03,第一王子
朝の陽の光が差し込む自宅の客間。昨日の騒動から一夜明けたはずの今日もその騒動は続いている。私の正面では美しい男性、ルーカス第一王子その人が深々とソファに座り紅茶を楽しんでいた。テーブルには王子から贈られたエマの好きな花が飾られている。
昨日突然現れたルーカス殿下に申し込まれた婚約はあれよあれよという間にその場で成立してしまった。
私には王家と関わってもらわないと困ると言った国王夫妻は当然乗り気。八年前自身の留学が原因で浮いた王太子の座を弟と争う第一王子が婚約者を決めていなかったのも大きかったと思うが大賛成だった。そして突然の事に謝罪とほんの少しの抗議の気持ちを抱えていた両親もまた、陛下たちのお気持ちならば喜んでと答えた。そして私はというと……正妃として愛がない結婚をするつもりだった女にはどんなに急でも新しい縁談を断るそれらしい理由などなかったのだ。戸惑っていなかったと言えば嘘になるが動揺を表に出すことは憚られた。
慌ただしく書類にサインをすると解散、殿下から明日行くね、と笑顔で告げられた結果が今である。
「エマ」
優雅な所作で音をたてずにカップを置いて、第一王子はこちらを真っ直ぐ見つめた。
「なんでしょう殿下」
「ルーカスと」
「……ルーカス殿下でも?」
はにかむようににこりと笑ってくれた。
「いつか、呼んでくれればいい。さて、これからの君の事を話そう」
明後日からまた学園が始まる。何も恐れる必要はないが、周囲の好奇の目に晒されることを気にしてくれているのだろう。
「まず、僕たちの婚約は昨日正式に確定しているが、正式な公表はクリスの件を待つことになった。状況を考慮して今はこの話を発表しないでほしい。だが万一、不埒な輩に迫られた際は『誰かの婚約者候補に収まっている』とさりげなく伝えて身を守ってくれ。公爵家相手にやらかす者もないとは思うが、余計な争い事は避けたい」
そうか。王族の婚約者であった今までは誰にもそのような目で見られず、話しかけられなかった。しかしこれからはこれまでのように遠巻きに見られるだけではなく、『誰もがその話題で話しかけていい令嬢』あるいは『身分次第でそれを申し込むことが出来る令嬢』になっているのだ。少し失念していた。
「また、王太子が定まっていないこの状況だ。君にも王妃教育を継続して受けてもらう。いいね」
異存はないので「かしこまりました」と笑顔で答える。これまでも保険として受けてきた教育だ。問題はない。
「それで。確認だがここ数ヶ月、君が王宮に通っていなかった理由はなんだ?」
責める口調ではないが眼光は鋭い。嘘をつくと思われているのだろうか。我が家では家訓により嘘は大罪だ。身を亡ぼす。黙秘こそすれ偽りはしない。
「……正直にお答え申し上げます。ク……第二王子殿下のご命令でございます。しばらく休んでほしい、母には私から伝えると。理由はうかがっておりませんでしたが、学園内での殿下のご様子からある程度察しておりましたので王妃様には何も確認しておりません」
そうか、と小さくつぶやいたあと、殿下は思案気な表情で腕を組む。
重苦しい空気が流れ、その重さが両の手に伸し掛かる頃、新しいお茶が用意された。温かく優しい香りが部屋中を明るくする。助かった。
「明日、王宮に来てほしい。君が家に帰る頃に迎えに来よう」
下を向いたままだった殿下はそう告げるとぱっと顔を上げた。
ものすごい笑顔。
「暗い話はここまでだ。楽しい話をしよう。何しろお互いの事は殆ど知らない」
ニコニコとこちらを見ている。口調が砕けて笑い方も柔らかくなった、その変化と発言の内容に戸惑ってしまった。何を知り合うというのだ。楽しい話とは何を話せば良いのか。クリスとは事務的な話以外していない。それに、こんな笑顔を向けられるなんて。
「あの、ルーカス殿下、何をお話しすれば……」
「エマの好きな物の話でいい。小さい頃にお茶会で会っただろう。あの時エマと本の話をしたね。楽しかった」
その笑顔に幼い頃のお茶会を思い出した。初めてのお茶会で緊張していて、どういったいきさつか殿下と話をしたのを思い出した。細められたその瞳は懐かしんでいるようにも見えた。
「最近読んだ面白い本があれば教えてほしい。僕も面白かった本をエマにおすすめしたい。勿論本以外も。好きな花や食べ物や楽しいことも悲しいことも色々なことを話したいと思っている。」
そんなことをしたことがなかった。クリスがどんな本を読み何が好きで何が嫌いなのか知らない。知っているのは公務に関わる嫌いな食べ物、それだけだ。何をどう話せばいいかわからず、驚いて半開きになってしまった口から何も言葉が出てこない。
――第一王子は八年間他国へ留学されていた。他国で何をして、いつ戻ったのか詳細は知らないけど、いきなり婚約を申し込んだり、気さくに話しかけたり、随分変わった人だわ。
目の前の美男子は優しく笑ってくれている。