二話『スターはすり替えておいたのさ』
「な、何よ……何なのよっ!」
ルミナが抜けた後もポーカーを続けていたナナは、カードを落として海の魔物の巨躯に驚く。
ルミナは魔物から目を離さないまま、その声を静かに拾い上げた。
「あれはクラーケン。タコに似た八本足の軟体の魔物だよ」
「クラーケン!?」
「普段は深海に棲んでるハズなんだけどね」
クラーケンの頭だけでも人間の何倍もあり、全身が露呈されれば恐らく船に匹敵する大きさとなるだろう。
ルミナはジッとクラーケンを見据える。目こそ鋭く魔物を捉えているものの、解説するその声は平坦だった。
「な、何でそんな冷静でいられるのよ、ルミナくん……!」
ナナは腰を抜かしながら、揺れる船の上でも平然と立つルミナへ問う。
海面から三本の足を出したクラーケンは船より高く足を上げ、船は足の影に覆われている。船員たちにロクな対抗手段は無い。
かく言うナナも、クラーケンを倒す手立ては思いつかない。
「魔物って、悪意の感情から出来たあたしたちの天敵よ。あいつらに慈悲なんか無いし、人を見かけたらまず殺しにかかってくるのよ……!?」
クラーケンとて魔物だ。例外ではない。
ましてや、先手必勝と言わんばかりに船舶へ損害を与えたのだ。
ナナはその事実を理解し、クラーケンに敵う道理が無いと悟って絶望していた。
この船には砲台も無ければ、対抗手段は役立たずの魔除けのみ。
海でクラーケンという水を得た魚のような強敵を相手取り、それでどうして戦えようか。
「大丈夫、ナナさん」
しかしルミナはクラーケンと対峙しながら、絶死の未来を否定する。
ルミナの向こうには、口から海水を噴き出しながら憤慨して襲いかかろうとしているクラーケンがいる。
にも関わらず怯むことなく相対するその人物は、ナナから見て頼りに見えた。
「る、ルミナくん……まさか君、クラーケンを倒せ――」
「いや、戦闘は任せるよ」
「えぇっ!?」
あっけらかんと言い放つルミナ。
ルミナに希望を見出していたナナは容易く裏切られ、再び絶望の淵へ立たされた。
だがルミナに諦観の色は見えない。
「ナナさん、火の魔法が使えるなら、爆発魔法は使える?」
「使えるけど……」
「『モノ』は?」
「一応、なんとか」
「なら良し」
「なにがぁ!?」
一人でに勝手に納得するルミナに置いていかれ、ナナは声を荒げる。
「ボクの連れが時間稼ぎをするから、ナナさんは魔力を練っていつでも『モノ』で爆発魔法を発動する準備を整えておくれ」
「そ、そんなこと言われたって、あたしの魔法なんて大したことないし……!」
ナナの脳裏には、己の実力がよぎっていた。
ルミナへ『自分の才能は普通』と述べた通り、彼女は自身の魔法が平々凡々たるものであると自覚している。その劣等感は自信の喪失につながっていた。
だがルミナはナナへ振り返る。自信に満ち溢れた、不敵な笑みを湛えて。
「強いよ。今だけは」
「……えっ?」
ナナがその真意を確かめる間もなく、ルミナは大きく息を吸い込んだ。
「タタラ! ルガ!」
「ヘイヘイ、人使いが荒いヤツ」
「がうッ!」
ルミナが仲間の名を大きく呼ぶ。
彼らは船に振り下ろさんとばかりに宙に浮かぶ触手を見上げ、各々で己の武器を構えた。
タタラはサーベルの鞘を持ち、抜刀のために空いた手を柄に添え、右足を引いて深く踏み込んでいる。
ルガは獣の耳や尻尾の毛を逆立て、爪の伸びた手を床につけてクラウチングスタートの体勢になっている。
二人が同時に動き出すと、彼らのいた場所に旋風が舞った。
「《可惜蜘蛛ノ糸》ッ!」
ナナの視線の先にいたハズのタタラは、一瞬で触手より高い位置へ移った。抜かれた刀身は太陽光を反射し、キラリと鈍く光る。それを一本の触手に突き刺した。
「ガウ――ッ!!」
ルガも負けじと高く跳び、誰よりも太陽に近づいたところを頂点として自由落下にその身を任せ、爪を触手へと振り下ろす。
膨大な位置エネルギーから生み出された運動エネルギーは触手に大きな打撃を与え、打撲音が鈍く響き渡った。
タタラとルガの攻撃で怯んだクラーケンだが、二人の追撃は止まらない。彼らは触手を伝ってクラーケンの頭へと駆け出した。
自らの足をブンブンと振って二人の進撃を阻止しようとするクラーケンだが、二人は向かってくる触手を避けては上手く乗り継いだことで、撃ち落とされることはなかった。
「強い……」
思わず感嘆を漏らしたナナ。一方的にやられるハズの絶望的な状況に光明が差し、ナナは生存の希望を持ち始めた。絶望に対して抗う二人は、重力や魔物の攻撃をものともせずに児戯のごとく舞っている。
だが戦場と化したこの大海原において、二人の活躍に見惚れている暇はなかった。
「トドメはキミが爆発魔法を撃って刺してくれ。あの二人は精々足止めだ」
「で、でもっ! あたし、頑張っても家を全壊にするくらいで……! 船よりでっかいヤツなんか……」
「大丈夫、ボクを信じて。魔力を練って」
何の根拠も無く、ルミナはナナを信じてトドメを託す。ナナは首を横に振ったが、ルミナの金色の瞳が真っ直ぐとナナへ向いた。
その双眸はあまりにも実直で、ひとかけらの翳りも曇りも見えなかった。
「――分かったわよっ」
あまりにも真っ直ぐすぎる信頼と圧に負け、渋々とナナは承諾した。
「言っておくけど、期待はしないでよね」
「大丈夫、何とかなるよ」
「……ちょ、ちょっと、どこ行くのよ!」
ナナは魔法を唱えるために魔力を練り始めた。するとルミナは急いでどこかへと向かってしまい、船員たちに紛れて姿が見えなくなる。
ナナは途端に不安に駆られて眉を下げた。
「ま、まさか怖気づいて、一人だけ逃げようとかは……無いわよね」
嫌な想像に身震いしたナナだが、この場において打開策があるとすれば、恐らくルミナが握っている。そう直感した彼女は、盲信であろうとルミナに頼る以外で道は断たれていた。
ナナは魔力を練り始めながら、再び視線をクラーケンへと寄越す。船に襲いかかっていた触手たちはタタラやルガをターゲットとして捕捉しており、八本の足を同時に相手にしている。
しかし二人が苦戦している様子は無く、むしろ軽口を叩き合いながらクラーケンを相手にしていた。
「タタラ、よわい。ルガのほうがダメージ、あたえてる!」
「バーカ、目に見えてるモンだけで判断してんじゃねェよ。オレの方がコイツを弱らせてるっつーの」
「でもタタラのこーげき、ちまちま!」
「いーんだよ。オレはテメェと違って純粋なパワーは取り柄にはしてねェ」
二人にはまるで数々の死戦を潜り抜けてきたかのような余裕があった。敵はクラーケンだというのに、競争を連想させるやり取りには緊張感が伴っていない。
「ほらよ、そろそろだ」
踊るようにクラーケンの猛撃を避ける二人は触手の動きが徐々に鈍くなっていることに気づく。触手は攻撃頻度が下がった上、タタラとルガが避ける必要も無いほどに命中の精度も低まった。
「タタラ、なにした? コイツ、くるしんでる」
「なんかその言い方だと、お前がコイツの仲間みてェだな」
「むしろおまえ、ルミナのてき」
「そりゃ、あの腐れ魔女と仲良しこよしなんかできっかよ」
タタラとルガは場所を問わずにいがみ合い、互いに互いを睨む。牙すら剥き出しそうになるが、そこに待ったがかかった。
「タタラ、ルガ、戻れ!」
「ルミナくん!?」
魔法の準備を整えていたナナの隣に、ルミナは何事も無かったかのごとく戻っていた。
「ようやくかよ。オイ、戻るぞルガ」
「トドメ、いいのか? ふたりでもたおせる」
「バーカ、そうするワケにはいかねェだろ。いいから戻るぞ」
「ばかばかうっさい!」
単調な罵倒に怒りを見せるルガだが、ルミナの言葉には素直に従い、驚愕の跳躍力で空へ跳ぶルガ。タタラもルガに負けず劣らずの高さで跳び、船へ目掛けて風を切った。
「ナナさん、魔法の準備は?」
「え、ええ……お陰でもう放てるわよ。自信は無いけど」
「上々だよ。二人が船へ戻ったら頼んだよ」
「待って。今まで何してたの?」
「特に大したことは。船長さんに、船を遠ざけながらも帆を張ったままにしてもらうようにお願いしただけで」
「は、はぁ……? どうしてまた……」
「それは魔法を放ってからのお楽しみさ」
茶目っ気たっぷりにルミナが答える。困惑するナナだが、船へと飛んでくる二人の影が横切って意識が逸れる。
「あっ」
ルミナが一音漏らす。何かまずいことでもあったような声色に、ナナはルミナの視線の矛先を見た。
「いってェエエッッ!!!」
そこには、クラーケンのところから船へ飛んできたのは良いものの、マストに激突して激痛から無様な絶叫を上げるタタラがいた。
クラーケンを相手にするより大ダメージを負ったタタラは落ちて悶え転がるが、タタラと同タイミングで無事に着地していたルガがタタラの元へ向かっては手を叩いて笑った。
「ぶざま!」
「て、テメェ、正直者がイイコだと思ってんじゃねェぞ……」
「でもうそつきのタタラより、ルガの方がいいこ」
「五十歩百歩だ、バカたれ」
死地から戻った二人は、戦友として仲が深まるわけでもなく、相変わらず険悪な仲のままだった。タタラはフラフラと立ち上がるが、すぐに激痛からは回復したようで、ルミナを睨みつける。
視線を向けられたルミナはタタラから顔を背けた。
「……すまない、タタラ」
「あーあー、どう落とし前つけてもらおうか」
「でもキミだってボクを『腐れ魔女』って呼んでたから、これでチャラにしておくれ」
「蔑称の代償が重いんだが。つか地獄耳かよ」
「ナナさん、もう魔法を唱えても構わないよ」
「は、はぁ……」
「都合の悪い時だけ知らねェフリすんな!」
自分たちの何十倍もの魔物と対峙しているにも関わらず繰り広げられる漫才に、ナナは調子を狂わされる。
だがルミナの合図と共に、ナナは練り上げた魔力に言霊を乗せる。
「――《モノ・バース》ッ!!」
ナナは両手を前に差し出し、手のひらをクラーケンのいる方角へ見せた。
手の内には五センチにも満たないすり鉢状の弾が、眩い光や熱をまとって収まっている。ナナが叫ぶと同時に、その光の弾は発射された。
等速直線運動でクラーケンへ飛ぶその魔法は、クラーケンの前で弾ける。
その瞬間。
閃光が、轟音が、爆発がクラーケンを爆心地として炸裂した。
「――えっ?」
それは発動者のナナですら素っ頓狂な声を出してしまうほどの高威力。船と同程度の大規模な爆発は、もはや爆裂と呼ぶべき災害であった。雲すら突き抜けるほどの爆風にはあらゆるエネルギーが収束しては弾け飛び、もし船がもう少し近ければただならぬ被曝を受けていたことだろう。
一気に収束した元素全てを爆発物に変換したような渾身の一撃にクラーケンは白目を剥き、黒焦げになって海へと沈んでいく。
爆発の余波は船にすら届いた。爆撃で波は揺れ、船が大きく傾く。だがなんとか転覆は免れ、帆を張っていたお陰か爆風で船が急激に進む。
何故か風圧や熱により帆や船が傷付くことはなかった。
たった一回の爆発はクラーケンを倒し、船の躍進を手伝った。危機的状況からの脱出の仕方はあまりにも派手で、あまりにも非現実的で、魔法を放った本人すら呆気に取られて立ち尽くす。
ナナの放心は、クラーケンの痕跡が見えなくなるまで続いた。
☆
「何で、あたし……あんな大爆発なんか、起こせるワケ……」
「すごいじゃないか、ナナさん」
ルミナが手放しで賞賛する。それを皮切りに、生存への安堵で笑う船乗りたちがナナを称え出した。
「すげぇな、嬢ちゃん! まさかあんな魔法が撃てるなんて!」
「もしかしてアンタ、高名な魔法使いだったりするのか!?」
「え? いや、あたしは……」
ナナは誤解を受け、助けを求めるべくルミナへ視線を向けようとした。だがルミナもニッコリ笑うばかりである。
「土壇場であんな魔法を撃てるなんてすごいよ、ナナさん」
「だ、だからぁ! あたし、本当はあんな魔法を撃てるハズなんて無いのよ!」
「いやいや、キミが撃ったんだよ、あの魔法。もしかしたら最近よく噂になってる星の魔女より強いんじゃないかな?」
「ほ、ほほっ、ほ、星の魔女ぉ!? 馬鹿言わないでよ、そんなのに敵うワケないでしょ!」
「そうかい?」
「そうよ!」
ナナは自身の知るより乖離した魔法の威力にビビり散らしていたが、それ以上にルミナの口から出てきた存在に震え上がる。
「ほ、星の魔女って言ったら、師匠である太陽の魔女を殺して、メルデ大陸のアブロス王国に隕石を落として壊滅させかけた悪党でしょ! そんな極悪な魔女に敵うワケ……」
「ううん、あんな魔法が撃てるんだったら、きっとその噂の星の魔女より強いよ」
「勘弁してよぉ!」
ナナはもてはやされるが、彼女は誤解だと声を荒げた。
自分の実力にそぐわぬ魔法を撃てたカラクリは、彼女には解き明かせなかった。そんな状態で、それが自分の実力であるとどうして声高々に示せようか。
「る、ルミナくん、まさかだけど……」
だが一つだけ、ナナの脳裏に掠めた予想があった。あまりにも馬鹿馬鹿しすぎて確認するのも憚られる話だ。
「ルミナくんが何かやった、とか……?」
それはナナの眼前にいるルミナが、トンデモ爆発の首謀者であるという説。
ルミナはナナが大規模な爆発を起こせると確信したような物言いでナナを信頼したのだ。二人はこの船で出会ったばかりであり、互いの力量を一目で見抜くことは不可能に等しい。
しかしルミナは信用して託した。ナナにクラーケンへの爆発魔法を。
だがルミナはキョトンと目を丸くし、やがて困ったように眉を下げる。
「そうなるとボクは無詠唱で、しかもとっても短期間であんな爆発を起こしたことになるよ。魔力をあまり溜めず、練らず、唱えずに。魔法の威力がどうすれば上がるのか、知らないナナさんじゃないだろう?」
「……自分の持っている魔力を使って練って、唱えることで威力が増すわ。でもあたし、それでもあんな高威力な爆発魔法は……!」
明らかにはぐらかす態度のルミナに問い詰めようとするナナだが、ルミナはのらりくらりとかわす。
ルミナの言い分はもっともだ。ルミナは誰かに指示を飛ばすばかりだったが、本人が魔力を練ったり詠唱した素振りは無い。威力を上げる過程を無視して放った魔法にしては、桁違いの爆発力を持っていたのである。
それこそこの世界において一定以上の実力を持ち、遠くの島にまで噂が伝播するような強力な魔法使いでもない限りは、ナナの仮定は当てはまらない。
「まあまあ、いいじゃないか。ボクたちは窮地を脱した。今はそれを素直に喜ぼうよ。……それに」
船員たちは自然豊かでそこそこの領土を誇る島――そして目的地である活気あふれる港町が見えてきたことに歓声を上げる。奇跡の生還を実感しては生を噛み締め、号泣する者すらいた。
生きている喜びに咽び泣く彼らは、感激のあまりに港へ手を振る。己は生きているのだと、大きく腕を振って存在を主張する。
誰も彼もが、希望を瞳ににじませて顔を上げていた。
そんな中でルミナだけは下を向き、帽子の鍔に顔を隠す。
「好奇心はいつか巡り巡ってキミを傷つけてしまうよ」
ルミナの持つ猫目に宿る金色は、見えなかった。
「……それって――」
「ルミナー! みなと、みえた! したくしよ! したく!」
「今行くよ。それじゃあね」
遠くから幼い声が聞こえ、ナナの言葉を遮る。声の主はどうやらルガのようで、ルミナは幼子の元へ歩みを進める。
だが去る直前、突如ルミナはローブを翻した。
「ああ、そうだ。ナナさん」
「な、なに?」
ルミナに呼ばれ、ナナは強張る。だが彼女の緊張とは裏腹に、ルミナは口角を上げた。
口の前には人差し指を立てて。
「内緒にしてね、ボクのこと。あの魔法はキミが撃ったことにしてくれ。命を救ってあげたんだから、それくらいのお願いは対価としてもらって当然だろう?」
「――ッ! 君、やっぱり……」
ルミナの言葉は裏を返せば、『大爆発は自分が起こした』と自白したようなものだ。
クラーケンを倒し、船に乗り合わせた全員の命を救った偉業。なぜそれをわざわざナナの手柄に仕立てたのか、彼女には皆目見当もつかなかった。
「また会えるといいね」
ルミナは別れを告げて、今度こそナナへ背を向けた。
海鳥は呑気に先ほどまでの悲劇などに素知らぬフリをして鳴いていた。船乗りの人混みにルミナは紛れる。
その先には、ルミナを待つようにオレンジ髪と頭にある犬のような耳を揺らす幼子と、群衆に溶け込むには無理のある赤髪の男性が立っていた。
集団に混じってもなお、彼らは存在感を放っていた。