水子
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人間とは何か。よく私は人間と表現することがあるが、どうやらそれは誤りであるらしい。
人間という表現はあくまで人と人との関係の世界であり私が求めていた解は『人』というもので表すものだと友人から聞いた。
それはいい。本質ではない。では人とは何か。人とは分類学的なアプローチでいえばヒト亜族に属する動物の総称なのだという。ヒト科ヒト亜目ヒト族ヒト亜族ヒト属ヒト。
だが、それも私が表現したいものではない。もっと完結に人とは何か。デカルト曰く『我思う、ゆえに我あり』なのだそうだ。パスカル曰く『考える葦』なのだという。猫曰く『人は私に施しを行う生物』だそうだ。哲学的な、あるいは思想的な考え方もどうにも私の求めている考え方とは違うようだ。猫のいうことなどもっての外である。
では、構造からみるとどうであろうか、人を構成する成分は……と少し考えた時点で、表されるのは添加物が豊富に多分に含まれた栄養食品の成分表のようなものであった。
結局のところ、陰陽に程近い神道が最も腹落ちする考え方であった。人は肉体と精神と魂から成りそれらが相互に作用することによって人は人たり得る。腹落ちする反面、これでは人以外の生物は3点のいずれかをもっていないことになってしまわないだろうか。少なからず陰陽道の真似事のようなことで生活を送っている者としては何とも納得のいくようないかないような話である。
盲目的に人の存在をいずれかの学問の虜になってわかったつもりになってしまった方が幾分か気持ちは楽になるのであろうが、考えることを止めてしまうことも、また人が人たり得なくなってしまう気がしてならない。
この数日、禅問答のようなことを、若い、自我を持って初めてそれに触れた学生のように物思いに更けながら頭を空転させているのであった。あるいは答えはないのかもしれない。観測されたソレだけをみて判断する科学に縋るほかないのかもしれない。哲学者ぶって自分なりの考え方を早々に確立させてしまって今日の晩御飯について考えた方がマシなのかもしれない。
夕焼け空を望みながら独り呆けているとそんなことを妄想してしまうあたり、私はまだ若いのだと思う。逢魔が時のあやふやさがそんな思いに浸らせてくれたのかもしれない。
―2―
銭洗弁天というものをご存じであろうか。
そこに流れる清水でお金を洗うと何倍にも増えてくれるというものである。あるいは宝くじにご利益がある神社なども有名なところかもしれない。至極私的な、都合の良い神様もいたものだとは思わないだろうか?
答え合わせではないが、そもそもこの銭洗弁天。元々は金儲けで得た金銭を清水で洗うことで知らず知らずのうちに金儲けによって犯された罪を洗い清めるというものである。それがどういう訳か、いつのまにか、狐に化かされたかのように札束を清水にさらし恵比寿顔で後にする輩が絶えないというのであるから面白いものである。
果たして、そのような誤った解釈によって洗われた銭が何倍にもなってくれることがあるのであろうか。人情としてはそんなことはあってはならないと思いたいところではあるが、どういう訳か御利益があるという噂が噂を呼び連日大勢の人で賑わっているというのであるから不思議なものである。
ありていに言ってしまえば参拝する人の数が多ければ多い程、商売で成功する人数も増えて当然であろう。行列のできる宝くじ売り場みたいなものだ。販売数が多ければそれはもう当たって然るべきであろう。
それでも人がありがたがって参拝するのは人の穢れた欲にほかならない。真実を知っている者がわざわざお金と時間を掛けて参拝するかといえば恐らくしないであろう。たぶん。
少なくとも陰陽五行説ないし神道において手を洗うという行為そのものは穢れた心を洗うことを意味するものであるため、銭洗弁天の面目躍如といったところであろうか。
陰陽道において陰と陽は何も良い悪いという意味合いで使われるものではないということを少し説明したいと思う。例えば汚い場を清めるという行為は陰から陽へと移す行為である。これだけでは良い悪いと似たものと思えてしまうが、そのほかに明るいと暗い、素直と曲がった、赤と黒、青と白。といった具合である。
改めて文字におこしてみるとどうにも良い悪いとの境目があやふやだと私も思う。先の人とは何ぞやの問いに対して陰陽道では肉体のうち、植物的な活動を陰とし、動物的な活動を陽と表現することになる。前者は簡単にいえば基礎代謝みたいなもので、後者は文字通り
動くといった活動そのものを意とするものである。これならば陰陽が良い悪いといった単純なものでないことがわかってもらえると思う。
よくよく考えてみれば、それすらも曖昧であやふやな物言いなのであるが……
―3―
さて、今回このような自問自答あるいは禅問答のように悩んでいるのかといえば、無論、依頼内容のことである。同業者と比べると幾らかばかし若い部類に入る私ならではの依頼といえば聞こえはよいのであるが、如何せん苦手なタイプの話であった。
水子。
私が今年で25歳になるので、生まれるよりも少しばかり前の話であるが、1970年代に水子供養というものが全国各地で盛んに行われるようになったのだという。水子というもの自体は乳飲み子であるとか、幼子、あるいは腹の中の子を指すのであるが、ようは、その子の供養だ。
元来、子供というものは大人になるまでに飢饉やら何やらで少なからず亡くなっていく弱い存在である。だからこそ父、母、周囲の大人が面倒を尽くすのであるが、それでも耐え切れずに死んでしまった子は、勿論、丁重に葬られた。
一部の貧しい家庭や寒村などでは口減らしなどといった風習により子殺しを行わざるを得なかったため、死後の恨みや呪いを避けるために寺社などの手を借りた事例などもあるようではあったので水子供養自体は然程めずらしい話ではないのであるが。
少なくとも、1970年代ともなれば、口減らしといった風習に基づく子殺しではないことは明白である。それでは何故、この年代に水子供養が各地で行われたのか。
呪い、祟り、障り表現はなんとでも説明できるものであろう。供養せねば次の子、あるいは自らに不幸がもたらされる。と言われてしまえば、供養を拒否することは良心を咎めるのではないだろうか。それが、自身の決断により行われたものであればなおさらである。
何かしらの事故でやむなく子を諦めざるを得なかった者と前者を同一視するのは私自身憚られた。前者の涙と後者の涙は同一のものでは決してない。しかしながら、陰陽道によればどちらも同じ事象である。恐らくは後者のような事柄は陰陽道が確立された時点ではありえなかったことなのだと個人的には解釈しているが真偽はわからない。
水子は『見ず子』とも表現される。水の文字が充てられているのは見ることなく流された。という意味合いも持つのであろう。そこで、人とは何か。という疑問に行き当たる。
「お腹の子を中絶したのだけれど、それ以来、何かに憑りつかれているように不幸に見舞われているので何とかしてほしい」
化粧の為か随分と綺麗な方であったが歳を聞いて私よりも年齢が三つ程も若いことに愕然としたものであった。まぁ本筋とは何ら関係のない話であるのでそこはどうでもよいのであるが。
人は何をもって人とすればよいのか。腹の中の子には成形段階とはいえ子の形をした肉体があり、生きようとする精神がある。それらを繋ぐ魂も存在する。それでも『見ず子』は所詮『水子』と区別される。一人の人の中に二人分の肉体と精神と魂が同居している状態は果たして二人とカウントするべきなのであろうか。外に出て初めて一人と一人に区別されるべきではないのではないか。
面会したファミレスの席においては少なくとも何も見ることはできなかった。もしくは胎内に未だ眠っている可能性は否定できないが、肉体と精神が無理矢理にでも外に出て行った時点で魂も引っ憑いて出ていったと考えることの方が至極まっとうな考え方であると私は思う。
彼女の中に生まれてくるはずであった魂だけが取り残されていたとしてもそれは彼女の魂だ。子の魂などでは決してあり得ない。
先の口減らしと供養にしてもそうだ。生まれた後、口減らしとして子殺しが行われたからこそ供養された訳である。あくまでも肉体と精神と魂は同一の場にいるものなのだと私は思う。元より、肉体が死んだことに気が付かず、あるいは強い思い残りがあり、肉体と精神とが朽ちても魂だけがこの世とあの世を行ったり来たりすることがあることも十分に承知しているのであるが……
―4―
「貴女には何も憑りついていませんよ。子のことなら貴女のことなど何も思ってはいませんのでお気にならさずに。貴方の周りに起こっている不幸事は偶然でしょう」
これが彼女の問いに対する私の回答であったが、そんなことで納得するのであればこんなに楽なことはない。私は口を噤みゴクリとこの言葉を呑み込んだ。そして彼女へ言葉を送った。
「身体の隅から隅まで綺麗に洗い、清潔な衣服を着用してから……衣服はなるべく白いものがいいでしょう。それから氏神へ参拝してください。そして子の冥福を心から祈ってください。それを三度繰り返せば大丈夫でしょう」
なんてことのない極々普通の参拝である。今回の依頼に対して、それ自体に何かしらの効果がある訳ではない。単純に気の持ちようである。終わった後にはスッキリとした表情になるであろう。それはそうだ。清潔に綺麗な服装で厳かな神社を参拝するのであるから大抵の人にとってはよっぽどのことがない限り気持ちがいいものだ。天気までは保証できないが晴天であればなおのことであろう。
こんな何でもない言葉の一つに「ありがとうございます」と深々と頭を垂れる姿を見ると何ともいえない気分になる。果たして彼女は堕ろしてしまった子に対してどう思っているのであろうか。『ごめんなさい』だろうか『早く祓われて』だろうか。あるいはその両方か? もしくは何も考えてはいないのかもしれない。
誰にでも降りかかる可能性のある不幸事に、こともあろうか自分の腹の中の子の仕業と決めつけて堕ろした挙句の果てに祓ってもらいたいと願う。人はどこまで堕ちるのであろうか。そう思う私自身も人であり、人の子である。
水子供養ブームという罰当たりなブームが起きた1970年代。人間という人と人との間の境目があやふやな世界に産まれてくることのなかった子供たちはそのままあやふやな世界へと魂を移す。そこに呪いや祟りや障りがあるのだとすれば腹の中にいる間にでも意思表示を行っているはずである。もしかすると肉体の成長が追い付いていないためにそれらを制限されているだけなのかもしれないが。
人とは何か。そう問われればこう答えることにしよう。
「私が視ている貴方の存在そのものが人であり、貴方が視ている私の存在そのものが人です」
と。
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