第10話「彼との決別」
城館が華やかに飾られ、着飾った招待客たちの笑い声が響く。
ティタニアの誕生日パーティの当日、やはり予想した通り婚約者のジュリアンは来なかった。
その事は特に、意外な事でもなんでもなかった。
今まで彼のしてきた事を思えば、むしろいない方が良いのかも知れない。いつも通りのことだ。
昔馴染みも多く色々と心得ている参加者達は、婚約者が居るはずの主役ティタニアの隣に、誰もいないことをわざわざ指摘したりする無作法者はいなかった。
結局スノウやユージンに、エスコートを頼んだりはしなかったが、彼らは主催者として来客の対応をするティタニアを守るように、その近くから離れなかった。
何かとティタニアに近付く人間に目を光らせるスノウに対し、ユージンはそつのない様子で挨拶と自己紹介をしに来た令嬢達に優しく受け答えしている。
ティタニアは泡の出る果実酒の入った細いグラスを持ちながら、プリスコット家の二人が居るとは知らなかった招待客達が興奮しながら挨拶していく様子を、なんだか不思議な気持ちで見つめていた。
近隣の貴族達はイグレシアス家と付き合いがあると言っても、それは上辺の関係だけだ。
彼らが意識しているのか無意識なのかは知らないが、どうしても平民からの成り上がりだとそういう見くびるようなそんな態度が随所に見られた。
けれど、ティタニアの傍に居る二人を見て、高位貴族のプリスコット家との繋がりが出来たと踏んだのか、手のひらを返したように、ティタニアや現当主カールに対する態度が今までとは面白いくらい違うのだ。
強い生き物に阿るのは生存本能として間違っていないとはいえ、そのあまりのわかりやすい態度に少し笑えてしまった。
「……ティタニア。疲れてないのか」
スノウがお祝いの挨拶する人たちの列が切れた隙間に、話しかけてきてくれた。
心配そうなその表情に微笑み頷くと、固い表情を浮かべた彼もほっと息をついて、少し笑ってくれた。
「スノウ様。今日は来てくださって、本当にありがとうございます。パーティは楽しんでくれていますか」
型通りの挨拶にスノウは眉を上げて肩をすくめると、口端を上げて微笑んだ。
「……この上なく。可愛いドレス姿を見られるのも眼福だが、俺はただお前の傍に居られるだけで楽しいし、嬉しいんだ。出会ったばかりで、こんなことを言って、変なやつだと思ってくれても別に構わない」
彼のような人に、こんなに明け透けに好きだと言われて年頃の女の子ならば絶対に嬉しくないはずがない。ティタニアは顔に血が上りそうになって、思わず手に持っていたグラスを煽った。
甘くて美味しい。成人になったので、ようやく飲むことが出来るようになったばかりのお酒は、思っていたよりも飲みやすかった。
「おい、一気に飲むバカがいるか。飲み慣れてないんだろう……頬が赤くなってる」
空になったグラスを取り上げたスノウはティタニアの顔を覗き込むようにして、じっと見つめた。
その彼からとっさに離れようと後ずさろうとしたところ、絨毯に高い踵の部分が引っ掛かり、後ろ向きに倒れそうだった体を背中に、大きな手が添えられて支えてくれる。
「大丈夫か」
一連の慌てぶりに少しあきれたような様子だが、その表情は柔らかくあくまで優しい。
間近にあるその顔は信じられないくらい整っていて、その唇はなんとも柔らかそうで……。
「ごめんなさいっ!」
意識してしまった恥ずかしさでティタニアはなんとか体勢を立て直し、両手で力一杯押してもびくともしない彼から距離を取った。
誰かに後ろ向きにぶつかった感触がして振り向くと、正装のユージンがなんとも言えない表情で生温かい視線を向けて立っている。
「二人とも、こんなところでイチャついて……別に良いんだけど、スノウが自重しなよ。流石に今はティタニア様の評判に関わるだろう」
人目のある周囲を気にする様で、ユージンは周りを見渡した。
歓談している人達が多い中、特に注目を浴びている訳ではないが、双方未婚の男女の会話に興味津々で耳を澄ませている者が居てもおかしくはない。
「わかっている」
面白くなさそうなスノウはユージンがティタニアの両肩に手を置いているのを、乱暴に払い除けた。
思わず見上げたユージンは、両手を上げて苦笑いだ。面倒見の良い彼はスノウのこういう傍若無人な態度には慣れているのだろうか。
「スノウ、プレゼントは渡した? せっかく買ったんだから……」
「うるせえ。今から渡すところだったんだよ」
そう言ってスノウは、自分の上着の内ポケットから何か高級そうな布袋を取り出した。
しゃらりと音をさせて中身を出すと、ティタニアの手首を取って小さな金具を留めようとして、何度か失敗を繰り返した。
そうして、やっとカチリと留められた時に照れくさそうに笑った。
「……悪い。こういうの慣れてなくて時間かかった。誕生日おめでとう、ティタニア。今君が持っている願い事が、すべて叶いますように」
それは、誕生日にプレゼントと共に贈られる定型句だ。
ティタニアだって、理解はしていた。けれど、この彼が言う事によってそれは特別な意味を持っていた。
(たったひとつだけでも良い。それが叶ってしまうと、その他の何も要らないと思うほどの願いがあるのに)
絶対に叶わないと思って見る夢ほど、美しく見えるのだろうか。
◇◆◇
パーティの途中、遠方から祝いに来てくれた友人から借りていたものを返そうと思ったティタニアは一旦自室へと戻ることにした。
彼女は王都で開かれた舞踏会で出会った聡明な女性で読書という共通する趣味もあり仲良くしていたのだが、この前ある貴重な初版本を貸してくれていたのだ。
主催で祝われる立場の自分が会場から出ることに迷い、ミアに代わりに取りに行ってもらうことも考えた。
だが、一度会場を離れて気持ちを落ち着けたかったこともあり、ティタニアは自ら足早に廊下を進んでいた。
かちゃりと音を立て扉を開けて、思わず息を呑んだ。ここに居るはずのない人の姿が見えたからだ。
「……ジュリアン? 何、してるの」
呆然としてそう言ったティタニアを見たジュリアンは留守中に彼女の部屋に入っていたことなど、悪びれもせずに肩を竦めた。
彼の手には、分厚い書類袋があった。
見覚えのあるそれは、午前中早い時間に祖父の法的代理人から渡された書類で、ティタニアが成人した時に相続されるようになっていた珍しい金緑石の鉱山の権利書類だ。
「そんなに驚くなよ。俺は君の婚約者だからな。たいして見咎められもせずにここまでやって来れたんだ……その不審者を見るような目付きはやめろ。返済期限の近い借金があるから、これで支払う。婚約者である君のものは、いずれは俺のものになるのだから、これは俺のものだろう」
とんでもない持論を当たり前のように言い出したジュリアンに、ティタニアは言葉を失った。
ここまでの侮辱は、ティタニアも流石に全く想像もしていなかった。
これから将来的に一生一緒に居るであろう彼に、ある程度の常識は持っているとどこかで信じていたかったのだ。
彼が手にしている鉱山の権利書類は、ティタニアにとってはとても大事なものだった。
愛してくれた祖父が、自分のためにと唯一遺してくれたものでもあるし、この先も定期収入が見込める鉱山は、父の苦しい領地経営の助けになるだろう。
ジュリアンはそれをまるで単なる換金価値のある紙切れのように扱い、こうして不在の隙に盗もうとして見つかり、それでも開き直ろうとする無様な態度を見て、どんな時にも誇れる自分でありたいと考えていたティタニアの心は、見事に折れてしまった。
こんな人と離れられるなら、もうどうなっても良いと思えるくらいには。
「……わかりました。それを差し上げます。ですから、どうか貴方の方から婚約解消を申し入れて貰えませんか。そうしたら、もう何も言いません。ストレイチー家とはこの先、出来るだけ関わらないと誓います。だから……」
視線を合わせ、淡々とそう言ったティタニアにジュリアンははっと声を出して嘲笑った。
「それはこちらにとって、願ってもないことだ。君はそれで良いのか? これといった財産のない何の旨味もない領地しかない名前だけ爵位付きで、貧相な身体の貴族令嬢など、まともな貴族なら欲しがらないだろうな。まあ、助かったよ。君からそう言ったと言えば、うるさい親ももう何も言わないだろう。婚約の代償に貰ったお金も返さなくて済むしね」
いつものようにバカにしたように笑っても、表情を変えずに何も言わないティタニアの脇を通り抜け、面白くなさそうに鼻を鳴らしてジュリアンは去っていった。
「……あいつ、噛み殺してやろうか」
開かれたままの扉の方から聞こえてきたその声は、振り向かなくてもわかった。
静かに頬を涙が伝った。これまであんなに我慢を重ね、苦しめたものがいなくなってしまうのは、ほんの一瞬だった。何も言わずに首を振るティタニアに、彼はゆっくりと近づいて来た。
スノウはただ優しく抱きしめて、慰めの言葉も、何も言わなかった。




