できるのは私しかいないくせに、結局客扱いで逃げさせるのか。そうだったら、こうなっても仕方ないだろう、と。
だから、結局未毘古王国に対する憎しみなど巫子であった自分が生み出した偽善でしかなかったのだ。それを認めるしかなかった。
「サキ!」
漁師らしい野太い声で、父が自分の名を呼んだ。恐怖でひゅっと喉が鳴る。足がすくむ。わずかでも体のどこかを動かせば、均衡が崩れて倒れる。そうすれば、父は自分を足蹴にする。
そう考えて動けずにいると、足音も大きく父はやってきて、服の首元を掴んだ。
「なんでそういう目で、俺を見るんだ!」
「そういう目」とはどういう目なのか。わけがわからないまま視界に火花が散るぐらい強く殴られる。立っていられなくて崩れ落ち、今度は腹を思い切り蹴られて息が詰まった。胃のあたりが気持ち悪くて吐きたいが、吐けばまた殴られるのは目に見えている。
父の注意が自分から逸れたことに安堵したのか、母は黙って食器の破片を片付けだした。今日も傍観するだけだ。庇ってくれることはない。いつものことだと諦めつつ、それでもじわじわと絶望と悲しさがただただ胸を占めていく。息を吐く暇もなく、父は追い打ちをかけるようにサキを組み伏せて殴った。
こういう時、サキは自分を身体から逃す。痛みすらもう他人事にしか感じない。でも殴られるたび、心の、感情を入れる箱がべこべこになって、歪な感情しか入れられなくなっていく。
こんなことならもう、死にたい。そう思うのを、止められなかった。
——お早く。時間がないのです。
珍しく冷や汗をかいて、こちらを真っ直ぐに見据えたカユンカの顔が脳裏に浮かぶ。あの村で、自分の師で祖母のような存在だった先代巫子ヒニキの他に、大切だったと言える者はカユンカだけだ。彼は、自分が彼に対して持っていた感情に、気づいていたのだろうか。
言わなくてよかったと思う。普通の娘でありたかったと零しても、きっと彼は、困ったように少し微笑むだけだ。そして、そうやって微笑む瞳には、いつも淡い憐憫の色があった。仮にも〈若〉とそういう関係になることは、自分の巫子としての矜持が、許さなかった。
自分の体が自分から切り離されていく。もう逃げることはできない。その中に、ピィン、ポロンと、突然弦の音がした。サキは突然に足を震わせた。それは福音のように聞こえ、その音に夢中になった。こんな優しい音を奏でてくれた人はここには一人もない。父ももう気にならなくなって、組み伏せられた身体をすり抜けて走り出した。意識が浮上していく。
「あっ……」
視界に色が入った。
めちゃくちゃ重いので、短いですが今回はここまでにします。
次回は、岩穴の暮らしです。




