還らない
朝の空気にまざった排気ガスにむせた途端、整髪量のスプレーの残り香を吸い込んでしまった。寝起きのぼうっとした頭がきりきりした。
アスファルトの地面を自転車で駆ける。ゆるやかな下り坂にさしかかると風を切って移動するようで、ネクタイがぱたぱたと踊る。その動きとは裏腹に気分は重い。月曜の朝は光司の視線を自然と地面に向かわせた。前方に注意をはらうのだが、自然と視界が沈む。
発注しすぎた担当商品が、倉庫で小山を作っていたのを思い出す。早く売らないと新しい商品を仕入れることもできない。胃がじんわり痛んだ。景気よくまわるのはタイヤばかりだ。
体を前後左右にかたむけて、坂をのぼる。夏の名残のじんわりとした暑さが、汗となって光司の体を包む。薄い膜に覆われているような不快な気分だ。ワイシャツの背中にはもう汗がにじんでいる。ネクタイがよじれた。
額からとんだ汗の行方を目で追うと、転がったセミが目に入った。もう脚が動かない。限界を感じて坂の途中で自転車からおりた。靴底がざりっと鳴った。
突然、背後でセミが声をあげた。
鳴いたのは他のセミか、さっきのセミか。一瞬ふりかえりかけてやめる。どうせ死ぬ。
アスファルトに還ることはない。おそらく粉々になってアスファルトのすきまにすり潰されていくことだろう。
生まれた大地に還ることのできないセミの死骸は、光司の背中を冷たくさせた。
あがけるうちにあがいてやる。会社についたら、まずは倉庫の掃除をしよう。
ペダルをこぐ足に無理やり力をこめて、坂道をのぼりきった。
(2004.10.30)