プロローグ『ゼロデイの夜に』
東京の空は、いつもノイズまみれだ。
ネオン、クラクション、スマホの画面、SNSの通知、監視カメラ。
静寂など許されないこの街で、神代理人は静かにキーボードを叩いていた。
地下にある法律事務所——といっても、看板もない雑居ビルの一角だ。
壁にはコードの走る黒いモニターが六枚、観葉植物の代わりにLANケーブルの束が棚から垂れている。
深夜2時。
理人の指は躊躇なく目的のサーバに到達し、不正アクセス禁止法をあっさりと越境した。
「……動いてるな、裏で。」
標的はある中小企業。
労働者の転落死が「事故」とされ、遺族には簡素な説明と示談金が渡された。
だが理人は知っていた。SNSで拡散された現場写真には、撤去されたはずの足場が“直前まで存在していた”痕跡が残っていた。
その事実を証明するには、監視カメラのログが必要だった。
しかし企業は「データは保存期限を過ぎて消去された」と主張している。
「……それじゃ、こいつは何だ?」
サーバ内に潜って3分。理人は削除された動画ファイルの“残骸”を掘り起こしていた。
映像に映っていたのは、社員が指示で安全柵を撤去していく姿——明らかな安全管理の怠慢。
だが、それを手にした彼の目には、冷ややかな光が宿っていた。
「これを使えば、一発で終わる。でも……これは証拠にならない。」
違法に入手したデータは、裁判では使えない。
たとえ真実を映していても、法廷では「存在しなかった」ことになる。
——10年前、あの時もそうだった。
理人は一瞬、瞼の裏に“彼女”の顔を思い浮かべた。
小さな手、小さな鍵盤、小さな希望。
「……俺は、同じことは繰り返さない。」
彼は映像を再生する手を止め、改めて椅子から立ち上がった。
PCのデータはそのまま、USBには何も保存しない。
代わりに、社内マニュアルと作業日報を公的ルートで開示請求する準備に入る。
証拠を作るために、裏で“真実”を探る。
そして、それを“合法”という刃に鍛え直して敵を断つ。
それが、神代理人という男の戦い方だった。
ノイズに満ちた東京の夜に、キーボードの打鍵音だけがやけに静かに響いた。
この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件とは一切関係がありません。
「ハッキング」行為は「不正アクセス禁止法」に触れる犯罪ですので絶対に真似しないでください。