18,黒
私の目からたった一粒、涙がこぼれた。
空気が変わった。私を見る全員が戸惑いの色を浮かべた。
王妃教育が始まってからというもの、私は泣いたことがなかった。泣かないと決めていたから。胸が詰まっても我慢すればそのうち気にならなくなった。いつだって繕った感情以外を表すことはなかった。だがそうだけでなくていいと教えてもらって気が緩んでいたのかも知れない。
その私の涙に全員が驚いたというには異様な光景。事実そうではなかった。
「……エマ……あなた……」
母親の声ににじむ気を感じそちらに視線を移そうとした際に、飾られた鏡に姿の変わった自分が映り込む。髪の根元の方が黒に変わっている。
愕然とした表情の自分が見える。
信じられず、信じたくない。この部屋に入る前は全て銀色だった髪色。どうしてこうなったのだ。わからない。察するにたった今変わったのか。
背筋がさっと冷たいもので撫でられたように冷えて震える。得体の知れないものへの恐怖で歯が鳴りそうだ。だが歯を食いしばった。目を閉じて深呼吸を。こんなことで動揺していてはだめ。もしこれが自分でなくても。誰がどう変容しようと落ち着いていなければ。まして自分自身の事なら余計に。心を落ち着けていないと。深呼吸をし強張った身体をほぐすも、息がうまくできない気がして、仕方がない。気持ちだけが駆け足で、身体を伴わず平静さを失いかけるのを必死で抑える。
「……本当に、突然なのですね。さぞ……お見苦しいところを……お見せしたかと、思います」
何をどう言ったものか一言ずつ確かめながら口にする。冷静な気持ちと焦る気持ちとが、頭の中で混ざってしまい、うまく話せない。
「自覚した、からでしょうか」
覚悟を決めねばならないなどとそれらしく言いながら、これでは情けない。妙に冷静なようで鼓動の音が耳まで響く。泣いた理由を説明しないといけない? 今? 何と言えば良いの。うまく言葉が出ないのに。まずは落ち着くのよ。心配をかけるだけだわ。まずは一人になって……
思考がそこへ行きついた時、みぞおちの辺りがぎゅっと締まった。きっとそれじゃだめだわ。
もう一度深呼吸をし、冷静さを取り戻す。今一番に考えるのは私の事じゃない。
「陛下、妃殿下。私を婚約者だと公表されませんで幸いでございました。ルーカス殿下は成人されていらっしゃいます。全てご存じとは思いますが、このように変わりました今の私のお姿を殿下がどのように思われましょう。元よりあの様に婚約を決めていただきました私です。もし殿下が……お断りになるようでしたら私は慎んでお受け致します」
精一杯の礼儀をもって口から滑り出る言葉は本音だ。なのに苦しい。すらすら話せる自分自身が憎い。
「お話は承知しております。しかし一度婚約破棄された身。黒くなってそのご兄弟に嫁ぐなど、殿下ご本人の求めでなければ許さない者もいるでしょう。ならば私は先程ご紹介いただいたお仕事でこの国に関わります」
ルーカスの言葉を信じないわけじゃない。だがこの黒さ。彼だって見たら驚かれるだろう。お嫌に思われるかもしれない。これが元で彼が蔑まれることがあっては耐えられない。もし私を救おうとして傷つくことがあったら――
「殿下は本日の事を大変心配して下さいました。ありがたく思っております。お礼を申し上げにうかがっても宜しいでしょうか」
両陛下は私を気遣ってか、涙の理由は聞かず許可を下さった。
すぐ隣の部屋で彼はソファに座り腕を組み俯いていたが、声を掛けると少し寂しい微笑で顔を上げる。と、その瞳が大きく見開かれ、すぐに優しく細められた。
「エマ、同席出来ずにすまない。綺麗だね」
そういって私の髪に触れた。
「いいえ、充分でございます。お気持ちだけで勿体ないほどに嬉しく思いますわ」
隣に座るよう促され座ると何も言わずに穏やかな笑顔でそっと私の髪を撫でた。返すように微笑むと私の肩にそっと頭を乗せ、やはりそっと頭を撫でられる。首筋に呼吸を感じる。
やはりこの方はご存じだったのね。ずっと全部を。
再び泣き出した涙を止められない私の頭をずっと優しく撫でてくれた。
気が付くと、私は昨日と同じベッドに寝ていた。起き上がるとすぐ側にルーカスが座っている。
「やぁ。目が覚めたね。何か飲んだ方が良い」
彼が手を挙げたのを受けて視界の端で人が動くのがわかった。
「公爵夫妻はお帰りいただいた。君の事をたいそう心配していたけれど、頼み込んでお引き取り願ったよ。表面上は君を連れて帰ったと思わせるため、侍女を一人共にしてある」
「ありがとうございます……」
「お茶を飲んだらゆっくり休んでくれ。もうずっと無理が続いていた」
ソフィアの淹れてくれたハーブティーはとても気分が落ち着く香りがした。
「……その……見苦しいところをお見せしました……」
泣き疲れて眠ってしまったのだと察して少し恥ずかしくなる。
「どちらの色もとても綺麗だね」
解かれシーツの上に広がった髪は、毛先三分の一を残して黒くなっていた。その一房をいたずらに弄んでいたルーカスはそれには答えず、自分の髪を見るように上目遣いになり何か考え込む。金色の光輝くこの国で黒など汚い色に映ると思うのだが、ルーカスはこれを美しいと褒めてくれる。泣いている時もずっと優しい言葉を掛けてくれていたのをおぼろげに覚えている。ありがたい人だ。
「あの……ご存じだったのですね……留学された上、成人なさっているから当然なのでしょうけど、ネックレスの事も……」
ルーカスは笑顔で返事をしないでエマの髪を弄んでいる。
婚約の事を聞こうとして口を開くと話す前にかぶせてきた。
「うーん、それぞれの瞳と髪の色が別々に子どもに遺伝してほしいなと思ってね」
一瞬わからず固まる。そして慌てだしたエマを見つめながら彼は穏やかに続けた。
「先程良い果物が贈られたと聞いた。明日の朝は僕の部屋で美味しいタルトを食べよう」
なんという。お茶をさっと飲み干してわざと渋い顔をした。笑ったら泣いてしまいそうだ。ルーカスは何も変わらず、微笑んで髪を弄び続けた。
 




