第19話「選ぶ」
ネージュは、あくまで穏やかな口調で言った。
そう、決してティタニアを非難などしてはいない。彼は、ただ事実を言っているだけだ。
「……弟は、獣人にとって出会えるのは世にも稀だと言われる、待ち望んでいたただ一人の運命の番との出会いを果たしたというのに、喜びなんてどこにも見えなかった。その目には暗い絶望しか感じられなかった。初めて見た幸せそうな君には、理由もなく惹かれ続ける自分の存在がただ邪魔になると思ったんだろうな。君の邪魔になる存在であるならば、もう消えてしまいたいと、そこまでの言葉を言っていた。あいつの傍には、ユージンがいつも傍に居ただろう? あれはそんなスノウが自傷行為に及ばないように、注意を払って一緒にいたはずだ。そう家族みんなが、心配していたんだ。常に絶望を抱えている人間はいつ妙なことを考え出すかわからないからね。ユージンとあいつは同い年だし、気安い。そして頭の回転も良く、要領も良いからね。そういう理由から、従兄弟が一緒に居るとは当の本人は何も知らないはずだ」
確かにスノウはティタニアが幸せならばと身を引こうと思っていたと、自分で言っていた。
けれど、ここまでの深い絶望を彼に与えていたなんて、今まで想像もしていなかった。
「あいつを好きな理由は、君のことが大好きな運命の番という、とても都合の良い存在だからじゃないと証明できる?」
彼の言葉を聞いて、ティタニアはどう反応して良いものか迷った。
それをきっぱりと、否定は出来ない。
ティタニア自身は今確かにスノウが好きだ。それはまぎれもなく真実で。だから、彼となら結婚したいとまで思った。けれど、その理由はうまく説明することが出来ない。
頭の中に渦巻く考えがまとまらなくて、固まってしまったティタニアに畳み掛けるようにネージュは言った。
「じゃあ、君はうちの弟に何あげられるの? ただ見目が良いから。自慢できるからって、そんな風に思っていたとしたら、すぐに帰って。代わりなんていくらでも居るだろう。あいつじゃなきゃいけないと、そう思った理由を教えて欲しい。運命の番という、盲目的に、絶対的に、君のことが好きなあいつが好きなだけじゃないの。そう、運命ならば、確かに絶対に裏切らない」
そのナイフのように鋭く突き刺すような、言葉に、ティタニアは何も言えなかった。まるで、それは心の奥底で指摘される事をずっと恐れていたことではないのだろうか。
確かに、スノウは何度も何度も、ティタニアを運命だと、そう言った。
彼は運命だから、だからこそ、ティタニアに恋をしたのだ。
その事実を今突きつけられ、ティタニアの心は打ちのめされた。
何度も何度も言ってくれた愛の言葉も、優しい眼差しも、温かな抱擁も、与えられたその理由はティタニアだからじゃない。
ティタニアが、彼の運命の番だからだ。
その事実から今まで目を逸らそうとしていたのは、ティタニアが彼のことをどうしても好きで、あの自分にのみ差し出される大きな手を離したくないと、そう思ったから。
「じゃあ、君が選べ。知らなかったとはいえ、弟を何年も苦しめたのは、君自身だ。君を好きだというその気持ちも、それは、あいつの意思じゃない。無慈悲な悪魔に選ばれたかのような苦しい運命から、解き放つのか。それとも、そこにあいつの意思がないとしても、自分に縛り付けるのか」
ネージュは、何も言わないままのティタニアに優しい口調で続けた。
「君こそが、選ぶんだ」
彼がティタニアに会いに、ノーサムにやってきてからのことがまるで頭の中に流れていくように、思い出された。
スノウはいつも、ティタニアのことを一番に思ってくれた。
幸せの邪魔になるならと長い間自分の欲求を我慢していた、元婚約者ジュリアンの非道な行いに怒り、告白を断ってもずっと諦めなかった。
ひたむきに、ずっと愛してくれていた。
目の前に座るネージュから視線をずっと外せぬままに、ティタニアはゆっくりと頷いた。
◇◆◇
「ティタニア! ただいま。遅くなってごめん。もう夕飯食べた?」
スノウはにこにこ笑いながら、ティタニアの部屋に入ってきた。
急いで帰ってきたそのままなのか、不思議な色合いの髪は乱れて息は荒かった。その姿に苦笑してから近づいて、髪を整えてあげると彼の頬に両手を当てた。
「……おかえり。スノウ。ほっぺた冷たい。お風呂入ってきたら? 私、夕飯はもう食べちゃったの」
微笑み返したティタニアに頷いてから、ちゅっと音をさせて彼は頬に冷たい唇でキスをした。
「俺もすぐに食べて風呂も入ってくるから、もうちょっとだけ待ってて」
身を翻して慌てて出ていくスノウに苦笑してから、ティタニアは自分の右腕に嵌っている腕輪を見た。
輪の部分が大きくて、女性の腕の太さでは肘まで落ちてしまう。何の変哲もないような銀色の金属で出来た、飾り気のない腕輪は昼にネージュから渡されたものだ。
(彼の運命を変えることの出来る。そんなものが、本当にあるなんて……)
それは獣人のスノウを運命の番から解き放つことの出来る、不思議な力を秘めているらしい。
あのネージュがそう言うのだから、きっとそうなのだろう。彼はそういった冗談なんかを言う類の人ではないことはわかっていた。
両手の中でくるくると回る腕輪を弄りながら、ぼうっとしていたティタニアは再度勢い良く開いた扉の方向を見て、微笑んだ。
「ティタニア! 戻ったよ。どうしたの? それ、腕輪?」
不思議そうにティタニアの持っている大きな腕輪を見たスノウは言った。その言葉に微笑み、スノウを手招きした。
「そうだよ。今日街に出て、スノウに似合いそうだなって思って買っておいたの」
笑顔で嘘をつくことに躊躇いはなかった。彼が不在の時間に、ティタニアはもうとうに覚悟は決めていた。
「俺に?」
嬉しそうに顔を綻ばせ、彼は首を捻りながら近づくと、ティタニアの隣に座った。顔を近づけてにこっと微笑むと、唇に触れるだけのキスをした。
「ありがとう、ティタニア。お前がくれるものなら何でも嬉しい。お返しは何が良い? 街に出て一緒に選ぼうか」
そう言って右腕を差し出した彼に、笑顔のティタニアはカチンと音を立てて腕輪を嵌めた。
その途端、腕輪は不思議な青い光を放ち、スノウは座っていたベッドへと糸の切れた操り人形のようにドサリと倒れ込んだ。
昼にネージュに聞いていたままの反応なので、驚かなかった。
ティタニアは、その整った顔をそっと優しく撫でて、最後にお別れのキスをした。
(ごめんね。大好きだよ。貴方が私への気持ちを忘れてしまったとしても、どんなに苦しんで、それでも好きでいてくれたこと、ずっと覚えている)
自分で決めたはずの彼との別れはつらく、心臓を抉られるような痛みを与えた。
これでもう、スノウはティタニアのことを何とも思わなくなるはずだ。運命の番という不可思議な執着の糸は切られ、彼の心は自由になるだろう。
その間の記憶は、どうなるのだろうか。
運命の番であったティタニアのことを綺麗に忘れてしまうのか、それとも好きだった気持ちが拭い去られるように消えてしまうのか。
けれど、ティタニアはもう、その結果をこの場所で見届けるつもりはなかった。早く彼の元から離れるつもりだった。
手早く雪山に行く前に購入した温かな外套を出して、旅支度を整えた。
イグレシアス家の従者たちはもう、城の外で荷物を運び込んでいる馬車で待っているはずだ。
ティタニアはもう、スノウのことを見なかった。
見られなかった。
どれだけ、彼のためだとそう思っても、辛かった。
本当の気持ちはどんなに非道だと卑怯だと言われようが、彼の番のままで居たかった。
けれど、それを選んでしまえば、もうそれは、ティタニアではない。
どんなに彼が好きでも、自分だけの気持ちで縛り付けることを選びたくはなかった。
初めての恋に堕ちてしまいたかった気持ちから、必死に目を背け扉を出た。
涙は出なかった。まだどこか、現実味がないせいだろうか。
これは悪い夢で、もしかしたらスノウの隣で悪い夢を見ているのかもしれない。
けれど、またこういう事態が来れば同じ道を選ぶだろう。
愛する人がこの先苦しむことなく、自由になれるのなら、何度だってその道を選ぶ。それは何度繰り返したって同じことだ。
カールが言っていた言葉の意味がようやく今、わかったのだ。
愛しているからこそ、今その手を離す。
ティタニアは、スノウの「運命の番」でなくなることを自分で選んだ。