発狂
***
とても激しい雨だった。聞こえるのはただ雨音ばかり。ザーザー、ザーザー……
すっかり日が暮れ、辺りは真っ暗。ひっそり閑としている。すでに六月だというのに、肌寒さがある。というのは、わたしは山林にいるのだ。寒さは理の当然だった。
どうしてわたしは、こんな時間に、こんなへんぴな場所に、こうしているのだろう。人はおろか、車さえ通らない。時折野鳥のけたたましい鳴き声が轟く程度だった。どうして、どうして?
自問したところで、答は明白だった。わたしの足元にその答があった。
雨は激しく降りしきる。その勢いは、辺りが白むほど。
この道具は、最早必要性を失っていた。わたしは掌中の凶器を、手の握力を抜くことで自然落下に近い形で落とした。鈍い光を帯びたその凶器は、包丁だった。べっとりと付着した、赤い、痛々しい、鮮血が、雨に流れ、包丁は洗われる。
濡れた手を鼻に近付け、臭気を確かめてみると、名状しがたい不快感が込み上げてくる。嘔気。悪心。わたしは胸に手を当て、苦しんで息を吸ったり吐いたりする。わたしの内部にあるものが悪さをしているとすれば、すっかり吐き出して楽になりたい。
この男を殺めたのは、大した理由があってのことではなかった。男女間の話題において世間でよく言われる痴情のもつれとかいうものだったのかも知れない。いずれにせよ、わたしの内には、長きに渡って蓄積され、増幅されてきたうずたかい憎悪の念があり、緊張で圧縮されたわたしの心は、とうとう火花を弾けさせたのだ。
家には刃の鈍くなった古い包丁の代わりにしようと、最近買ったパッケージに入ったままの新品の包丁があった。人を殺すというのは簡易で単純で、そして至って自然で、疑惑を持たれるものではないと、わたしはそのピカピカの刃を眺めて思った。人を殺すのはたやすいことだった。ある一つの人生の成り行きの結果だった。誰もが納得出来ることだった。
少なくとも、わたしはそう思っていたし、確信してさえいた。女としてこの世に生まれ、一定の知識と教養を得、美容を演出して男を誘惑するすべを覚え、異性と関係することでしか理解し得ずまた享受し得もしない快楽を味わった。美食に、旅行に、人生の旨味を一通り口にした。
しかし人生は旨味ばかりではなかった。そのことは、わたしは幼い頃、青年の頃を通して密かに知っていたはずだった。だが、人生の運びというのは折に触れて奇妙になるもので、結局わたしは、快い方ばかりに気を配って、そうでない方には目を瞑り、鼻と口と耳を塞ぎ、両手で頑なに拒んで遠ざけていたのだ。憎悪の嘲笑はこまくをさんざんに震わせ、わたしは幾夜寝ずの番を担い、目の下にクマを作った。すると、食べ物は味がしなくなり、日の光は褪せて白白しく見え、鏡に映る自分は童話に出てくる醜い魔女であった。爪を噛み、痒くないのに肌をバリバリ爪で引っ掻いて出血し、貧乏ゆすりを騒々しく繰り返し、誰かの不幸に嘆く様を見ては春の訪れのごとく喜び自分の愉悦にした。
わたしはやがて疲れてしまった。力を失い、人間である意味を感じなくなり、生に執着しなくなった。要らないものがある、存続するというのは実に面白くないことで、わたしにとって人生は、ほとんどくずかごの中の汚物でしかなかった。出来るだけ早めに焼却されるなり圧砕されるなりする宿命のものだった。
わたしには男がいた。大した男ではなかった。むしろ、厭わしい、呪わしい、汚らわしいけだものであった。
わたしはじぶんの山の頂きに上り詰め、後は下りていくだけだった。そしてその先導役が期せずして偶然この男だったというわけだ。全ては合縁奇縁。怪しむに足りないことだった。わたしとこの男との間に縁があった。生誕より絶命への長い途上でたまたま遭遇した、それだけのことだった。
新しい刃の切れ味は絶大だ。どれだけ大きいブロック肉であってもまな板までスパッと一直線だ。この男の腹に突き刺す時も同じだった。田舎にドライブに行こうと誘われた。わたしは快諾した。鬱蒼たる日本の山林は妖しい魅力でわたしをいざない、わたしは男をいざなった。
足の爪先で捨てた包丁に触れ、そして蹴った。包丁は飛ばず、くるくると回って滑っていった。失敗したと思った。面白くなかった。
凶刃に赤く染めた悪臭のする手をわたしは、かがんで、足元のぬかるみに突っ込み、かき回した。
〈タスケテ〉
ふと、声がする気がした。その声は低く、微かで耳をすまさなければ捉えられないほどだった。
不気味さに身震いするほど、雨音が静まっていた。わたしは事態の急転を察した。ぬかるみにない方の手で髪を触る。濡れている。ぐしゃっと鷲掴みにする。しぼられた髪より水滴が落ちる。わたしは安堵してもいいと思った。大丈夫だと思った。事態は変化していない。何もおかしいことはない。
《タスケテ》
再度したその声が、その微かさにも関わらず、わたしの心まで強勢に揺さぶる。すると、ぬかるみが突如沸騰したように、ぐつぐつと煮立ち、わたしの手は未知の力に引っ張られていく。目の利かない闇に、わたしは人体を認める気がした。上半身だけだった。ぬかるみにいるその影は、泥人形のようだった。顔はなかった。ただぬかるみで暴れて、中のわたしの手を引っ張っていた。男か女かその判別は付かなかった。
わたしは慄然として目を瞑った。その途端、あの臭気が、あの厭わしい臭気がまた鼻にツンとした刺激を送った。血のにおいだ!
目を瞑ったまま、わたしはそばにあるかも知れない相手をやっつけられる道具を、手をあっちこっちに伸ばすことで探し、やがて掴むと、目前の『何か』に向けて紫電一閃、力一杯突いた。
その時確かに、わたしはやわいものを刃で突き刺す感触を得た。間違いなく、わたしは刺した。そして叫び声とも笑い声とも言えない耳を劈く大声が聞こえたが早いか、雨音が再び聞こえだした。
わたしは目を開いて、サッとわたしが遺棄する死体を瞥見すると、一散に駆け出した。最早一刻の猶予もなかった。その場にいれば、わたしは得体の知れない何かに、得体の知れない異界へと引きずり込まれるに違いなかった。
わたしはぜえぜえ息を上げて、なりふり構わず走った。走り続けた。雨は小止みなく降り続ける。わたしはしっとり濡れた夜の山林を駆け抜ける途中、だんだんと、半ば可笑しく、半ば哀しい気分になって、大声で笑ったかと思えば、赤子同然に号泣した。自分がヘンになるのがよく分かった。そしてすっかりヘンになってしまう運命を予覚していた。舗装の道より獣道に入り、そして道なき道に踏み入り、靴が脱げ、服がそばの木の枝で裂けた。わたしは笑うことと泣くことを不規則に繰り返した。
わたしは、最早ダメだった。
わたしは、ケモノになってしまったのだった。
(End)