一話『すごく……大きいです』
海鳥たちは風を切って空を滑る。太陽の下を悠々と飛ぶ彼らの更に下、海原には無骨に浮かぶ巨大な帆船が航路を進んでいた。
大量の荷物、人を乗せた全長おおよそ二百メートルもの船は賑やかしと言わんばかりに活気に溢れている。
「どうだ、スペードのフラッシュだ!」
船に乗る一員、屈強な船乗りは己の手に持つカードが切り札であると言わんばかりに鼻高々に掲げる。視線の先にいる彼と同じ船乗りと、金髪の三つ編みのおさげを揺らす女性が息を呑んだ。
「うげぇ、さすがに勝てねぇ」
「あたしもワンペア……負けちゃったわぁ」
肩を落として敗北を悟る彼らの手札は、柄に規則性も無ければ数字もほとんどばらつきがある。それを見た勝者の船乗りは得意げに笑う。
「今日はツイてるぜ。なぁ、アンタはどうだ? アンタもコールしたんだろ」
イキイキとスペードのスートが揃ったカードを見せつける船乗りは、もう一人のライバルへ視線を寄越した。
ゲームの参加メンバーの中で一番背の低い、少年的な人間だった。
月の装飾をてっぺんにぶら下げた鍔の広い三角帽子を深く被り込み、垣間見える群青色の横髪は海風に撫でられて揺れている。
ネイビーブルーのローブは露出を拒み、素性を明かすことを良しとしていない。腰には暗い空色の布が巻かれ、それに準じて横に取り付けたバッグには数々の持ち物が入れられ膨らんでいた。
「クラブのストレートフラッシュ。ボクの勝ちだ」
「……は?」
ローブの裾から顔を出している手の内の手札は、全てスートが一致している。その上、数字は階段状に並んでいた。
目の当たりにした船乗りは段々と顔を青褪めさせる。
この結果が意味するものは、ポーカーでの船乗りの敗北――すなわち、賭け金の没収だからだ。
「俺の小遣いがぁ!」
「どうも。これで連れに美味しい物でも食わせようと思うよ」
勝気で中性的な声に対し、負け犬の遠吠えが無様に船内に響く。敗北者の彼の経済力を知る船乗り仲間たちは、持っていかれた彼の掛け金の金額を見ては同情を禁じ得なかった。
「ボクはここいらでゲームを降りるよ。もしまた勝ったら、彼のように可哀想だしね」
「こ、小僧、お前ぇ……一回勝ったくらいで……!」
「うん? もう一回やるかい?」
「イヤ、遠慮、しておきマス」
「賢明だね」
煽られたと受け取った敗北者の船乗りは臍を噛んで悔しがる。だが再戦の勇気は無かった。
先ほどは彼の小遣いをほとんど賭けた大勝負だったため、これ以上搾り取られれば、彼は素寒貧と化してしまうのだ。
船乗りは男泣きした。もう一人の敗北者の船乗りがそれを慰める傍らで、彼らと同じくしてゲームに参加していた女性は勝者へ寄る。
「すごいわね、君! さっきまで負けてたのに、大勝負には勝って大逆転するなんて!」
「たまたまさ」
女性は三つ編みを揺らし、興奮を隠し切れない様子で勝者へ手を差し伸べた。
「あたし、ナナ・チャリオット。君の名前は?」
「ボクはルミナ。姓は無いんだ」
「そう。よろしくね、ルミナくん!」
「よろしく、ナナさん」
二人は握手を交わした。
「ナナさんはこの船に乗っているということは、ルキダリア島へ向かっているんだよね」
「ええ。あたしの出身地がそっちなのよねー。今まで師匠のトコで魔法を習ってたから」
「魔法使いなんだ、ナナさん」
「そうなの。……ま、あたし、才能は普通だったみたいだから、なかなか上達しなかったんだけどね」
残念そうな声色と共にナナは人差し指を上を向ける。その指先には、ろうそくに灯る火と同等の火力で炎が現れていた。
それはメラメラと存在感を放つが、やがて海風に吹かれて消えてしまう。
「だから師匠からぜーんぜん期待されなくなっちゃってさ。ついには『成長の見込みナシ』ってことで破門されちゃったから、故郷に帰って実家の家業を継ぐことにしたのよ」
「そっか」
「あーあ。魔法習うの、楽しかったのになぁ……って、愚痴っちゃってごめんね! あたしばっかり……」
「いいんだ。ところで、ナナさん――」
ルミナがナナへ何か尋ねようと顔を上げた。猫を連想させる目がナナを見上げるが、帽子の鍔の影が陽光を遮断しているせいで、目の色を確かめにくい。
ナナは好奇心からルミナの瞳を覗き込もうと屈んだ――その時だった。
「おぉい!! 俺の財布がどっかに行っちまったんだが、誰が知らねぇか!?」
焦燥全開で船乗りの一人が大声を上げた。たちまち作業に集中していた船員たち、そしてルミナやナナの注目が一点に集まる。
「どっかに落としたんじゃねーか?」
「適当なところに置いたまま忘れたんだろ」
「俺はいつも同じ場所に置いてんだよ! きっと誰かが盗んだんだ!」
被害を訴える船乗りに騒然とする一同。窃盗の犯人は一体誰なのかとざわめきだすと共に、一人の男が被害者男性へ歩み寄る。
「その財布の特徴は? 良ければ探してやるよ。探し物は得意だ」
「い、いいのか?」
「オレもちょうど暇してたしな。船に乗せてくれてンだし、こんくらい手伝うぜ」
船乗りの手助けを申し出た男は、燃えるような赤髪に反して海のような青色の双眸が特徴的だった。
顔立ちは整っているが、左の頬にある一筋の裂傷が目立つことで、より人の目を引いていた。
身長は百七十を越す。その背に見合った動きやすい軽装の上に裾の短い赤いパーカーを羽織っただけの服装、そして穴あき手袋を両手に装着しているだけの格好は軽薄な印象を与える。
だが抱かせる心象とは裏腹に、男は親切心を露わにした。
「……すまないね、ナナさん。ちょっと彼に用ができた。また話そう」
「え? あ、うん」
ルミナは赤髪の男を見るなり目を伏せ、溜息を吐いた。ルミナの顔が再び帽子の鍔に隠れる。
ルミナがナナから離れて向かう先は、窃盗被害者の男に親身になって財布の特徴を聞いている赤髪の男。
「タタラ」
「あ? ンだよ、ルミナ」
タタラと呼ばれた赤髪の男はその名前に反応し、三角帽子を被ってなお自分より低いルミナを見下ろした。
「盗んだものを返してあげてくれ」
「ハァッ!? オレは盗んでねェよ!」
「そ、そうだぞ! 手伝ってくれようとしてるのに、コイツが盗んだだなんて……」
タタラと船乗りの男は共に驚愕の声を上げる。だがルミナはタタラが窃盗犯であると決めつける。
暗いローブの袖から覗く白い人差し指が、タタラの胸を差した。
「キミのパーカーの左ポケット、何が入っているんだい?」
「左ポケットォ? なんも入ってねェよ」
「いいや、あるだろう。黒を基調とした、白の星形の印がある財布」
「お、俺の財布の特徴だ! アンタ、何でそれを知って……」
船乗りの男は、ルミナに指摘された先――タタラのパーカーの左ポケットへ着目した。
「……チッ、しゃーねェ」
タタラの口から観念の言葉が舌打ちつきで発されると、彼は己の服の内へ手をかける。
引き抜かれると同時に出てきた黒い物体は、ルミナが述べた財布の特徴と一致していた。
「て、テメェが盗んでやがったのか!」
船乗りの男は憤慨を露わにタタラから財布を取り返す。
今にも胸ぐらを掴みかかりそうな男とは打って変わり、タタラは動じた素振りも見せずに犯人を暴いた探偵へ視線を滑らせていた。
「すぐにオレを疑ってンじゃねェよ、ルミナ」
「日頃の行いさ。……すまないね、ウチの連れが迷惑をかけた。これで落とし前をつけてはもらえないだろうか」
「アァ!? これは女房が俺のために作ってくれた大事な財布で、そう易々と許すわけに……はッ!?」
船乗りの男は丹精込めて作られた大切な一品を盗まれかけた事実に、憤りを隠しもしない。鉄拳制裁すら考えた彼だが、ルミナは袖の下に隠していた物を被害者の男へ差し出した。
それを見てたちまち目が眩み、握りしめた拳の力を解く男。
ルミナの手には、太陽を浴びて黄金に輝く物体が鎮座していた。
「な、なんっ、何で……まさか、これ!」
「金だ。お詫びにこれをやるから、どうか許しておくれ」
まさしく袖の下を渡す行為に、男はつい勢いで頷く。恐る恐る手に取った金は眩い光沢を放ち、人の目を奪う。
現金な男は慌てて金を懐にしまうと、先ほどよりも軟化した態度でタタラを睨みつけた。
「もう盗みを働くんじゃねーぞ」
「ヘイヘイ、悪うござんしたー。でも盗まれる方も悪いんだぜ。今度から気を付けな」
「何だと!?」
「タタラ……」
盗人猛々しく船乗りの男の神経を逆撫でするタタラは、全く懲りない様子でけろりとしていた。
そんなタタラにルミナは呆れた様子で向き合う。
ルミナは金色の双眸を鋭く細め、タタラを見上げた。
「《命令》」
凛とした声に、タタラの身体は強張った。
「お、オイ、まさか――」
「《罰を与える》」
「っぎィッ!?」
ルミナの言霊が実現したかのように、タタラは苦痛に顔を歪めた。一瞬、謎の衝撃に襲われたらしい彼は堪えきれなかったようで、ふらついたのちに片膝を突く。
タタラは冷や汗をかきながら、息を切らして視線を床へ落としていた。
「な、何だ!? どうした、あんちゃん!」
「心配しなくとも平気さ」
「へ、ヘーキじゃ、ないんだが……」
「少なくとも会話ができるなら無事だね」
「『無事』で辞書を引き直しやがれ!」
タタラはすぐに回復したようで、立ち上がってルミナに言葉で噛みついた。だがルミナは歯牙にもかけず、タタラに背を向けると船内を見渡す。
誰かを探す素振りを見せるが、右を見ても左を見ても、前を見ても目的の人物は見当たらないらしい。
「タタラ、キミにルガの面倒を任せたハズだが」
「あ? アイツならあっちだぜ」
そう返すタタラは人差し指を南中した太陽の方へ伸ばす。ルミナは帽子を押さえて、タタラの指に釣られて見上げた。
視線の先、マストの頂点では狼のような橙色の尻尾がぶんぶんと勢い良く揺れていた。ツヤツヤとした毛並みは明らかに手入れされており、野生の動物のイメージとかけ離れている。
だがその尾は、人間の子どもについていた。
「お、オイ、あんなところにガキが登って大丈夫なのか!?」
船乗りの男は高所にいる子どもを見て驚きの声を上げた。しかしルミナとタタラは顔色を変えない。
「アイツはジョーブだから大ジョーブだぜ」
「い、いや……いくら人よりタフな獣人とは言え、ガキならあんな高さじゃ危ないぞ!?」
「放っておいてヘーキだっつの。それより降りてこられた方が面倒くせェ」
「そのためにキミに面倒を任せたんだろう、タタラ」
「オレよりルミナに懐いてンだから、テメェが面倒見ろよ」
「性に合わない」
「オレの方が性に合わねェよ」
「ボク、面倒を見られるのは好きだけど、見るのはなぁ」
「テメェが面倒事を呼んでンだよ!」
マストの高さは実に十メートルを越す。そのてっぺんでルガと呼ばれる子どもがはしゃぐが、保護者らしきルミナとタタラはやいのやいのと雑に応酬するだけで、助けようともしない。
「おぉーい、ぼっちゃん! そんなところにいると危ねぇぞ、降りてこーい!!」
大人として子どもを助けようと、船乗りの男はマストの上で気持ち良さげに風を浴びる子どもへ声をかける。
だが当の本人には届かなかったようで、きゃっきゃとはしゃぐ様子だけが影の身振り手振りで伝わる。
「あの様子だと日没までいるぜ。ま、心配すんなって。仮にあそこから落っこちても、ルガはピンピンしてンだろうよ」
放っておけ、と言わんばかりにタタラは船乗りの男へ告げる。ルミナもルガを全く心配していないようで、空を仰いでいた顔を海へ戻した。
しばらくルミナは海を眺める。燦々と輝く太陽の光を反射して空へ青を映す海は、どこまでも広く続いている。海や海の一員たちの肌から潤いを無くす風は、賑やかな人の喧騒を乗せて辺りに吹いていた。
タタラも吹かれた風で乱れた髪を雑に直す。しかし、手ぐしでなんとかならないのがこの広大な海で舞う風の厄介なところ。
彼は参った様子で与えられた自室へ戻ろうと、踵を返した。
だがタタラは一歩を踏み出し、ぎしりと船板に音を立てた拍子に歩みを止める。彼はハッとした様子でルミナが見ている海面へ顔を向けた。
しばしの沈黙ののち、剣呑とした様子でタタラは口火を切る。
「……オイ、ルミナ」
ルミナの視線は海からブレなかった。代わりに右目を閉じ、残った左目で海へ目を光らせている。
「妙な気配がする……何か来んぞ」
「ああ」
タタラの呼びかけにルミナは短く頷く。
海を睨み見ながら。
その時。
船舶が大きく揺れた。
「お、オイ、何だ!」
「岩礁にぶつかったか!?」
「とんでもない衝撃だったぞ……船に穴が空いたか調べてこい!」
まるで船体が横から薙ぎられたかのごとく衝撃が走り、船に乗る全員のほとんどがバランスを崩す。
ルミナやタタラは踏ん張っていたものの、マストのてっぺんで陽光と戯れていたルガは唐突な衝撃に身構えられず、マストから落ちる。
「わぁぁああっ!!」
「危ねぇ、ぼっちゃんッ!」
絶叫と共に落下するルガをすかさず受け止めようとする船乗りだが、彼の落下地点まで駆けても間に合わない。派手な音を立てて獣の毛玉が船板を凹ませた。
船乗りは焦りの表情を浮かべる。あの高さから子どもが落ちて、無事で済む道理は無いのだ。
「ビックリ! なに!?」
だが案外元気な声が響くと共にその子どもは立ち上がり、頭にある犬にも似た縦長の獣の耳をピョコピョコと動かした。
ボサボサのオレンジ髪を直すことなく、パッチリとした赤眼をまん丸にしている。肌は少し焦げており、普段から日光浴をしていることがうかがえる。
薄橙の半袖ティーシャツと、二本の白いベルトを左右に取りつけた薄茶の短パンはまごうことなき薄着であり、しかし誰よりも服装に縛られずに自由に動くことを良しとしていた。
齢にして七、八程度の子どもは、高所から落下してロクな受け身も取れなかったにも関わらずピンピンした様子で周りを驚かせた。
「ぼ、ぼっちゃん……大丈夫なのか?」
「んぁ? ルガ、ジョーブ! ダイジョーブ!」
少年は、ブイサインと共に辿々しく無事を知らせる。傷一つ見当たらない全身は確かに丈夫の一言に尽きる。
船乗りの男は安堵から、ホッと胸を撫で下ろした。
「一体何が――」
尻もちをついているうちの一人が呟いた時だった。
ルミナが見ていた海に、不自然な影が浮かぶ。徐々に暗くなる海からはクジラのような魚影が見えるが、どうやらそこまで人間に対して友好的な生物ではないようだ。
船を見かけるなり、船体へ攻撃をしてきたのだから。
「……魔物だな。それもかなりでけぇ」
「ま、魔物ぉ!?」
タタラはその正体を断定すると、船員たちは慌てふためいて取り乱す。
「そんな! 魔除けをかけたのに!」
「あんなでっけぇヤツ、ここいらで見たことがあったか!?」
「この貨物船には荷物を積むことを優先したから、大砲なんて積んでねぇぞ!」
魔物は海原から顔を出す。その大きさは頭の上半分だけでも船に匹敵する。
黒光りする様はまるで鉄のようで、しかし骨の定義に囚われない自由な動きで船のマストよりも数段大きい手足――吸盤のついた巨大な触手を数本、ゆらゆらと動かしていた。
光の無い虚ろな瞳は、まっすぐと人間たちが乗る船を見据えている。
まるで、いつでも船を襲う手筈が整っているかのごとく。