三話『ヒーローも裏では喫煙してるかもしれない』
「ルガがいちばん!」
「いーや、最後にゃオレの毒と糸で動けなくなってただろ? だからオレの方が弱らせてたぜ」
「うがぁぁああっ!」
「……喧嘩するんじゃないよ」
意地を張って頬を膨らませるルガと、意地が悪くニヤリと笑って対抗するタタラ。
一悶着あって船を降りた一行は、タタラやルガをも英雄視する船乗りたちの視線をくぐり抜け、なんとか港町へと降り立った。
だというのに、今度は二人の口論で注目を集めてしまっている。幼児と成人男性の口喧嘩に、何事かとヒソヒソ話を始める輩もいる始末。
二人の仲裁を担うルミナは額を押さえた。
「……ルガはいっぱい頑張ったね。偉いよ。ありがとう」
「ルガ、やくにたった?」
「ああ。とってもね」
「んへへ」
歩きながらルミナはルガの頭に手を乗せて撫でる。賞賛にすぐに機嫌を直したルガは頬を綻ばせた。
だがタタラは碧眼を細め、嘲るように鼻で笑う。
「へっ、単純なヤツ」
「キミもルガを煽るんじゃないよ、タタラ。子どもじゃあるまいし」
「そーだそーだ!」
「さりげなく子ども扱いされてんぜ、ルガ」
「うぐっ……」
犬猿の仲。二人の間柄をそう称する他なく、彼らを挟んで歩くルミナは周りの目が冷ややかなことも相まって苦笑を禁じ得ない。
「大体、あのザコは図体がデカいだけのただの格好の的だったぜ。オレの毒や糸すら効いたし、一回の爆発で死んじまったんだからよ。あんなヤツを追い詰めて楽しいか?」
「うぐぐ」
「ザコを狩って得意げになってっから、テメェはいつまでもガキなんだよ、ルーガ」
「むぐぐぐぐぅ……!」
「タタラ……《命令、罰を与える》」
「ちょっ、待っ、ぐぁあ゛ッ!」
悔しげに唸るルガを援護すべく、ルミナは言葉で罰を言い渡した。
ルミナは直接手を出していない。しかし痛みに喘いで顔をしかめ、強張るタタラ。悶絶しながら、苦痛の中で彼はルミナを見下ろした。
「て、テメェ……ッ」
「大人気ないキミだって、ボクから見ればガキさ。はい、二人とも子どもということで、この話はおしまいだ」
「ルガ、ガキ?」
「二人ともね」
「……タタラもガキなら、いい!」
「テメェはそれでいいのかよ」
ポジティブシンキング。宿敵をも汚名に巻き込んだルガは満足げに頷いた。
ただ一人、巻き込まれたタタラだけは困惑気味にツッコんだ。
「それより気になることがあるんだ」
「なんだ? ごはん?」
「ルガ、腹減ったのか? ほら、干し肉食ってろ」
「にく! いただきます!」
タタラの懐から取り出された干し肉に、ピンと耳を立てて食らいつくルガ。
ルガを置いて話は進む。
「クラーケンのことさ」
「クラーケン? ンだそりゃ」
「……さっき倒した魔物だよ。名前くらい覚えておいてくれ」
「ザコの名前なんかいちいち覚えてらんねェよ」
「タタラ、ばかだもんな!」
「うっせェよバーカ」
「それ以上喧嘩するなら、二人とも両成敗だよ」
「ヘイヘイ」「はーい……」
二人の対抗心に火がつき始めたところで、すかさずルミナが仲裁に入る。イマイチ納得いかない声色で返事をする二人。しかしどうやら一旦、互いに矛をしまったようだ。
折れた話の腰を戻すべく、ルミナはため息を吐き出した。
「本来なら深海で大人しくしてて、海に沈んだ人間を喰らっているハズだ。海面から顔を出すなんて、滅多に無い」
「確かにここいらをよく通る船乗りたちも、クラーケンを初めて見た反応だったな。それどころか、貨物船だからって魔物の対策も魔除けしかしてねェ。魔物に遭遇なんて想定してなさそうだった」
「おかしい!」
「うん、そうだね。おかしい」
どこか神妙な顔をして考え事にふけこむルミナ。今日の騒動はタタラとルガの不仲以上に頭を悩まされるに値するらしく、徐々に三角帽子の鍔が下がる。
だがルミナの金色の瞳には、オレンジの光に当てられている地面が映る。
空の夕日が輝かしく精彩を放っていた。タタラも西日をまぶしげに見上げ、ルガは一つあくびをこぼした。
「もう日暮れか。宿へ急ごう」
「たしかに、ルガ、ねむい」
「ルガはお子ちゃまだしな」
「うがぁあッ!!」
幼いルガはタタラの単純な煽りで憤慨を見せる。両手の握り拳を握っていきり立つが、そのキレは先ほどより鈍い。
「ルガをおぶってやってくれ、タタラ」
「ヤだね。テメェがおぶれ、ルミナ」
「命令だよ」
「……しゃーねェな。人使いが荒いヤツ」
タタラはルガの前でしゃがむなり、「ほらよ」とぶっきらぼうながら背負う準備を整えた。
だが彼の背はいつまで経っても空気が撫でるだけである。
ルガは首を横に振り、おんぶを拒んでいた。
「タタラの背、やだ」
「ワガママ言わないでくれ、ルガ。そうやって意地張って、この間は路上で寝ただろう」
「うぐっ……」
「そーそー、そうやってガキらしく――待て、オレが悪かったからもう命令しようとすんな、ルミナ」
今日で何度目かの喧嘩が勃発しかけたが、それを見逃すルミナではない。タタラに向けて、薄く口を開いた。
しかしすかさずタタラの上げた両手と上部の謝罪により、ルミナは口を閉ざした。
仕方なさげに拗ねながらもおぶられるルガを背に乗せ、タタラはルミナの斜め後ろを歩いてついていく。ルガはぐずり始めそうだったが、どうやら眠気が勝ったらしく怒気はたちまち勢いを失った。
人伝の道のりを辿って宿に着く頃には、日は沈んで代わりに月が昇り、星々は太陽光の邪魔を無くして輝いていた。
宿に着いたルミナたち一行は、特に弊害も無くチェックインを済ませる。
部屋につく頃には、ルガはタタラの背で熟睡していた。
「くかー……くー」
「ハァ、いつまでも夜だったらコイツもこうやって大人しいのに」
ルガの真っ赤な瞳は閉じられ、犬耳にも似た長い獣の耳はぺたりと伏せられている。彼を背負っているタタラから幼い寝顔は見えなかったが、取れた宿の明かりもつけていない寝室、そのベッドへ雑に放り投げることで彼も一瞥できた。
「投げないであげてくれ」
「オレも疲れたからつい」
「どの口が」
「制御不能な強風に飛ばされて、無理矢理クラーケンと戦わされたモンで」
「キミはその程度じゃくたばらないだろう?」
「テメェといると命がいくつあっても足りねェよ……」
未だ起きる二人は軽口を叩き合う。共にクラーケンを相手にした疲労は見えず、しかしタタラは面倒そうに自分のベッドに腰を下ろし、ルミナは窓辺に置かれた椅子に腰かけた。
「メシは?」
「明日、起きてからにするよ。タタラは空腹かい?」
「別に」
「ならさっさと休むんだね。ボクはここで寝る」
「お前、寝起きは悪いクセに、ホントどこでも寝れるよな……」
寝室に並ぶベッドは三つ。ルガは窓に最も近いベッドで寝息を立ててぐっすりと眠っており、タタラは逆に窓から離れた端のベッドを己の寝床とするようだ。不自然に空いた真ん中のベッドにルミナは荷物を投げ捨てた。
「ここなら星もよく見えるしね」
「星なんか見て何が楽しいんだか」
「月も見えるよ。タタラもどうだい?」
「天体観測なんてガラじゃねェ」
ルミナに吐き捨てるなり、タタラはその身をベッドへ投げ打った。大人しく寝台に沈む赤髪を確認したルミナは、足を椅子に乗せて背を丸める。
ギシリと音を立てて椅子の脚への負荷が表されるなり、ルミナは己の右手を見た。
普段はローブの下に隠れて日光を拒んでいるからか、ほっそりとした手首は白い。手のひらの開閉を繰り返しながら、ぽつりと。
「……ままならないな」
恨めしく、ルミナはごちる。
当然、そんな独り言は誰届くことも益体も無く空気に溶けた。
暗いローブが身を縮める。月光を遮る三角帽子が放り投げられ、影に隠れていた黄金の瞳は満天の星空を映して輝きを取り戻した。
だというのに、ルミナの表情が変わることはなかった。
無表情を貫き通し、夜も深まりすぎぬうちに視界を閉ざした。
☆
その子どもは日の出と同時にパッチリと目を覚ました。
活発な印象を抱かせる赤い瞳による数回のまばたきで、彼の睡魔は飛ぶ。尻からは少し尖った毛並みの尻尾が垂れており、揺らすと安物のベッドシーツにこすれた。
「んぁ……?」
少年は辺りを見渡す。ただ一点、まばゆい光が彼の目を引いた。その光――窓から差し込む太陽光の下で、小柄な一人の人間は顔を膝にうずめ、小さく肩を上下にゆっくり揺らす。
「ルミナ?」
少年は声をかける。だが呼びかけに反応は無い。
朝の挨拶を求めて、彼はベッドから降りて丸まる小さい背に寄る。
「ルーミーナー、ルミナー! あさ!!」
「やめとけ、ルガ。ルミナの寝起きが悪りィのはいつものことだろ」
暗い空色のローブごと膝を抱えて眠るルガの保護者的存在は、ルガの大声を前にしようとも、彼に揺さぶられようとも目を覚まさない。
代わりに騒音に対して至極面倒そうな声がルガを制止した。
「タタラ、おきてた?」
「起きたんだよ、テメェのせいで」
「そっか」
ルガは後ろを振り向く。端っこのベッドでのろのろと上半身を起こし、ひどく眠たげに目をごしごしとこする男が、派手な寝癖を立たせて不機嫌な声を響かせていた。
だがルガは悪びれもせず、適当にあしらう。
「ハァ……テメェのせいで健康的な生活リズムが身についちまったじゃねェか」
「はやねはやおき、いいこと。ルミナ、言ってた」
「その言葉をそっくりルミナに返せよ」
「む……それより、はらへった。めし!」
「ヘッタクソな話の逸らしだな。ま、オレも腹減ったな。飯食いに行くぞ」
「わーい!!」
睡眠欲より食欲が勝った彼らは、必要最低限の荷物を持って身支度を整える。多少の物音が立つが、やはりこの場で唯一眠る人物は目を覚ます気配が無い。
ルガはルミナを置いて、一足先に部屋を出たタタラを追いかけた。
「なにくう?」
「まだ日が出たばっかだし、市場になら捕れたての魚が並んでるんじゃねェか?」
「さかな!」
漁師たちの朝は早い。それは日の出と同時に起床したルガたちよりも。
彼らならば既に特産物である魚も捕っているのではないか。そう予想したタタラは宿を出た。
ルガも置いていかれまいと早足でついていき、まだ見ぬ魚肉の味を想像しては口内で唾液を分泌させる。
昨日こそ対抗心を燃やしては喧嘩腰になっていた二人だが、食欲の前ではどんな生物も平等に抗えない。二人して食べ物へ従順になり、道中に会話は無かった。
二人の意識は魚に向いており、互いのことなどほとんど眼中に無かったのである。
が、しばらく歩いた頃。通りを真っ直ぐと抜けてる最中に、ルガは足を止めた。
ふさふさの耳を真上へピンと立てて。
「タタラ」
「どうした?」
不意に立ち止まったルガに、タタラは不思議そうに振り返る。
「だれか、けんか」
「朝っぱらからか? 案外この町も治安が悪りィんだな」
「けんか……けんかじゃない。イジメ!」
「お、オイ、ルガ!?」
ピクピクと耳を動かしてそばだてるルガ。何か拾ったらしい彼は、反応を頼りに近くの路地裏へ入る。
「待て、ルガ! テメェに何かあるとオレがルミナに怒られンだよ!」
「でもあっちでおねえさん、こまってる!」
「……お姉さん? 女か?」
自身の保身のためにルガを追いかけるタタラ。彼は全速力で追いつこうとするが、ルガの証言で目の色を変えた。
「ルガ、そいつは若いか?」
「たぶん」
「よしきた!!」
途端にやる気を見せた碧眼はかっ開いた。その身から溢れんばかりの気迫は、幼い正義感に燃えていたハズのルガすら気圧される。
「タタラ、とつぜんげんき」
「いいからいくぞ、ルガ! 困ってる女を放っておけるか!」
「おまえ、だれ」
「どっからどう見ても天下無敵のタタラ様だろうが。いいから、困ってる女の声が聞こえたんだろ? 早く案内しろ!」
「えー……ほんと、だれ」
ルガは普段見ないやる気を見せたタタラを刮目し、困惑をこぼす。だが困っている人を放って、豹変した同行人に構っている場合ではない。
ルガは路地裏を走り抜け、彼の言うイジメの現場へと向かう。
二人が駆ける曲がりくねった道は、路地裏の中でも特段日が射さぬ道。悪事を企むにはうってつけの、狭くて人目のない場所だ。
現にルガが一足早く目的地へ到着すると、彼は悪事の最中を目撃した。
軽装で剣を携えた悪漢たちが、ルガたちに背を向けて誰かに襲いかかろうとしていたのだ。
「――逃げても無駄だぜ、お嬢ちゃん? 向こうには俺たちの仲間もいる」
「そうそう、諦めて捕まりな」
下卑た口調は明らかに善人とはかけ離れた輩のものだった。剣を振るう様子こそ無いものの、いつでも臨戦態勢には入れるようだ。獲物を追い詰めて得意げになっている。
「何なのですか、あなたたちはっ!」
悪漢たちに包囲されていたのは齢十七程度の少女。未だ成長過程の彼女の可憐な、しかし切羽詰まった声は怒りで震えていた。
「魔法が使えても、複数を相手に戦闘なんか出来ねェだろ? 諦めて縛られて、俺たちと来な。村で嬢ちゃんの母親も待ってるぜ」
「お母様や村の人たちは無事なのでしょうね……!?」
「さァな? アンタが大人しく俺たちにさらわれてくれれば、分かるかもな」
明らかに事案である。
ルガは目測で標的を定めると駆けつけた勢いを保ったままに跳び、足を振り上げた。
「イジメは――」
力むルガ。
彼は少し焦げた小さな足を、制裁のごとく悪漢の一人の頭へと下ろした。
「――メっ!!」
ゴツン、と打撲音が路地裏に響き渡る。ルガの放ったかかと落としは男に命中し、男は脳天に衝撃が伝導する蹴りにより小さいうめき声を上げたのちに、ふらりとよろけた。
軽やかな動きで綺麗に着地したルガだが、存外無事な男の様子にムッと顔をしかめた。
「……ちから、まだ、でない」
「どけ、ルガ。オレがやる」
「な、何なんだテメェら! いきなり現れてッ!」
ルガの蹴りに驚いた男が振り向き、剣を抜こうとする。
だが気付けば男の視界は地面をいっぱいに映していた。他に彼の感覚が受け取った情報は先ほどの蹴りによる頭部の痛み、そして側頭部への衝撃と平衡感覚の喪失によるめまいだった。
「はん、遅ェ。剣を抜くまでもねェな」
タタラは半曲刀の剣の柄に手を置いたままもう片方の手で男の側頭部を叩き、人の感覚をつかさどる脳の一部へ強い刺激を与えた。
目論見通りに大脳を揺らして一人戦闘不能へ導いたタタラは、不敵な笑みを浮かべてもう一人の悪漢へ顔を向ける。
「その娘から手を引きな。今なら見逃してやらないこともないぜ?」
「タタラ、かっこつけてる」
「うっせェ」
ルガの冷静な指摘をタタラは一蹴する。だが余裕を見せつけ、少女を挟んで向こう側で警戒している悪漢と対峙する。
仲間がやられて分が悪くなった男は歯ぎしりをこぼす。
が、強がった笑顔を無理やり浮かべた。
「けどな、まだ仲間が――」
「テメェの後ろの角を曲がったところに二人。そんでもって」
タタラは天を仰ぎ見る。
「建物の上から、ターゲットを見失わねェように見張ってるヤツのことか?」
「っぐゥッ!?」
彼の予想通り、悪漢の仲間は路地裏という空間を構築する建物の屋根から騒ぎを見ており、仲間の一人がやられるなり剣を抜いてタタラの頭上へ振り下ろそうとしていた。
が、見抜いていたタタラは後ろへ大きく下がり、着地後に回し蹴りを叩きこむ。
男は着地したばかりで回避の動作を取る暇も無く、攻撃が直撃した。吹っ飛ばされて壁に激突した男は痛みに喘ぎ、あえなく地面へ伏した。
「チィ……ッ!」
「まだやんのか? 言っとくが、三人がかりでもオレは倒せねェよ」
「しょうがねェ……オイ、一旦ずらかるぞ!」
「い、いいのか!? ハーミットの兄貴に何を言われるか……」
「大丈夫だろ。まだやりようはある」
未だ無傷の男は撤退を決断した。のしている男たちはふらふらと立ち上がってはそれに異を唱える。
だが鶴の一声にいなされ、彼らは撤退を総意とした。
「にげるのか!? タタラ、おいかけよ!」
「やめとけ。いざこざは無いに越したことは無ェ」
「おまえ、それ言う? いつもトラブルの……か、かちょ、かちょう? なのに」
「渦中な。つーか、問題児って意味ならルガもそうだろうが」
タタラたちに背を向ける悪漢たちは一目散に逃げ出した。その背が見えなくなるまで睨みつけていたタタラとルガは、男たちの気配が完全に無くなったことを確認すると改めて襲撃の被害者である少女へ向き合う。
「あ、あの……」
第一印象はまさしく『可憐』を体現したかのような少女だった。
彼女の腰まである流麗な銀髪は、誰が見ても丁寧な手入れが施されていると知れる。頭の左右にはお団子を作っており、紫紺のリボンで結んでいる。そのリボンと同じ色の瞳を浮かべる垂れ気味の目は希望に満ちあふれ、光が絶えることを知らない。
服装も肘まで袖のある白い襦袢の上に袖の無い紫の小袖を羽織っており、ヒラヒラとした丈は膝までしかないが生地は良い。
あどけない表情と所作の一つ一つは上品であり、生まれの良さをうかがわせる。
彼女は悪党を追い払った二人の恩人を視界に映すと、深々と頭を下げた。その拍子に花の香りがふわりと辺りを包む。
「助けていただき、ありがとうございました……! しかし大変申し訳ないのですが、早く村に戻らないといけなくって!」
少女は大変興奮した様子で息巻いていた。憂いげな表情に罪悪感をにじませながら、恩人たちへ謝罪を述べる。
その性根は、少なくとも平気で恩を素知らぬフリをする人間でないのは誰の目から見ても明らかだった。
「お名前だけ教えていただけませんか? いつか必ず、この恩を返しに行きますから!」
「オレはタタラ」
「ルガはルガ! こまってる? たすけ、いる?」
「いえ……これ以上迷惑はかけられませんので。本当にすみません、失礼します……!」
「あっ、オイ、せめてアンタの名前だけでも……」
「タタラ、ひきとめちゃダメ。ばいばい、おねえさん」
「はいっ、ではまた!」
彼女の行為は恩知らずそのもの。しかし善良そうな彼女がそれを為すほどの並々ならぬ事情があるとルガですら察し、彼は少女の足を止めさせるタタラのパーカーの裾を掴んだ。
タタラは立ち去る少女を見送った後、不服そうにルガを見下ろす。
「何で邪魔すンだよ、名前くらいいいだろ」
「いそいでた。それにタタラ、目の下、のびてる」
「目の下? ……鼻の下じゃなくて?」
「そう!」
ルガはタタラの下心を見抜き、間違って覚えた慣用句と共に指摘した。実際にタタラは少女に対して不躾な視線を送っていた。
少女の方は、どうやら緊急事態に気を取られていたようだが。
「そもそもおまえ、あんないいやつじゃない。なに、たくらんでる?」
そしてルガはタタラへ懐疑的な目を向けていた。
ルガは幼いながらに、タタラという男の本質は不良であると認識していた。
タタラは徳性など持ち合わせておらず、利己主義のままに生きる輩。他人を慮って人助けをすること自体あり得ない。その行動原理の源は他人に強制されない限り、必ず自分の損得か感情が関わっている。
ルガはそう思っているからこそ、少女へ気取ったフリをしたタタラとのイメージの相違で疑り深くジト目を送る。
ルガのタタラへの認識はあながち間違ってはいない。
その証左に、タタラはもう昨日盗みを働いて咎められたことを反省するどころかすっかり忘れてふんぞり返っていた。
「べっつにいいだろー。ヒーローが例え裏でどんなことをしでかそうが、助けられた側から見りゃ『助けられた』っつー事実しか残らねェ」
「だからタタラ、なにかたくらんだ。そうおもったから、とめた」
ルガの赤い瞳が厳しげにタタラの赤髪を貫く。
だがタタラは素知らぬフリして、両手を後ろ頭で組む。
「たったたったうるせェよ、警戒しすぎだろ。は〜ぁ、動いたから余計に腹減ったわ。魚食いに行こうぜ、魚」
「む……たしかに、はらへった」
「だろ?」
タタラが食欲を思い出させると、ルガの思考はタタラへの懐疑から空腹一色に染まった。ぐー、と元気に鳴り響く腹の虫は幼い。
「タタラ、ほしにく、ある?」
「もうちっと我慢しろ。市場につけばたらふく食えるぞ」
話を逸らしたタタラと食欲に従順なルガは路地を抜けるべく歩き出す。白んでいた空は時間の経過と共に日光がはびこり、明るさを助長させる。
塩を含んだ澄んだ風が、外出する人々の頬を撫でた。
「にしても」
タタラの独り言は、その風に乗って誰にも届かず消える運命にあった。
「『ハーミット』って、なーんかどっかで聞いたことがあるような、無いような……?」
彼は脳に引っかかる疑問に気にかけていた。少女を誘拐しかけた悪漢の一人が口にした『ハーミットの兄貴』とやらの人物。
それはタタラが耳にしたことのある固有名詞らしいが、彼は一向に記憶からかの人物を引き出すことができない。
結局タタラが彼を思い出すことはなく、やがてこれから彼らが食す焼き魚に気を取られ、『ハーミット』という人物は謎なままに終わった。