序話 贈り物
死ぬ方法を考えはじめた私にとって、海に落ちる、というのはとても心惹かれるものだった。人の世からとうに弾き出された私でも、母なる海ならば受け入れてくれるのではないかと思ったからだ。晴れた日がいい。体ごと海の青に染まって、そうだ、死んだ後の体は魚にあげよう。
もし、飛び込んで死ねなかったら、私は海からも弾き出されたことになるな。
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藁を積めるだけ積んだ荷車の上に、ところどころ裂けたぼろぼろの服をまとった女が一人、座ってうとうとしている。
サキは、その女が気になってしかたがなかった。だからなのか、走っている感覚もないのに視界は、遠ざかっていく荷車を追っている。
女は腰に剣を携えて、手は柄を握って放そうとしない。女は目を開けた。その瞳は輝かんばかりの金色だった。
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「……誰……?」
何か大きな音を聞いた気がして、ゆらりと意識が浮き上がる。次に目にしたのは、なんの変哲もない板張りの床だった。
起き上がり、辺りを見回す。周りより少し高くなった床と、そこを囲っている霧のような薄く広い帳。その壁際には、魚やら貝の装飾品やら、供物が贅沢に捧げられた祭壇があった。それを見てサキははっきりと目を覚ました。ここは祈祷の間だ。喉が気づかないうちに「ひゃっ」と声をあげる。
(そうだ......。私は朝まで祈って倒れたんだ......)
ここは南北二つの大陸に挟まれた、海洋国旧アウネシア皇国の東端、マネスト村地区の海上である。この村__サキ以外は筋骨たくましい男達ばかりの旅衆の船だが__は海を移動しており、サキはこの村の巫子だった。
サキ達は他の人々から〈波の僕〉と呼ばれる民族で、村の男達は一年の半分ほどを海の上で暮らす。アウネシアは、力の強い大きな村が戦争をして、負けた村の吸収を繰り返しながら生まれた。百年ほど前までは、その豊富な海の幸を他国に輸出することで栄えていた。
二十数年前__まだサキが生まれる前の話だが、すでに何百年の朝廷の治世を誇る北の未毘古王国と、比較的新しくて、隆盛を南方で極めているセルガル帝国が、アウネシアの豊富な水産物の利権を争った。
その戦争は五年近く続いた。最後にはアウネシアの王は退位させられ、その南方がセルガルの、北方が未毘古の傀儡政権となって、アウネシアは分断された。巻き込まれたくせに、アウネシアの言い分は何一つ反映されないまま合意されてしまったわけである。海の端の方にあるせいで、分断されたアウネシアの諸島から外れてしまったこのマネストと西端エルシア地区は、当然独立国として扱ってもらえないことがわかっていた。だから、それぞれ未毘古とセルガルに下った。
戦争は終結したものの、両国はまだ冷戦状態であり、隙あらば相手のアウネシアに対する利権を奪おうと虎視眈々と狙っている。最後までどちらに下るか決まらなかった、マネストとエルシアは尚更だ。同じ保護国側ではない村の船と出会うと攻撃される可能性がある。特に今は残り半年間を過ごすためのマネスト島に帰るところで、そういう不運や嵐に襲われず帰還できるように、昨夜から明け方まで祈って舞を舞っていたのだった。少し眠った後に朝餉を摂ってから舞を再開したが、疲労の末なのか舞っている最中に倒れて、今に至る。
「はあ......」
村の皆に見られないように、そっとため息を吐いて窓を見上げる。帳の布地から透けて見える窓の向こうを見ると、昼前のようだった。空は快晴、その青は夏らしく濃く、それを吸って群青に輝いている海の青もまた引き込まれそうなほど美しい。
その二つの青を瞳に映して、サキは静かに立ち上がった。自分の背丈ほどある、黒く毛先だけがその海の色に染まった髪は巫子の証だ。それとアレルと呼ばれる魚の大きな鱗を干して綴った長い帯が、床に着いて尾を引く。寝ている間に乱れたであろう、帳と同じ生地の上衣と、植物の繊維で編まれた長い腰巻きとを束ねる帯を締めなおし、袂の辺りを整える。巫子は穢れを最も嫌うとされ、民に顔を見せてはいけないので、床に落ちていた薄い顔布を被った。
(本当だったらヤモラを呼ぶところだろうけど)
身辺の世話をしてくれる彼女がさっきの有り様を見たら、間違いなく要らぬ説教を喰らう。面倒だ。
最後に舞った時とかなり間が空いて、自分に唖然とするが、帰り着くまで舞っておいたほうが良いだろう。
「来い」
祭壇に安置された、精巧に紋様が彫ってある木製の杖のようなものに向かってそう呟くと、それは勢いよく彼女の左手におさまった。その杖は割と長い。頭にはひし形の飾りが一続きになっている。なかでも柄全体に広がるニ重螺旋の紋様の印象が強い。言い伝えでは、何百年も前にこの村の巫子がこの地の怪物をここに封印したらしく、そのせいで勝手に動くそうだ。
それを持ったまま少ししゃがんで裾を整えると、舞う時の構えになった。そのままゆっくりと足を開いて上げ、独楽のように回り始めた時、日の光がよく入って明るい祈祷の間に、影がさした。
「舞は、終わられましたか」
むしろ今から舞い始めるところだ。
「カユンカ?」
カユンカは、サキや村長が住まう巫女造の〈若〉と呼ばれる、一生の未婚と童貞を誓って出仕してくる側仕えである。他にもいるのだが、カユンカはサキが六歳、次代巫子に選ばれて、巫女造に入ってからずっといる。ぶつぶつとものを言うので声は聞こえづらいが、仕事ぶりが他の誰よりも丁寧で安心できる。それで、アウネシアの王島で年に一度行われる要人や巫子の集まる〈集い〉の伴に、サキは毎回選んでいる。
そんな彼が自ら声をかけてくるのは珍しい。
構えを解いて杖の先で、二人を薄く隔てている帳を払った。そのまま腰を少し落としてカユンカの様子を窺う。
いつもののっぺりと無表情な顔に、少し焦りが滲んでいた。
「巫子様、どうかお気を確かにお聞きください」
(お気を確かに?)
いつも落ち着いていて、冷静な彼がこのように言うのは滅多にない。カユンカの焦りがこちらにまで伝播してきた。
(何?.....嫌な予感がする)
固唾を呑むような気分で先を促した。
「........物見のじいが先ほど異変を感じ、若衆のボウチナが本島に泳ぎ渡ったところ (火)の魔霊に襲われていた様子。村の残留者は全滅、家屋はほぼほぼが大破していて、魔霊はこちらに来ているようです。すぐに未昆古王国に保護してもらう連絡をお願いしたく参りました。村人への指示は村長に、私がお願いしますので、一度避難を」
魔霊というのは、こことは違う、言うなれば<裏>、死の世界に棲む恨みを持った魂が変化したものと言われている。その力は強大で、まるで地震の後襲う大津波のように、人々には太刀打ちできないのである。
しかし、巫子ならば討伐が可能だ。現に、昔の巫子はその怪物を自分の持った武器に封印している。サキが持つ杖もそうだ。それは、〈裏〉に満ちているカ__繋力を巫子が、生者でありながら持っているからだった。
ならば、なぜその唯一の可能因子を逃がそうとするのか。
「なぜ私が避難を?」
カユンカはゆっくりと微笑を浮かべる。
「.....その魔霊が巫子様を狙っていると思えてならないからでございます。巫子様がいらっしゃらないことがわかれば、その魔霊であっても退くでしょう」
穏やかに微笑んでカユンカは言うが、もし、魔霊が退いてくれなければどうするつもりなのか。
「保障はありますか?私の不在がわかったところで、そのまま突進してくれば私がいないとだめでしょうに。一同全滅したらどうなるのですか」
「.....甘い」
「今、何と?」
「失礼致します」
カユンカは実に素早く祈祷の間に上がった。祭壇を一瞥し、サキが制止する間もなく祭壇の裏に手を伸ばす。ずるりと出てきたのは、彼女が未毘に挨拶する際に着ていく未毘古風の衣装。そこから華やかな帯や上着を取り除いた。
そして自分の着ていた衣の帯を外し、代わりにその飾りを外した帯をつけた。挙げ句、その衣装の裳を彼は自分の衣の間に隠したので、恥ずかしくてサキは叫びそうになった。それでもお構いなしに、彼は衣装を纏めてサキに差し出す。
「お早く。時間がないのです。このままでは、村人がそれこそ全滅してしまう」
彼は祈祷の間に跪き、頭を垂れた。
「お願い致します」
サキはきつく目を閉じた。
(逃げなきゃ、ならないんだろうな)
結局、私は無力なんだ。
「.....避難の準備は」
「荷づくりはもう終わっております。未毘古王国に援助を申し出てください。避難は魔霊様に指示を。余裕がないので、伴はつけられません」
当然だろう。
「……わかりました」
カユンカが荷物を取りに行っている間にヤモラに着替えを手伝ってもらった。カユンカが持ってきたさらしに巻かれた食料と、巫子ということを隠すための髪の染料を、どうしても捨てていけなかった腰巻きに包んだ。包みを背に紐でくくりつけると、杖を持ち、カユンカの後をついて巫女造の裏口を出た。
小舟で移動すると魔霊に気づかれるというので、海に飛び込んで泳いで渡ることになった。サキも元は素潜りをしていた。問題はない。
その前に、泳ぐのに邪魔な髪を切った。巫子には男もいるが圧倒的に少ないと言われる。だから、長さは未昆古王国<あちら>の男長くなんちょう>(鎖骨ぐらい)である。切ったそばから群青に染まる、髪の先を黒く染め、杖を強く握って念じ、この船の加護を祈る。そして避難した先で意思疎通するために、封印の度合いを緩めた。初めてのことだった。
「行きますよ」
魔霊の同意なしに封じられたのだから、暴走した際は止めなければと握力を強める。と、ことは起こった。
突然、どくっ、どくっ、と杖の柄に描かれた紋様が、脈打ち始めたように見えたのだ。それは、<>の出来事で、く表> では何も起きていないが、巫子だけが持つと言われる、く裏>を見るく目> も開いていないのに、なぜか彼女にはそう感じられたのだ。
脈打って、ゆらぐその紋様の彫った溝から、じわりと水のようなものが染み出して、そしてむっと潮風の濃い匂いがしてきて、サキは驚いた。
ずるりと杖の先にある菱形の飾りの木肌が消え、代わりに白銀に光る尖った穂先が現れた。
(これ、槍だったの?)
彼女の驚愕をよそに、ゆっくりとその穂先に半身を出したのはまさしく波の魔霊と言える、小さいながら気品のある龍だった。
__私に命を預けろ、当代の巫子よ。
姿を双方初めて見て、初めての発言がこれか。しかも念話である。
どうしたものか。今はこんなふうでも、大昔はこの地域で暴れ回っていたのだ。言葉を選ばなければ、言うことを聞かないでそれこそ暴走するかもしれない。
__命、行き先は私に従ってもらいますよ。
魔霊はその特徴から畏れを以って神と同じように扱われる。よって巫子は魔霊を命と呼ぶ。
__わかっている。其方はこの槍から決して手を離さず、目を開けていてほしい。私は封印されているから、槍の周りしか動けない。
自分の方が主であるというのに、其方とは何だと思った。が、魔霊にしては説明が細かい。
少々困惑したが、
__善処します。
と答えた。
「巫子様」
呼ばれて魔霊から意識を逸らし、サキは不安そうに自分を見つめるカユンカ達を振り返った。遠くには、村長が大声を張り上げて皆を主導している。
「きっと大丈夫であると信じます」
彼女は足から飛び込んだ。
視界に泡が溢れ、濡れる感覚のする前に、サキは何かに包まれるのを感じた。波の魔霊が自らの力でサキを覆っているのである。魔霊は空気と一緒にサキを封じたようなので、息は陸上と同じようにできる。
__未毘古王国の海岸に。
__わかっている。それより見よ、海上を。
(あっ!)
促され、サキは〈裏〉の視界を開いた。ここでは〈裏〉も海中のようである。揺らいでぼやける海面からも、赤い大きな魔霊の姿は見えた。普通魔霊は、よほど力をつけなければ自分の生まれた〈領域〉から出ることはない。これは〈火〉系統の魔霊、その〈領域〉よりも弱い組成の〈水〉であるここは、進出しやすかったのだろう。
__真正面から対峙すれば私は勝てぬ。それに、この魔霊からは未毘古の匂いがする。
__未毘古?
__そうだ。未毘古の巫子が操っている可能性がある。
__でもあそこは、〈巫子狩り〉がいるんでしょう? あまり巫子はいないはずじゃ。
アウネシアではそれほどでもないが、これから行く未毘古王国は、男子の巫子も含めて巫子が、宗教上の理由で迫害されている。
__其方をおびき出そうとしているのではないか?
だとすればまずい。
__戻ったほうがいいと思いますか?
__いや、ここは皆に任せた方がいいとは思うが……こちらがやられるかも知れぬな。
「縁起でもないことを言わないで!」
思わず素になって叫んでしまった。
突然ドン、と重い音が〈表〉と〈裏〉両方の海を揺らした。槍の先にまとわりつく龍の放つ光が増し、波の魔霊が自分の作った油膜を破れないよう保っているのがわかった。
けれど、それはサキにとってはあまり重要ではなかった。この音は何か大きなものが舟に乗り上げるようなものだった。巫子になってからずっと、旅衆の舟で航海していたサキにはわかる。
嫌な予感がして、急に心臓が早鐘を打ち始めた。震える手を抑えるため抱きつくように槍をしっかと持つ。そっと振り向いた。
「あっ!」
海の上、ゆらめいては消える陽炎の塊のような魔霊が、舟にのしあがり、全体を覆っていた。それでも、旅の村人はまだ抵抗しているようで、槍を突きたて、重圧に耐える様子が遠目に見える。
数秒たって、舟は大破した。
サキにはもう、視界が揺らぐのが海水のせいなのかわからなくなっていた。
__巫子よ、早く私に繋力を送れ。其方の中の力が暴走するぞ!
繋力は、元々死の世界にある力だ。それを生きながら有している巫子は、感情が大きく乱れてしまうとそれに繋力が呼応し、肉体ごとその<裏>に引き込まれることがある。その先に待っているのは無論、死だ。それを抑えるために、巫子は魔霊を封印し僕にしたとも言われる。
__行くぞ。
__なぜです!せめて生き残りを助けなければならないでしょう。
震える声を抑え、なんとか普通に話せる。
__助けに行くのであれば、魔霊にはきちんと命じることだ。
__では......。
__生き残りがいるのは万にひとつもないであろう。
彼女は瞠目した。
(ひどい……みんなが何をしたって言うの? ……誰が……)
相手の属は〈火〉だ。繋力の器に包まれたのなら、耐えきれなくて肉体が炭消しになるはずである。
眼の前が真っ赤になって、これまで感じたことのない怒りが噴き上げてきた。
(このままに、しておいて堪るか)
サキは一層強く槍を握りしめ、前を向いた。
__未毘古へ。いつかは皆の仇を討つので、その時は頼む。
__わかった。
海中の人を包んだ油膜は、その動きを更に速めた。
サキが未毘古の国境の海岸に辿り着いたのは、もう日も暮れる頃だった。心のうちに秘める激しい怒りと憎しみは、もう揺らぐことはない。
明け方のような色の日が絶望を現すように西に消えていくのを、サキは長いこと見つめていた。
光がなくなり、彼女は誰にも見えなくなった涙を流しながら、浜辺の奥にある森へと入っていった。
三年ほど温めていたネタです。多分すごく長くなります。皆様よろしくお願いします。
次は、修行編のプロローグです。




