21,婚約者
「……マ! エマ!」
ハッとする。ルーカスの顔がすぐ近くに迫っていた。
「あ、はい、ごめんなさい、ちょっとぼうっと……」
ここはルーカスの私室。解決しないクリスの問題と先日のダンスを受け、王妃はこちらの婚約を発表した方が良いのではと王に提案した。そうすればエマの身を王宮や離宮に移すことも、いささか無理矢理だが可能だ。だが王は問題が解決しないままでキアラが王宮に通っている以上、危険を伴うと首を縦に振らなかった。急激な状況の変化でかえって何をしでかすかわからないと。
ルーカスはルーカスで夜会の事後処理で思うところがあったのか、王族の結婚は準備がかかるから待つ間にそれの草案だけでもまとめていいかと王に提案し、招待客の仮のリストやドレスのイメージなどを私と話し合って決める事にしてしまった。
「疲れている?」と私の顔を覗き込む美しい人はいつだって私に優しい。少しお茶にしようかと笑いながら指示を出してくれていた。お茶が入るまでの間に、机の上に広げた書類を片付ける。確かに疲れているのか、最近たまに呆けてしまう。
お茶を置いてメイドが下がると彼は私のすぐそばに移動して肩を抱いた。どうも最近あのダンス以来、ちょくちょく触られる。正直慣れなくて照れてしまう。
「発表になる前から大変な作業をさせて済まない。発表したらすぐに式を挙げられるようにしておきたくて。本当に、発表できればいいんだけどね」
「大変だなんて……お心遣いありがとうございます。すみません、呆けてしまって……」
一瞬眉をひそめるものの、すぐに元に戻る。
「……推測だけど、魔力と関係があるかも知れない……。あまり例がない事だが、魔力が急成長すると身体に負荷がかかり眠気を誘う事があるとか」
ブツブツと何事か呟き考え事を始める。そういうこともあるのかと納得していると、おもむろに私の頬に手を添える。
「最近感情を抑え込んだりしていない? 何かこう……」
つらい思いをしたりとか、という言葉を言い出せない。そんな顔をしていた。
頬の手に自分の手を添える。
「ありません、殿下がいて下さいますもの」
これは本当。最近は感情を扱う事が上手になったと思う。自分の気持ちとしてどう感じたかを処理して冷静に判断できる。十年間の抑圧は無駄じゃない。ルーカスといると幸せだ。彼には感謝しかない。
学園でも変わらずに皆に守られており安心できる。いつか解決せねばと思いはするがエマにはいい方法が浮かばず、勝手も出来ない。
「……ならいいけど。何かあったらすぐに言ってくれ」
「ありがとうございます。大丈夫です。多分ちょっとした疲れです。気持ちのうえでは楽しい事の方が多くて泣いておりませんもの。この前のダンスも本当に嬉しかったです。私、先生以外と踊ったことがなかったので、緊張しておりましたの」
驚いた顔でこちらを見る。失言だったかしら。
「クリス殿下とは踊った事がありませんの。ネックレスに触れるのはとお断りされたもので…」
ルーカスは泣きそうな顔をして私の手を握る。
「エマの初めての思い出になれたのなら本望だ。結婚したら踊ることも増えるし、今度一緒に練習しよう」
にこりと笑ったと思ったらその口を尖らせてぽつりと言った。
「……エマは相変わらず、私の事を名前で呼んでくれないね」
わざとだとわかっていても大の大人の、しかも未来の王候補のすることと思えず吹き出してしまった。
「エマ! 真剣な話だよ! 君からの譲歩でルーカス殿下と呼んでくれるはずが殿下の方が多いし……いつかって言ってからもう結構経つよ! 恥ずかしいならもういっそのことルークって愛称で呼んでもらいたいくらいだ」
「すみません……あまりにも可愛かったもので……」
拗ね散らかしたのか横を向いてお茶を飲み始めている。公務だなんだと話すときはあんなにしっかりしているのに、気が緩むとたまにこういう子どものようなことをする。
おかしな人だわ、と笑ったその時にまた何か思い出しかける。
「……ルーカス殿下……一度うかがいたかったのですが、どうしてそこまで私の事を……?」
むすっとしたまま答えてくれる。
「話した通り半分は一目惚れだよ。ただし、お茶会でね」
思い出せるお茶会はひとつだけ。あの時に? あんなに小さい時に? 殿下は八歳で私は五歳だった。あんなに人がたくさんいたお茶会で私を――だけどこの人は八年ぶりに会った時にも久しぶりだと言ってくれていた。覚えてくれていたのだ。まぁ一人だけ銀髪に黒い瞳だ。目立っていただろう。
「あのお茶会はね、母上が僕とクリスの為に開いてくれたお茶会でね。僕は元々引っ込み思案で人見知りがひどかったんだ。こんなことでは婚約者なんて決められない。それを見かねて、まずは同年齢の子と友達でもいいから触れ合えるようにと考えてくれた。けど僕にはご令嬢たちの華やかなお話は縁が遠すぎてあまり面白くなくてね、緊張で疲れてしまって。こっそり花壇の裏に回ったら、君が座り込んでいた。珍しい髪と瞳の美しいお嬢さん。単純な理由に思えても子どもには真剣なものだ。あの時から君は特別なんだよ」
そういえば。
私もあのお茶会までは家で本を読んで過ごす事が多かったから、同じ理由で隠れたわ。
「エマと過ごした時間は本当に楽しかったよ。クリスには悪いけど僕は今君と結婚が決まってとても幸せなんだ」
もう拗ねてはいない。目を細めてこちらを愛しそうに見ている。恥ずかしい。
というかまだ婚約だ。
「あ、あの……ありがとうございます……私も幸せだと思いますわ」
そう? とニコニコ笑っている。あら、これはまだ拗ねているかも。
「本当です。こんなに不器用な私に優しくして下さるルーカス様が一緒ですもの」
「婚約者殿がルークと呼んだら機嫌直すよ」
やはり拗ねていた……のではなくてこれは作戦ね。
なんだか大変な事になってしまった。威圧感のある笑顔でじりじり迫るルーカスに顔を赤くしながら「近いです」と返すのが精一杯だった。