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揉め事のあとの夜

「サキ!」


 四つの飛板に結びつけられた、担架の四隅が緩まる。視界がかすかに緑に揺れたので、多分ここは家の前の草むらだ。完全に熱が出始めたようで頭がぼうっとして寒いし、痛みさえも全てが遠い。


「何があった」


 視野が狭くなった右横で、サンガの声がした。若い巫士の男が答える。


「発見した時は北のはずれでうずくまっていました。揉めてこすったのか、擦り傷と痣が」

「……ちが……私が、自分でこすりました」

「話すのは熱が下がってからだ。モリテ、クミル。サキを風呂場で温めてやってくれ。繋力による熱だから、身体が安全だと思えば下がるはずだ」


 すぐに駆けつけたモリテがサキの脇に、クミルが脚に腕を入れる。


「あ、歩けますよ?」


 ぼうっとした頭でかろうじて言うと、前にいるクミルにコンと軽く頭突きされた。


「あんた何言ってんの。どう見ても歩ける状態じゃないし、動くと熱が上がることになるからこうやって抱えているんじゃない」


よいしょ、と身体が浮き上がった。「脚の力を抜いておいてよ。抱えにくいから」とクミルが言う。二人とも抱えるのがうまく、関節を無理にひねったような妙な痛みもない。二人の歩みに合わせて胴が揺れるのが心地よかった。


(お風呂入るんだよね? ……傷、いっぱいあるんだけど)


 父に散々やられた古傷達。あれはあまり人に見せたくない。羞恥とかそんなものではないが、どうしても抵抗がある。十中八九心配されて色々言われるだろう。そうでなくても、傷だらけの巫子など不吉ではないか。それで、いくら童貞を誓っていたにせよ、同性の〈若〉にしか身の回りの世話は頼んでこなかったし、本当は自分だけで片付けたかった。


(市井に出てから熱が出る頻度が上がったから、しょうがないのかなあ)


*************************************


「クミル、モリテ。お疲れさま。お茶が入ってるよ」


 サキをお風呂に入れて自室の寝台に送って、モリテとクミルが居間に戻ってきたのは、日もとっぷり暮れた頃だった。


師父(とう)さん……」


 クミルが泣きそうな顔になっている。


「ん? どうした」


 何となく察して、立ち上がって手を広げるとクミルが、飛びつくようにサンガに抱きついた。そしてその胸ですすり泣くのを、誰も何も言わずじっと見ていた。


「……ありがとう。大丈夫」


 しばらくそっと抱きしめてやるとこうやれる場所がなかったんだよね、とぽつりと呟いて、クミルは座敷に座った。モリテもどことなく疲れているのがサンガにはわかった。


「今月も末だ。互支村からの食料支給の日も近い。今日は軽く食べよう」


 皆の気を軽くするために言ったが、サキのこともあって、なかなか食べる気分にはなれなかったのが本音だ。同じことを思っているのか、皆沈んだ顔をしている。サンガは時機を見計らって、食事の間口を開けたり閉じたりしていた。


「……さて、話というのは」


 ようやく話せたのは食後だった。サンガは乳酪の溶けた甘めの茶を一口飲み、息を()く。


「私は今回の件をキラナ様の裁定所に訴えた。もう許しておけぬ」


 横のヨルザが険しい顔をして腕を組んだ。その肩をシニエが抑える。


「そしてサキが体調不良になったのを建前に、私はお前達全員を二週間、学徒院には行かせないこととした。保護謹慎(何か問題が学徒の間で起こったとき、口さのない噂や揶揄いから学徒を守り、正式に説明する機会を待つために門下経営者の夫婦に認められている権利)だ。二週間は学徒にとって非常に大きい時間だし、特に学期制を履修しているヨルザやシニエ、そしてサキ当人にも辛いことと思う。無論、二年生たるカイヌ、クミルにもだ。

 でも私は、師親として、これ以上皆を危険な目には合わせられない。その二週間でどうにか相手方と話をつけてくるから、それで許してくれ」


 頼む、と頭を下げる。


「わたくしからも頼むわ。サキは……相当堪えているようね……」


 モリテが悲しそうに目を伏せた。彼女の隣、俯く(クミル)の背を撫でる。一時の沈黙、それを破ったのはカイヌだった。


「師父さん、わかった。別に頭を下げなくていいよ。俺はサキに粥を作るな」


 それに続いてヨルザとシニエも頷いた。


「ああ。頼む」


 衣が擦れる音をさせて、カイヌが立ち上がった。台所に去り際、カイヌはクミルの頭に手を置く。クミルが照れたように笑う。それを見て、やっとサンガは張り詰めた息を吐くことができた。


*************************************


 夜具の中で目を覚ました。

 身体中の関節が熱くて痛む。筋肉も強張っている感じがする。繋力の熱特有の症状だ。少しでも良くなるといいなと、もそもそと強張る身体を動かす。あごを下に向けると、石鹸の香りがほんのりした。


(あの二人……何も言わなかった……)


 村では〈若〉達の間で不吉だと噂されもした体だというのに、何も言わずに身体を丁寧に清めて、傷の手当てまでしてくれた。額については自分でやったと言ったが、薬を染み込ませた布を貼り付ける手は相変わらず優しくて、思わず泣きそうになったことを思い出す。


(痛い……)


 胸が痛いのか、関節が相変わらず痛いのか判然としないうちに、不意に戸が叩かれた。身を起こして後ろにずって行き、頭の方の壁にもたれる。ひんやりした土壁が、関節の痛みを少し和らげた。


「入るぞ」


 からりと引き戸を開けて、薄くかけられている寝台の帳越しにやってきたカイヌは、帳の外の椅子に座った。帳はカイヌの輪郭をぼやかして、サキには彼が何かの精なのではないかと一瞬感じた。


「乳粥を作った。食べられるか?」


 そう言って小机に一旦盆を置いて、帳を払い、彼女の顔を覗き込む。ひやりとした意外に細く骨ばった手が、躊躇いがちに頬に触れた。背の土壁みたいに気持ちいい。


「熱は少し落ち着いてるようだな」


 そしてそっと粥と匙を渡してくれた。ふっと柔らかい乳の匂いがする。祈りを済ませて、粥を口に入れた。


「……懐かしい」

「南方風の味付けだからな。香りが強くないか?」

「平気。なんだかヨルザ達に出会った時の、最初に作ってくれたのに、なんとなく似てる。……あれ、未毘古風の味だったのに、不思議」

「……そうか」


 しばらく無言で食べた。カイヌとは自室の階も違って、学年も違うから、毎日の食事の時以外あまり話したことがない。門下内の雰囲気を柔らかくしようとか、長兄として奮闘している姿はわかっているし、日々作ってくれる料理はおいしいのだが、どうにも気まずい。

 半分くらい食べ終えたところで、カイヌが(おもむろ)に懐から帳面を取り出し、矢立から筆を取り出して握る。


「——師父さん達はお前を二週間は中心球に行かせないことにした。裁定所に訴えたわけだから、裁定が始まるその前に、本人から聞いておきたい。……何があった」

「師父さんや、師母さんはカイヌに頼んだの?」

「俺が巫子守の名簿上は長兄になるからな」


 様子を見る限りあまり親しくないし、歳が同じくらいだからこそ、言えることもあるだろうという師親(両親)の配慮らしい。


「うーん……舞の講義が終わって、サオル様達に呼ばれたんだよね」

「ああ、そこはいい。〈舞い手〉の件は巫士団の報告で師父さん達は聞いていると思うから。アヒノにさらわれた後は? お前はどう思った」

「えっ?」


 自分の気持ちなど、言葉にして考えたことがなくて戸惑う。確かに、さっきから胸がずっと煮立つ感じはある。繋力が彼女の激情に呼応して熱くなって暴れているのだ。それは昔からずっと在る慣れた感覚。しかし、何からどう言葉にすればいいか分からない。

 ややあって、ぽつりと零すには、


「巫子守って、普通の人が住んでる街なんだね。……誤解してたみたい」

「当たり前だろう」


 自分も同じ失望を持っていることを感じさせるような、それでいて包容力を確かに持った即答が返ってきて、サキは思わず目を瞬かせた。


「はっ?」

「いくら神の使いだの鎮める者だのと言われていても、巫子は所詮、女から生まれているんだ。残念ながらな。逆に何を夢想してたんだ。早めに知れて良かったじゃないか」


 そう言うカイヌの瞳は、どこか遠くを見ているような光を湛えていた。


「そうかもね。……カイヌは……自分が繋力を持った人だったことを、悔いたことはある?」

「……ある。しょっちゅうと言ってもいい」


 投げやりなような、そんな返答だった。

 それにどう返そうかわからなくて、何となくサキは自分の左の袖を捲った。露わになる浅黒い肌の腕、そこにはひきつれて色の抜けた白い線があった。帷の向こうでカイヌが少し顔を顰めたのがわかる。


「それは?」

「ずっと昔、酔って激怒した父に、焼けた火箸を顔に当てられそうになって、腕で庇った痕。……終わった後に、一人で海を見ていると、吸い込まれそうで……」


 村外れの桟橋のような場所に傷だらけで立って、魚だったら、と思った。魚であったなら、少なくとも自分に危害が加えられる時というのは、自分が死ぬ時だ。こんな、体よりも心が傷つくなんてことはないだろう。そう思うと、あの群青の煌めきに、身を包まれたくなる衝動に駆られたことが、何度ともなくあった。

 胸の奥が煮え立って揺れて、勝手に動く感じさえする身体を持って、それでも人として生まれたことが、人と神の間のような存在として生きねばならなかったことが、とても苦しかった。巫子は人ではない。陰でそう言った村長の声が、蘇ってきて。


「私達は、身体だけを見たら人ではないところもあるけど、それでも……人として生まれたわけだからさ。どうしようもないことはわかっていても、苦しかった。——潮に流されるようにしてやっとここに辿り着いて、ようやく人のふりでもできるのかと思えば、これか」


 その声は、自分が思うよりずっと軽かった。乾いた笑いが喉を突く。


「私はずっと人になりたいと思っていた。けど、なれないみたいだった。ずっと人として扱って欲しい。神と人の間の、巫子じゃなくて……と思っていたのに、巫子守では人ではない、巫子が来ていると思ってしまっていた。自分だけ人と巫子の間で苦しんでいるんだって。他の人たちは苦しくなく人を愛せるんだって、そうやってこの街が創られたって。……矛盾してるよね。同じ人なら、何も変わらないはずなのに——それをずっと、信じて生きてきたのに」


 支離滅裂だ。自分でも何を言っているのかわからなくなってきた。けれど、勝手に目元が胸と同じ温度に熱くなって、視界が歪んだ。瞬きすれば歪みは取れたけれど、どうやってもすぐに、また歪んでくる。昔から泣いたら、この胸の奥が熱くて、すごく不快だった。

 無言でそれに耐えていたら、帳がかすかに囁いた。囁かせた主は、ふわっとサキの頭にそれを置いた。確かに覚えているけれど、日々に忙殺されて、いつのまにか頭の奥にやっていた記憶が鮮やかに蘇った。



 あれは帯結いを終えてすぐだったか。初めて子供がまとう腰巻き姿で、次代巫子を示すたすきを痩せた半裸の胴にかけて、ヒニキの元に行った時だ。


「……この傷だらけの子供を、どうして魔霊様は後継に選んだのでしょうね」


 着替えさせた中年の女の〈若〉が呟いたひどく冷たいその声音を、サキは今でも覚えている。図らずも家族と縁が切れて身分が変わっても、やっぱり村の人は冷たいのだと、石でも飲み込まされたような重い気分で歩いていた。


 〈若〉達は言った。たとえ後継であっても、巫子の顔は世話をする〈若〉以外見てはいけないと。薄い帳の先には、さらし布越しで顔立ちのよく見えない老女が、横座りで自分をまっすぐに見つめている。顔が見えないのだから、普通は何となく恐怖を感じるものなのではないかと自分でも思うが、それよりも何か、哀しみを帯びた温かいものをその時のサキは感じた。——人に何か言われ、また()()()ところで、結局は憐れまれる者同士の、視線が絡むだけでひとつになり得るような、柔らかい何か。


 彼女は〈若〉達を全て下がらせて、その隔てている帳を払った。顔には薄布がかかっていて、本当に顔立ちを見ることはできないのだが、この、巫子が自ら姿を晒すことは十分に掟を破ったことだった。

 まだ下がり切っていなかった〈若〉の間にどよめきが走る。それを無視して、ヒニキはすまし顔でそこにいた。


「……本当によろしいのですか?」


 とぷん、と船の下に、波が鳴る音に耳を傾けつつ訊いた。


「ええ、来なさい。……あなた達は()く下がって」


 はい、と答えて聖域に踏み込んだ、と思ったら、その皺の深く刻まれた手に抱え込まれていて、何が起こったかわからなかった。ヒニキの手はそのまま、サキを自分の膝に座らせる。


「…………お、おやめくださいませ、巫子様。(けが)れられます」

「離れることは許しません。しばしわたくしに、あなたを抱かせてくださいませ」


 そうして船が波で揺れるのに合わせて、身体をさすり、揺すってくれる。それに伴って混乱が収まってくる。体温の温もりを感じられるようになると、久しぶりに安堵した。ヒニキはサキの顔を自分に(うず)めさせて、サキには闇しか見えなくなる。だんだん眠くなってくる。


「よく頑張って生きてきましたね。……わたくしは昔から、あなたのことがずっと気になっていたのですよ」

「え?」


 窓から差す眩しい午後の光がヒニキを照らして、向き合ったまま上を向いたサキは、やっとヒニキの顔をまともに見た。老女はたくさんの皺の中の瞳に、みずみずしい生気を宿していた。彼女はそれをふっと歪める。


「島の外れにいたまま祭りにも参加しようとしない子を、どうして誰も気にしないのかと思っていました。こんなに痣や火傷があると知ったら、わたくしももっと早く引き取れましたのに、気づかないで、ごめんなさいね」


 ヒニキは痩せ細ったサキの半裸の背をするりと撫でた。ずっと恋しかったものが与えられたような気分になって、口の中の息がいつになく熱い。泣きたい。


「……ヒニキのせいじゃないです」


 そもそも父の暴力は、彼女が驚くほど不器用だったから起きたのだと、当時のサキは本気で思っていた。首を必死に振るサキを、ヒニキは子供に慣れていないような、ぎこちない手つきでいっそう強く抱きしめる。


「違います。巫子なら皆そうなのですよ。あなた自身が原因ではありませんし、生きていていいのですよ。誰から何と言われようと、わたくしはあなたの生を望みます」


 それをサキの体に、心に沁み込ませるように念入りに頭を、身体を撫でていく。ああ、自分は元々完全には人ではなかったんだ、という自覚が少しずつ胸に迫ってきた。自分が元から他の子供とは異質な存在と気づいて、受け入れるのはひどく悲しくて、でも気にかけてくれていた人が今、ここにいることは震えるほど嬉しくて、サキは老女のしぼんだ胸に顔を埋めて泣いた。


「……うっ」


 サキは呻くしかなかった。カイヌが、不器用な手の動きで彼女の頭を撫でている。それが、ひどくヒニキの手の感触に似ていて、身体がさらに熱くなった。もう自分の中に巣食う何かを抑えることができなくて、彼女は細い悲鳴をあげた。


「……ごめんな」


 薄い帳を完全に払ったカイヌは、彼女を強く抱きしめて、繋力が落ち着き切るまで待ってくれた。

 


後半の光景は私がこの話を構想し出して割と最初の方に出てきたものです。文章化して、皆さんに提供できたのでとても嬉しいです。

次は、保護謹慎が始まります。

※先日告知していた小話集を投稿し始めようと思います。投稿頻度は少ないと思いますが、よかったらそちらもどうぞ。

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