十七話『正論だけで世界は回らない』
かつて見上げた背は空のごとく、かつて知った器は海のごとく、かつて賜った恩恵は太陽のごとく。それらを受けて育ったレティは、今はその心を陰へ落とす母親と対峙する。
全ては最愛の母を取り戻すために。
例え母と戦う羽目になっても、彼女の心を陰から救い上げるべく高らかに声を上げるのだった。
「目を覚ましてください、お母様!」
「私は正気です。私はただ、やるべきことをなすだけッ!」
センリュシアの腕が風を薙ぐ。それに伴ってルミナを狙った風の刃が放たれ、間にある床や天井を切り裂く。
だがそれを許すレティではなかった。母親と同じくして魔力を練っていた彼女は同じく風刃を呼び寄せ、センリュシアの攻撃に横からぶつける。
二つの刃が交わると一瞬だけ拮抗したが、レティの魔法が押し負けてしまう。
だが刃の風向きを逸らすには十分で、センリュシアの攻撃はルミナの横をすり抜けて窓ガラスとその上下の壁を破壊した。
開放的になって外の風がなだれこむ。ルガはルミナに連れられて外の落陽の明かりへその身に浸ると、その小さな頭に細い手が乗った。
「ルガ、キミに頼みたいことがある」
「……! う、うんっ!」
ルガはルミナに助力を求められた事実に耳と尻尾を立て、やる気を見せる。
「ボクの合図でこれをセンリュシアさんに。できるね?」
「やる!」
ルミナは懐から何かを取り出すとそれをルガに託した。それを受け取って頷いたルガに、彼女は微笑んだ。
ルガは頼られたことで気分が有頂天になりかけたが、センリュシアからルミナへ向けられた敵意に気づくと尻尾の毛を逆立てた。
「タタラ、レティさん、外へ! タタラはうかつに攻撃するな!」
「言われなくとも、さっきみてーに攻撃さばくだけで精一杯だっつの!」
「今向かいます!」
二人はルミナの一声で一旦下がり、戦闘するには狭い屋敷から退却する。センリュシアは浮遊して追い、彼らより高い場所を陣取った。
センリュシアを見上げる羽目になったタタラは吐き捨てるように口を開く。
「ケッ。戦い方はマルフィックと同じかよ」
「……レティさん、ボクのそばから離れないでくれ」
「分かりました。策はあるのでしょう」
「ああ。で、タタラは攻撃をさばいてくれ」
「またかよッ!」
マルフィック戦と同じ立ち回りを求められたタタラから不満が吠えられる。だが意を唱えようとも仕方のないこと。
「キミの使える糸魔法は風に弱いし、水魔法も毒魔法も今は役に立ちづらい。キミにできるのは攻撃をさばくか肉壁になるかだよ」
「勘弁被りてェ二択だなァ、オイ……!」
「おや、命令でどちらか選ばれる方をお望みで」
「チッ、クソが……! 人使いが荒いったらありゃしねェッ!」
全力で悪態を吐きながらもサーベルを両手で構えるタタラは二択の内を選び、ルミナやレティをかばって前に出る。
「無駄なことを……! 《モノ・ヒュード》!」
「オイ、何回受けてもキリねェぞ。本当になんとかなるんだろうな」
「信じてボクに任せてくれたまえ」
「テメェに任せて無事で済んだこと無ェけどなァ!」
屋敷を背にセンリュシアは次々と魔法を繰り出す。一つの魔法を唱えるための魔力を練る間にまた一つ魔法を唱え、その一撃一撃は重い。
タタラのサーベルにぶつかるたびに響く鋭い音は、その攻撃力の凶悪さを物語っていた。タタラが攻撃を受け止めるごとに彼の隙が大きくなり、彼の余裕を奪っていく。
「援護します!」
だがレティも対抗して風魔法を唱える。風をぶつけて威力を弱めることで、タタラの腕の負担を減らした。
タタラのサーベルから響く音が少し柔らかくなり、「おお」と声を漏らして彼は防御の難易度が下がったことを実感する。
だが防戦一方である現状にさしたる変わりはない。このままではタタラたちは消耗するばかりだ。
しかし消耗しているのはタタラたちだけではなかった。
「っはぁ……、は……っ、《モノ・ヒュード》!」
空へ飛び、何度も風の刃を飛ばし、センリュシアの魔力は摩耗していった。マルフィックと戦った際に奪われた体力も相まって、彼女は無理をしている。
その証拠に、彼女の額から何筋もの汗が垂れ、肩で息をしていた。
「もうおやめください、お母様……! 思い出してください! ハーミットさんが一番大事ですか? あなたの一番はよく知らないたった一人ではないでしょう!?」
「……そうですね。皆を、そして島を守るのが私の役目。けれど、ハーミット様は本当に守るべきお方です」
「本当ですか? そのためならば、他の人は……私ですらも傷つけて良いと、本気でそう思っているのですか!?」
レティは切実に叫び、変わり果てた母へと吠える。
ぶつけられた言葉にセンリュシアは一瞬だけ言葉を詰まらせる。
「っ、貴女のためでもありますよ、これは」
「誰かを傷つけてまで手に入れた平穏の中では、決して誰も安心して暮らすことはできません! ――お母様のやられていることは間違っていますっ!」
体力の消耗もあるが、センリュシアの動揺は目に見えて大きい。このままレティが精神を揺さぶれば、弁論で必勝は確実だろう。
だが感情より正論に身を寄せて生きる人間は世の中にどれほど存在しているだろうか。
偏った思考や感情に飲み込まれている今のセンリュシアに、果たして事実を述べたところで矛を収めるだろうか。
聞く耳を持たぬからこそ争っているというのに。
聞く耳を持てぬからこそレティは悲痛に顔を歪めるというのに。
「ッ、お母様、私は――!」
「ボケっとすんな、レティサン! 一瞬でも援護を緩められると、魔法受け流してるこっちは一撃のたびに手が痺れンだわ!」
「す、すみません!」
タタラの叱責はレティの意識を戦闘へと引き戻した。
ただでさえジリ貧なこの状況下、センリュシアの魔法を受け流すことに徹底しているタタラの腕は限界に近い。彼が怪力自慢ならば話は別だが、強力な魔法に苦戦は必須。
それでも彼はルミナやルガを守るように動いていた。
まるで糸に操作される操り人形のごとく。
「レティさん、彼女への訴えも忘れないでね。キミは彼女の心を揺さぶる重要な鍵だ」
「……はい。絶対に、いつものお母様を取り戻します。だから……私は諦めません!」
決死の覚悟でレティのあどけない顔が引き締まる。
それは大人と呼ぶには甘く、しかし子どもと称するには一歩先を行っている者の顔つきだった。
そんな顔をまっすぐと向けられたセンリュシアは直視できずにいる。首を横に振り、レティの抵抗を拒んで眉間にシワを寄せた。
「もういい……もうどいて、レティシア! 貴女を傷つけるつもりなんて無いのですよ。そこの旅人たちさえ、排除すれば……我々の安寧は確約される!」
「……お母様。あなたは例え相手が誰であろうと、困っていたら手を差し伸べるようなお方です。私はその姿に憧れた! だから私はあなたの後ろを歩いて育った!」
「ッ……」
「あなただって誰かに手をかけるだなんて非道な真似、できなかったでしょう? 心のどこかがとても痛んだでしょう!?」
「そ、れは」
「私はお母様の娘ですよ。それくらい、お見通しですっ!」
レティが右手を振り上げる。それに伴い、センリュシアの直下で旋風が上へと舞った。
レティの説得から動揺し、あまつさえ戦闘に対して躊躇すら見え始めたセンリュシアはその風に巻き込まれ、空中で体勢を崩す。
センリュシアは顔を歪めて風を煽り、無理矢理体勢を戻すと震える右手を掲げ、それを振り下ろそうとした。
が、彼女の瞳で銀色に鈍く光るものがキラリと瞬くのを捉えて手を止めた。
それはレティの髪色にしては鮮明過ぎるほどに鋭利な輝きだった。
「――さて、解呪の準備はもう整う」
「る、ルミナ、さん……? 一体、何を……」
それはレティとタタラの後ろに控え、じっと親子喧嘩の行く末を傍観していたルミナがレティの首元に当てたナイフだった。
ルミナは背後からレティの喉に左手を添え、右手で握ったナイフの刃先はレティの首筋をなぞる。
まるでレティの命をいつでも容易く屠れると言いたげに、その光景をセンリュシアへと見せつけていた。
当然ながら何も聞かされていないレティは、突然来た自らの命の危機に目を見開いて狼狽する。
「キミ、言ったよね。母親を助けられるならば、差し出せるもの何でも差し出すって」
ルミナの左手の指がレティに食い込み、徐々に首を絞めていく。レティからルミナの表情は見えなかったが、いつもと変わらぬ声色からいつもと同じ表情であると悟った。
それゆえに、レティの背に一筋の冷や汗が伝った。
「なら――例えそれが命になっても、構わないワケだ」
レティは喧しく鳴る自身の心臓の鼓動すら、自覚できなかった。
「レティシアッ!」
「おっと、それ以上近づくんじゃねェぞ。さもなくばこの娘の命は無ェ」
突如として直面した娘の危険にセンリュシアは血相を変えて直進し、レティを強引に取り返そうとする。が、タタラは手に持つサーベルの切っ先をセンリュシアに向けて忠告する。
あと少しでレティへ届くナイフを見せつけられ、センリュシアは急停止を求められる。ギラリと輝く刃物は命を奪うにふさわしい嫌な光を反射した。
歯噛みしてその場に留まるセンリュシアは悔しさをその表情ににじませる。
一方、レティは添えられた手のあまりの冷たさ、そして当てられた刃から伝わる熱さから、近づく死を意識しては頭を真っ白にしていた。
「どう、して」
「何かを得るには必ず相応の対価を支払う必要がある。ならば人の心、ひいては魂を取り戻す対価は、一体何だと思う?」
「……わか、りません」
「ではヒントをあげよう」
ルミナは現在、センリュシアからありったけの殺意を受けている。
それはセンリュシアが洗脳同然のまじないを施されてもなお娘を案じるほどに娘思いの母親という証左だ。同時に、ルミナは隙を見せれば殺されかねない生命の危機へ陥っていた。
だがルミナの調子は変わらない。むしろセンリュシアの殺気を煽るように、構うことなく多弁に喋る。
そしてレティは見た。
センリュシアの瞳の中で、ルミナの口角が三日月型に歪むのを。
「命の対価は命。ならば――魂の対価は?」
ルミナは持っているナイフをレティの首から遠ざけた。
しかしそのナイフはレティへ牙を剥くことをやめたのではない。むしろ、より深くレティを抉ろうと助走をつけるべく距離を伸ばしていた。
「さあ、センリュシアさん。選ぶのはキミだ」
ルミナの右腕の肘が伸ばしきったところでナイフは止まる。
「今すぐ降りて戦闘をやめるか、それとも娘を見殺しにしてもなおボクらに抗うか」
レティの震えは身体全体、そして目に現れており、それは母親のセンリュシアに向いていた。
懇願するかのごとく、目尻には涙が浮かんでいた。
「盗賊頭ハーミットを取るか、レティシア・ヴィラス・アーシェントを取るか」
センリュシアが全力で魔法を唱えたところで確実に間に合わない。だからこそ彼女は歯噛みし、決断を迫られて瞳孔を開かせていた。
「赤の他人と愛娘、どちらを犠牲にするか」
太陽は地平線の向こうへと姿を消した。
それを合図にルミナはゆっくりと続きを紡ぐ。
「十、九、八、七……」
悠長なカウントダウンが口ずさまれる。だが実質、時間は無いも同然だった。
センリュシアから冷静さを奪うのに一役買ったために。
「六、五、四」
「わかりました降ります、戦闘もやめます! ですからどうか娘はッ!」
センリュシアの目には、死を目前として怯えを見せる可愛い娘が映っていた。
その脳裏に赤の他人が入り込む余地は無い。何を差し置いてもなお、娘に勝るものは無い。
何よりレティのすがる目が、センリュシアに呪縛を忘れさせた。
センリュシアは地上へと降り立ち、しかし片足では歩けないために低空飛行は続けたままルミナを見据える。
「三」
だがルミナの口が閉ざされることは無かった。
「二」
「な――っ、や、約束が違うではありませんか!」
止まらぬ命の刻限に、レティとセンリュシアの双方は目を見開いて絶望を瞳に宿す。
「一」
「レティシアッ!」
ルミナは左手をレティの顔へ移動させ、その目を覆う。強く手のひらを瞼に押し当て、視界全てを隠す。
センリュシアに違えた約束を守る義理など無いためにレティへ手を伸ばす。例え届かないとわかっていても、身体が動かずにはいられなかった。赤の他人など脳に付け入る余地も無かった。
レティの唇が小さく震え、「おかあさま」と紡がれたのが見えたから。
最愛の娘が、母に助けを求めたから。
ナイフが勢いよくレティへ向かう。命を刈り取ることに長けた凶器は今、レティの命を奪おうとしていた。
その一瞬の後、レティを救おうと直進してくるセンリュシアの目の前で閃光が弾けた。