第16話「帰還」
泣いて泣いてようやく目を開けた時、もう夜は白んできていた。
ベッドから上半身を起こして何気なく窓の外を見ると、まるで青い空を突き刺すような雪山だ。
あの険しい山には、力の強い魔物が湧きやすく、その侵攻を食い止めているのがプリスコット辺境伯の役割なのだ。
建国以来、ずっと彼らがこの国を守ってきた。だからこそ、今、この国の誰もが憂いなく日々を過ごすことが出来ているのだ。
(スノウも……あの雪山で戦っているのかな。そうよ。だとしたら、雪山に行けば彼に会えるんじゃないかしら)
その閃きは、今まで全く考えもしなかったことだ。
それはわかっていたことのはずなのに、一度もそうしようと思えなかったのはあの雪山に魔物が居るという危険がわかっていたからだろう。
判断力をなくし、今この状況に切羽詰まっていたティタニアは、それでも良いからスノウに会いたいと思ってしまった。
彼に一目会えるなら、どんなに危険な場所にだって行きたかった。
今まで大事だった貴族として血筋を繋がねばならない義務も家を継がなければならない責務も、もうみんなみんな消えてしまった。ただ、彼に会いたかった。
ティタニアは決心すると、取るものもとりあえず立ち上がった。
とにかく、そうと決まれば外出が出来るような格好にはならなければならない。
昨日着たままになっていた服を脱いで宿の女将に湯を用意してもらって体を清めてから、手早く外出着に着替えた。
ノーサムからここまで共に付いてきてくれた従者などには、危険な雪山に行きたいなどとはとても言えない。とにかく彼らに見つかる前にここを出なければならない。
朝食を手早く済ませてから外套を羽織り、足早に宿屋を出たところでティタニアは体を震わせた。
今までは移動がほとんどが馬車の中なので、気にしていなかったが、室内と外との気温差がひどい。
(寒い。この格好で雪山に行くのは、無理ね。スノウに会う前に凍死しちゃう……)
苦笑すると、大通りの店へと視線を走らせた。
あまり宿に近い場所でぐずぐずしていると、イグレシアス家の従者の誰かに見つかりかねない。慌てて衣料品店を探して、その扉へと飛び込んだ。
「あら! 可愛いお嬢さんだね。そんな寒そうな格好をして。ダメだよ。暖かな南の方ならともかく、そんな薄っぺらな外套だとプリスコット地方では風邪をひくよ。さあ、こちらの毛織の外套はどうだい? 裏張りもちゃんとしているから、あったかいよ」
気の良い女性の店員が陽気に笑いながら、ティタニアを女性用の温かそうな外套が並べられている場所まで促した。いくつか選び体に当ててから、満足したように二つの候補に絞って聞いた。
「これとこれなんかどうだい? お嬢さんは色素の薄い髪だから、濃い色が似合いそうだね。それかこちらの金茶の色にするかい? 同系色になるけど、顔写りは明るい色が良いね」
ふかふかとした温かそうな二枚の深い紺色と金茶の外套を見て、ティタニアは迷わずに金茶の方を選んだ。
「こちらにします。あの、私雪山の方に用事があるんですけど……その、全然準備していなくて、出来れば登山用の服を一式購入したいんですけど」
まさかそんな事を言い出すとは思っていなかったのか、その店員は目を見開いて言った。
「お嬢さん一人が……かい? 一緒に行く人はいるのかい?」
顔を曇らせて、いかにも心配そうだ。一人で行くと言ってしまうと止められそうな気配を感じて、彼女の言葉にティタニアは躊躇いながらも頷く。ほっと息をついた店員は手早くいくつかの温かそうな服や登山靴をかき集めた。
「日が暮れる前には絶対戻ってくるんだよ。夜は魔物が活性化する。そこらへんにいる、ちいさな弱い魔物でも、危険で凶暴化してしまうんだ」
◇◆◇
なんとか話を誤魔化しつつ親切な店員に詳しい道順を教えてもらって乗合い馬車に乗り、ティタニアは雪山の麓へと辿り着いた。
陽光に輝くような白い雪が積もっていた。歩を進めればさくさくという音を立てた。
季節的にまだこれでも積もっていないらしいが、これだけ移動に手間どるように足場が悪ければ、彼らのように木の枝と枝を渡るような移動方法を得意としていたこともわかる気がした。
プリスコット辺境伯が守るその雪山の戦いの前線は、思ったよりも街の近くにあるらしい。
「絶対にあの戦場には近寄らないように」と言われた方向へと進めばきっと、彼の元へと辿り着くはずだと、そう思った。
(ところどころ生えている木を除けば、本当に白銀の世界……あの時に見た騎士服も確かに白かったから、この中に居れば目立たないかも)
スノウとユージンを初めて見た時に彼らが着ていたのは、真っ白な騎士服だった。ノーサムの森の中で見ると飛び抜けるほど目立って見えたが、ここで見ると確かに雪の白に擬態して見えなくなってしまうだろう。
辺りを見回しながら、歩いていたティタニアは、足元には注意を払ってはいなかった。
あっと思った時にはもう遅く、気がついた時には浮遊感と、一瞬見えた青い空。
◇◆◇
目を開いた時には、満天の星空。パチパチと爆ぜる薪の音。澄み渡るような、夜の空気の匂い。
(……え。もしかして、こんな時間まで気を失っていたの?)
呆然ときらめく空を見上げた。夜には、絶対に街に帰るように口を酸っぱくして何度も忠告されていたというのに。
「やあ、綺麗なお嬢さん。やっと起きた? 僕と月を見ながら、お茶でもしない?」
低い声に驚いてパッと上半身を起こすと、信じられないくらい綺麗な顔をした男の人が、焚き火に木の枝を放り込みながら微笑んでいた。
彼の顔を一目見てティタニアはこんな事態にも関わらず、思わず口をぽかんと開けてしまった。
明るい月明かりの下で、これまでに見たことなどない、人外の存在であるのかと思うほどの美貌を持ち、その頭には丸い小さな耳。
肩までの長さで無造作に切られた白銀に金茶の混じった髪はスノウの色合いによく似ていた。
(この人は、雪豹の獣人? もしかして……)
「大丈夫だよ。僕が居るから、この辺りの魔物は絶対に近寄らない。誰だって、虫けらが踏み潰されるように殺されたくはないものだ」
パキンと音をたてて枝を折り、驚いた表情のまま固まっているティタニアの様子をどう解釈したものか、彼はそう淡々と言った。
余裕あるその態度。この危険な雪山で、しかも魔物の力が活性化する夜間にそう言える。それは、彼がティタニアの思っている通りの人である証拠のようにも思えた。
静かにティタニアを見つめる青灰色のその美しい瞳。彼ではない、よく似た色彩を持つ人を思い起こさせるには十分だった。
「あの、もしかして、プリスコット家の方ですか」
ティタニアの言葉に、彼は片眉を上げて微笑んだ。
「……まあ、もし君がプリスコット家の誰かを知っているとしたら、流石に誰かわかるかな。僕はネージュ・プリスコット。プリスコット辺境伯シェレグとその妻オルレアンの息子、ニクスの弟、スノウの兄。僕を表す名称はいくらでもあるね。ねえ、綺麗なお嬢さん、君は何をしにここに来たの?」
優しい口調で名乗られたそれは、二年前から出奔していると言っていたスノウの兄の名前だ。
人外とも思える美貌の理由も、これで良く理解出来た。
絶世の美女と言われている母親とそっくりであるならば、これだけの容貌を持っていてもおかしくない。
彼が男の人であるということは、ティタニアもきちんと頭では理解しているのに、玲瓏とか麗人とかそういう言葉がしっくりとくるのだ。
「スノウ様にお会いしたくて……」
言いにくそうに発せられた言葉に驚いた彼は、眉を顰めた。
「……弟に? あいつの居る城には、行かなかったの? 何かで出掛けているにしても帰ってくるまで、待たせて貰ったら良かったのに。君、ここの危険性、本当にわかっている? 僕が偶然、通らなかったら、今頃君は魔物のお腹の中だよ」
ティタニアは経緯を思い出せば胸が苦しくなりながら、その質問に答えた。
「……その、後継者の婚約者となる方に城に入れる訳には行かないと……」
それを聞いてネージュは面白そうに笑った。
「はは。へえ、アナベルが? ふーん? あいつ、怪我したからってニクスを見限ったってことかな。計算高い女って嫌だねぇ」
顎に手を当てて、一人ごちるようなその言葉にティタニアは首を傾げた。
「あの?」
不思議そうに自分を見る視線にネージュは苦笑して手を差し出した。
「あ、ごめんごめん。こっちの内輪話。じゃあ、帰ろうか。一緒に」
「えっと、あの?」
「うん。まあ、僕も久しぶりに帰るし、いくらあのアナベルでも、主家の次男が帰って来たのに出ていけは、言わないでしょ。君も一緒においで」
差し出した手を握ってくれたネージュの手は温かくて大きかった。
「ありがとうございます」
ほっと息をついたティタニアを、彼は引き上げ立ち上がらせた。