十八話『恵まれた子』
『――おかあさま。どうしてわたしは、みんなよりあそんじゃダメなのですか?』
紫紺の目を涙で潤わせた幼い少女はしゃくりあげながら泣く。大粒の涙は頬を伝って地面へ落ちるが、それは誰にも止められなかった。
代わりに自身の境遇に嘆いて泣く少女を母親が膝を折って抱き締める。
『誰よりも強くなって、みんなを守れるように……その結果、貴女自身も守れるようにするためですよ』
『わたしも……?』
母親は泣く我が子の頭をあやすように撫でた。幼子の疑問に対して「そう」と頷き、理由を続けながら。
『いつもいつでも私は守れるワケではありませんから。……そうできれば良かったのですけれどね』
『だからわたしも強くならないといけないのですか?』
『ええ』
母親は静かに笑んだ。
『貴女が弱いままだと私、いつまでも甘やかしてしまいそうで』
『……おかあさまのけいこは十分きびしいです』
『本当は私も辛いのですよ。けれど甘やかしすぎると、未来で貴女がとても辛くなってしまいますから』
『わたしが……? どうして?』
子どもはピンとこない様子で首を傾げる。やがて抱擁が解かれ、彼女は立ち上がる自分の母親を見上げた。
その顔はどこまでも穏やかで、瞳には温かな光を宿していた。
『もし、貴女に守りたいと思うほど大切なものができたとき、守る力がなくて失えば――貴女は酷く後悔する羽目になるでしょうから』
けれどその表情には哀愁が漂っていた。分類するならば笑みの顔だが、少女が喜びの感情を感じ取ることはできなかった。
『おかあさまは、コウカイしたことがあるのですか?』
『それはもう何度も』
『……あんなに強いのに?』
『昔は未熟でしたからね』
『そうですか……おかあさま、おかあさまの大切なものって何ですか?』
もう少女は泣き止んでいた。母親の説得に一応の納得は示したらしく、泣き腫らした目に残る涙の残骸を拭って母親へ尋ねる。
『島と、島のみんな。それと――貴女よ、レティシア』
少女の頭には、ほのかに温かみを感じる手が置かれた。
☆
センリュシアは眼と頭が痛みを訴えることを自覚し、意識を取り戻した。
だが何故か彼女の瞼は重く、開けてもなお視界は上手く機能しない。彼女の見える世界は色がおかしくなり、物の輪郭もハッキリと捉えることはできなかった。
何があったのか現状を把握するために彼女は直前の記憶を引き出そうとする。
その前に、彼女は自分が何かを枕にして横たわっていることに気づいた。
「な、にが」
「動かないでください、お母様」
センリュシアの頭上で、彼女の聞き慣れた若い娘の声がした。
身じろぎしようとするセンリュシアを抑えるその声と、意識が戻る前に見た夢であやした少女の声はほぼ合致する。
「……レティシア」
「私、嬉しいです。例えまじないをかけられても、お母様が私を一番に優先してくれたことが」
その声色はとても穏やかで慈しみにあふれており、何より喜色が浮かんでいた。
「それほど私を大切に思ってくれてたのでしょう。……昔からそうでしたよね。お母様の稽古は厳しいですが、少しずつできるようになるとお母様は褒めてくださって」
「ええ。厳しくした自覚はあります。けれど貴女が強くなるたびに私は安心できました」
「ではさっきの私はどうでしたか? お母様を安心させられるでしょうか?」
センリュシアの見える色が乱れた世界は徐々に元に戻っていく。それと同時に、センリュシアの顔を覗き込んでいる少女の顔が段々とハッキリしていく。
満天の星空は少しの明かりを地上へと分ける。そのお陰で、センリュシアに膝枕をしている少女はセンリュシアの面影を残す顔で微笑んでいることに気づけた。
「完全に安心はできませんよ。親はいつまでも子どもが可愛くて心配でしょうがないものなのですから」
「……そうですか」
「ですが」
レティの笑みに釣られたセンリュシアも静かに口角を上げる。
「また強くなりましたね、レティシア」
「……はいっ!」
レティの膝元に頭を預けているセンリュシアは右手を伸ばし、レティの頬にそっと添える。
その手の熱に、レティは感極まった様子で返事をした。
そんな二人の間に割り込む声が一つ。
「……親子の団欒中に申し訳ないのだけど。センリュシアさん、キミにかけられたまじないを解かせてもらうよ」
センリュシアは声の主へと顔を向けた。彼女が意識を失う前であれば敵意を示したその旅人は悠然と立っていた。
夜の闇に溶け込める群青色のコートは、着用している主の素性を隠す。不審極まりない格好をした人物を目にしてもなお、センリュシアはもう敵対意識が芽生えなかった。
「ええ、構いませんよ。……何故、私は見知らぬ赤の他人のために攻撃を……」
「そういうまじないらしいですから。でももう大丈夫ですよ、お母様。ルミナさんが解いてくれます」
センリュシアの目は覚め、先ほどまでの戦闘を引き起こした経緯について憂い気に目を落としていた。
既にレティの知るセンリュシアへ戻り、レティは安心して胸を撫で下ろす。
「……おや」
「ルミナ? とかないのか?」
ルミナはセンリュシアを観察すると感嘆の声を漏らした。まじないを解く素振りを見せぬルミナに対し、横に立つルガが不思議そうに問う。
まじまじとセンリュシアを見ていたルミナは何かに納得した様子で頷き、口を開いた。
「解く必要が無くなったんだ」
「そ、それはつまりどういうことですか?」
「センリュシアさんは自力でまじないを解いた。……レティさんの訴えのお陰だね」
センリュシアの脳内にはもうハーミットという人物を大切な存在に分類していなかった。
それはすなわちまじないが解けた証であり、ルミナの手間を省いたのだった。
だが手を頭の後ろに組んで傍観していたタタラはつまらなさげに呟く。
「親子の絆ってヤツか? はー、そうやってまじないが解けンならさっさと解い――むぐッ!」
「野暮だよ、タタラ」
面倒そうに言葉を吐き出しかけた彼は突如として謎の不可抗力によって口を閉ざされ、ルミナとルガに呆れた目を向けられる羽目になった。
再び同じ言葉を叫ぼうとしても、その顛末はたかが知れた。諦めて肩をすくめると彼の閉口は解かれたが、ささやかな抗議としてタタラはルミナを睨む。
「し、自然とまじないが解けることってあるのですか?」
「まじないによっては、まじないの強さと本人の意思次第でね。今回の『影縛り』は勝手に解けるほど弱いまじないだったようだ」
「そのせいで時間稼ぎのためにやったオレの陽動とルミナの儀式の準備、全部無駄になったけどな」
「終わり良ければ全て良しさ。それにタタラだって、どうせ午後は昼寝もして悠々自適に過ごしていたクセに」
「うげっ、オレの行動を把握してンじゃねェよ。気色悪りィな」
タタラは途端に顔を青褪めさせ、心底引いたカオでルミナから距離を取った。ルミナはにこやかに笑うばかりで相手にもしなかったが、代わりにセンリュシアの元へ向かう。
「さて、これは返してもらおうか」
懐から銀に輝く鍵を取り出したルミナはセンリュシアの左手を手に取った。
センリュシアの左手首にはくすんだ銀色の手錠がはめられており、ルミナが持つ鍵を鍵穴に差し込むとかちりと音を立てて手錠が外れた。
「……手錠?」
「ざっくり言うと、はめてると魔法を唱えられなくなる手錠だ。光でキミの目がくらむと同時にルガに頼んでキミにつけさせたのさ。万が一魔法で暴れられると困るから」
センリュシアの意識を一瞬刈り取った強烈な閃光はルミナの魔法だった。
それは辺りにまばゆい光を放ち、その光の中でルガは先ほどルミナから頼まれたこと――センリュシアに手錠をはめるミッションをこなしたのだった。
「そ、そういえばルガくん、目は大丈夫だったのですか? お母様ですら一瞬意識を失うほどにまばゆい光でしたし、そんな中で動くなど……」
「へーき! ……でもいま、くらいから、ねむい……」
「天狼の獣人は虹彩がクソほど発達してっから、目がくらむことは無ェよ。オレは目がチカチカすっけどな……レティサンと違って目ェつむっただけだし」
魔法を唱えられる前、レティはルミナの手によって視界を覆い隠されていた。ゆえにレティの目はノーダメージである。
だが瞼すらも貫通する光のせいでタタラは閃光の後遺症に苛まれたようで、先ほどから辟易による不機嫌をアピールしている。
無傷は過言だが、それでもお互い軽傷で済んだ争いは終わりを迎えた。
同時に、屋敷からの轟音や閃光で異常事態であると悟り、しかし非力なために遠巻きから見る他なかった村人たちが恐る恐る顔を出し始める。
一部崩壊した屋敷と、風の刃によって地面の抉れた跡。圧巻たる惨状は村人たちをすくみ上がらせ、誰もが声をかけるにも多大な勇気を必要としていた。
ルミナはそんな彼らを一瞥すると、暗いコートのポケットに手を突っ込んで屋敷へと歩き出した。
「レティさん、彼らへの説明はキミから頼むよ。《タタラはセンリュシアさんを寝室まで運んでから休むように》」
「オレは馬車馬じゃないんだが?」
「人間なのは見て分かるとも」
「だったらそれ相応の扱いをしろよ」
「十分人権は与えてるつもりだけど」
「どこがだよッ!」
タタラの指摘にルミナは腕を組み、首を傾げる。
「……うーん?」
「『うーん』!? やっぱ思いつかねェじゃねーか!」
「さて、ボクは重傷人なのに無理に動いたから、そろそろ限界だよ。ルガの部屋で休ませてもらおう」
「ルガもねむい……」
「一緒に寝ようか」
「無視すんなッ!」
タタラはルミナの命令通りにセンリュシアを抱えるが、自分自身の取っている行動にも関わらず不服そうに顔を歪めた。
だがルミナとルガのご都合主義な耳は、本日は営業を終了していた。
二人は壊れたルミナの部屋から入って廊下へ出ると、右へ曲がって消える。
残されたタタラはふてくされるが、ちゃんとセンリュシアを寝室へ連れて行くつもりのようだ。同じくして屋敷へ歩みを進めた。
「……お手数をおかけします」
「まったくだ。アンタがこっそり毒盛られるし、スライム討伐を命じられて山行ったら迷子になるし、アンタの魔法を受け流させられるし、散々だぜ」
センリュシアからの謝罪の一言は数倍の嫌味になって返った。言葉を詰まらせて申し訳なさげにする彼女は視線を落とす。
「良い酒をたらふく用意してもらわねェと、気が済まねェなァ?」
「それが少しでもお詫びになるのならば、いくらでも手配いたしましょう」
言質を取ったタタラはニヤリと笑った。
「……レティシア、すみません。あとは頼みます」
「はい、お任せください」
託されたレティがセンリュシアのホッと胸を撫で下ろすと共に、恐る恐る騒動の後を見ていた村人たちがレティへ駆け寄る。
彼らの顔には心配の色がありありと浮かんでおり、レティへ説明を求めていた。
「い、一体何があったのですか?」
「センリュシア様と戦われるだなんて、何故!」
「お、落ち着いてください。説明しますから」
村民は自分たちの代表者とその娘が争い合う様を見て不安を煽られていた。
親子喧嘩にしては殺伐とした雰囲気はマルフィックの襲来を想起させてしまったようで、村人たちは血気迫ってレティへ「大丈夫なのか」と何度も問う。
レティはそんな彼らをなだめながら託された説明責任を果たすべく、何度も「もう大丈夫ですから」と繰り返しながら事の経緯と顛末を語るのだった。
それを窓から一方的に眺めていたルミナは、彼らの様子見もほどほどに夜空を見上げた。
無傷な客室の一つ。ルガに与えられた部屋で、当のルガはベッドに入って横になっている。ルミナも同室で休むが、決してルガと同じベッドには入らなかった。
代わりに窓辺に椅子を運んではそこに座り、頬杖をついてぼうっと空を視界に映していた。
「『親はいつまでも子どもが可愛くて心配でしょうがないもの』か……」
「ルミナ……?」
「うん? まだ起きてたのかい、ルガ。眠いだろう、今日はもう寝るんだ」
先刻にセンリュシアが口にした言葉をルミナは復唱すると、うとうとと瞼が落ちかけているルガにその声を拾われた。
「……どうか、した……?」
彼のか細い声は睡魔の優勢を示した。声の主が眠りに落ちるのは時間の問題であった。
ルガの脳は半分寝ているも同然。ゆえに彼の脳を覚醒させるような出来事が起こらない限り、現在何を言おうと彼の記憶に留まることは無い。
それを悟り、ルミナは微笑む。
「いいや、むごい言葉だと思ってね。――特に、キミには」
柔らかい声で、しかし抑揚は無く、淡々とそう告げた。
「……? よく、わかん、ない……」
「それでいいのさ」
ルミナの金の瞳は柔くルガに突き刺さる。ルガはそれに安心感を覚えて徐々に瞼も意識も落とした。
小さな寝息が寝室内の音を占める。
ルミナは再び窓から星空を見上げ、息を吐いた。
彼女が母親らしく幼子に寄り添い、同じベッドで眠ることは無かった。