講義の準備
翌日、講義時間割や内容の詳細が発表された。
講義は一コマ五十ファ、一日に六時間。週に一度の安息日は授業はなく、その前日は午前の三時間である。一〜三時間目までは門下の師の指導で基本的な内容を履修し、午後はあの球体に行って研究巫官(研究を生業とする巫官)の実践的な講義を受ける。ちなみに、これは一年生と学期制の学徒の前期の時間割で、二年生と後期生はその逆になる。夏の、サキ達学期制学徒にとっては前期履修程度試験が終われば約一ヶ月の夏季休業に入り、秋からは二年生に混じってより高度な講義を聞くことになる。
加えて、まだ研究巫官達の中に講義の準備を終えられていない者がいるので、普段よりさらに二日、講義開始が待たれることとなった。
これを好機として、五人はせっせと準備を片付けていく。一昨日までに大体の予習と教科書の目通しは終わっていたのでよかったのだが、まだ書類の作成に使う個人用繋墨作りが終わっていなかった。自分の繋力で作った方が使う時の馴染みが良いので、だいたい薬や文房具、特に消耗品は作る。サンガが「おそらく講義開始が遅れるだろうから、そんなに急がなくていい」と言ったので、少し放っておいたのだ。
「と、いうわけで、今日はウチの研究室に行くぞ!」
発表の報告が終わって、朝食での開口一番がそれだったので、少々どころではなく面食らった。
(そんな、急に言われても……どういうわけなの?)
三人の様子に気付いたモリテは、困り笑いをしつつ目を三角にしてサンガを睨むという、器用なことをした。
それで、サキ達の方に向き直ると、補足をしてくれる。
「研究室は、一門下に一つ本部から与えられていて、巫官塔横の建物にあるの。基礎講義の薬作りとかに使うんだけど、サンガはそれを紹介しようと思ったんじゃないかしら?」
ほとんど脅しのようにサンガを睨む。うぐっとサンガの声が一瞬詰まった。
「ああ、まあ、そうだな。カイヌとクミルは追加の繋墨の材料を、ヨルザ、サキ、シニエの分は私が用意しているから、昨日机に置いていた書包の中身をそのまま、と、簡易筆を朝食が終わったら取ってきなさい。今日は散歩も兼ねて少し歩こうか」
歓声が上がった。
手早く朝食を済ませ、水の入った洗い桶に食器を入れると、繋力器(繋力を利用した道具)のそれは、勝手に水が動いて洗ってくれる。五人は自室に戻り、指示されたものを持って玄関に来て、靴を履き替えた。今日は移送陣の絨毯は敷かれていない。靴袋に上履きを入れて、普段着の帯の金具にかけた。
「では、行こうか」
出ると、丘は門下の前に守るようにそそり立って、小花が咲く草原が一面に広がる。
「書包の中の繋薬草図鑑から、ホウトワという薬草を見つけなさい」
半分はこのために〈郊外〉に門下を構えたのだからな、とサンガは言う。
「ホウトワ。花は青く、その根と花の汁は色料となり、〈狭間〉の砂と共に捏ねて乾燥させると繋墨となる……あるいはその汁だけでも墨にできるが色素が保ちにくい……」
説明の横についている絵図を見つつ、それに該当するような草を探す。
「あっ!」
サキが指さしたホウトワに、同時に指した指は、シニエのものだった。
カイヌとクミルは、巫士見習い二年生の支給品で小刀を持っているけれど、サキ達はまだなので、手で抜くことになる。〈裏〉から移した土を掘って、根が折れないように気をつけながらそうっと出した。墨には花と根の組が一ついると言われたので、二人で分けて、もう一つ探す。
ホウトワは背が低く、他の薬草に紛れてちまちまとあるので、見つけるのが難しい。それでも見つけて、二人で分けた。
さく、さくと薬草を踏まないように歩き、石畳の上に門下が乱立する街に出る。中心部のひらけたところに行って、浮かんだ中心球の周りに、〈三塔〉と呼ばれる細長い塔が見えてきた。中は螺旋階段に沿って扉があって、通称〈秘密基地〉のような繋力でできた空間の部屋があるらしい。横幅が極端にないのはそのせいだった。
頂上に縹の布がはためく塔の横に、門下用研究室はあった。
入り口に立つと、サンガは懐から透明な石製の鍵を出した。不規則な凹凸のあるそれを、扉の持ち手のすぐ上に押しつけて、その石は彼の繋力の色の真紅に染まっていく。ある程度まで真紅が鍵に染み渡ると、するんと押しつけたところに鍵が入った。
全員が入ったのを見届けるや、サンガは鍵を抜いた。その瞬間、トン、と勢いよく扉が閉じた。
「席につきなさい」
足を入れる穴の上の机は、少々変わっていた。奥の方が高くなっていて、その上には試験管立てと、小さな鍋が乗った燭台が置いてある。机の上には皿、巫具に刻まれるような、複雑な紋様——呪帯が彫られている乳棒の横の乳鉢には、〈狭間〉の砂があった。
「そこに〈狭間〉の砂があるが、まだ粗いところがあるのですりつぶして、繋力を少しずつ加えて、粘土状にしてみなさい」
まずはじゃっ、と乳棒で砕いてみる。硬い粒もあってなかなかすりつぶせない海の砂と違って、風化した記憶の欠片だからだろうか、まるで雲母粉に触れたように軟らかかった。
大きな粒が崩れて、大体均一な感じになったところで、乳棒の紋様に繋力を通し、練っていく。そこでヨルザの机を覗った。粘り気が出てきたらかたまりを出して机で練るらしい。本綴じ屋だけでなくさまざまな工房に勤めてきた二人は、やはり手慣れているようで、作業が早い。
(手というより手首で練るんだ……)
サキも机に粘土もどきを出して、練り出した。
ある程度練りが終わると、今度はホウトワの花と根を、机の一段高いところの陰にあった薬刀で刻み、搾った汁を粘土に染み込ませる。布をかぶせておいて、粘土の中に包むようにして現象の進行を早めるという早時石を入れておく。便利だが、人体に使用すると老化が進む危険なものらしい。これでホウトワの汁の色を染み込ませるのだ。
その間、刻んだ花は捨て、かつて根だった搾りかすをさらに刻んで乳棒ですり、黒い粉にする。早時石は進行を早めるだけで頃合いを教えてくれないから、外し時はとても注意して見なければならない。緊張しつつ、ここは先輩であるカイヌとクミルの状態を真似して布を開き、早時石から繋力を抜いて、専用の箱に納めた。
篩にかけながら、黒い粉を粘土もどきに撒いて、混ぜ込めば、繋墨の完成になる。墨というより、もはや硯程度の大きさであるが、これを干したのの欠片を切り取って使うそうだ。
皆が作り終えたのを見計らって、モリテが新しい材料を配り始めた。乳鉢が取り替えられ、何やら淡く青に光る真珠色の貝が、十ほど新しい方には入っていた。同時に置かれた小鉢には、固まった琥珀色の脂のようなものが見える。
「二人は作ったことがあるだろうから、勝手にやってもらって良いよ。忘れてはないよね?」
カイヌとクミルの二人に、笑顔でサンガは言っているが、その笑顔にはある種の圧が込められている。
「はい」
作業を始めた二人を尻目に、サキ達が並ぶ前に師親はやってきた。モリテが小瓶を掲げてみせる。中は、小鉢の脂だった。
「これは光を失った発虫の体液を固めたものです。用途がそうなので、膠と呼びます」
サキの乳鉢から真珠色の貝を取り、モリテは続ける。
「海の耳貝という、水の〈領域〉と土の〈領域〉の境に発生する貝です。この粉で作った胡粉を紙に塗ると、陣や呪帯を描くと、転写反応がよくて便利なのです。長く保存もできます」
(転写って、前にクミルがあの秘密基地にぺたぺた貼り付けたやつか)
何もしなくても勝手に家具が生えてきたので、便利だと思う。書包にあった帳面にさっきの繋墨も含めた作り方を少し書いた。あとでまとめよう。
陣紙の作り方もそれほど難しくはない。少し手間がかかるだけだ。膠を小鍋に入れて繋力で煮溶かし、ラドニ貝の粉を溶けた膠とへらで混ぜて練って皿の上で何度も叩いて馴染ませる。そうしてできた白い塊を、小鍋に入れたままになっている液状繋力で少し茹でる。繋力で茹でる、というのが何か微妙な感じがあるのだが、調合は料理だと思うことにした。問題はない。
あとはちょうど南方風の油画をする時に使うようなへらで、茹でた塊を潰すように紙の両面に塗れば完成だ。複製鏡という写した物体と同じものを作り出す、これまた便利な繋力器で紙を量産した。
(繋力を使うだけで、こんなに便利になるんだ)
「これぐらいの材料と道具が揃ってる門下って、なかなかないからね。当たり前に思ったら、他の人と話が合わなくなるよ」
そう忠告してくれるのはクミルだ。カイヌも深く頷いている。何かあったのだろうか。
せっかくなので、何か呪帯か陣を転写してみなさい、と言われたから、早時石の呪帯に繋力を込めて、転がすようにして転写したら、「一体何に使うんだ」と皆から引かれた。
「え? ちょっと気になったから……」
「……まあ、いい」
呆れたように言ったのはシニエだが、この前までの試験勉強で少し面白かった陣学の参考書を使って、解読してみようと思っただけである。呪帯はもともと魔霊と交信するための言語として使われていたらしい。ちょっとその講義が楽しみになった。
帰ってきてすぐ自室の秘密基地に籠り、参考書を開いてみたが、巫官見習い用の詳しいものだったせいか、よくわからず、そのまま頁を閉じてしまった。机の後ろ、まだ布団が置かれていない笊を返したような寝台に座る。 繋力の影響で、窓から明かりが差すが、物を読んだり書いたりするには薄暗いこの部屋は、どうしてもあの家を想起させる。しかし、なんの憂いもなくこうやってぼうっとできる時間は、少なくともあの村にいる時はなかった。
足を抱え込んで小さくうずくまれば、自分の慣れた匂いと体温が顔を覆った。みし、という寝台が軋む音が、静けさの満ちる部屋の中にすっと響く。
(これがもっと前にあったらな……)
そんな思いが、ぽつりと心に浮かんだ。
繋墨というものを作りました。
次は、まだ始まりません。親睦会です。




