犬神
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思い思いの重い想いが募り募って憑く先は幸か不幸か生きるか死ぬか。重い想いは重い足枷となる。これは人と人との繋がりはおろか、畜生であればある程に、近ければ近いほどに痛いほどに当てはまる言葉であると私は思う。
犬神信仰というものをご存じであろうか。
元文二年(1737年)佐脇何某という者によって描かれた百怪図鑑によれば、それは僧侶の衣に袈裟を纏った犬であるとされている。また、安永五年(1776年)鳥山石燕によって描かれた百鬼夜行においても神官の衣に御幣を持った姿であり共に人間の背格好に犬の顔をした神様としての扱いを受けている。
イヌガミまたはインガミあるいはインガメ、呼び方こそ全国で違いはあれども犬は犬である。端的にいってしまえば犬神信仰とは犬を神として術者に仕えさせることであるといえる。
であれば、どうやって犬を神へと昇華させるというのか。犬神の術者は犬を祀る為に犬の生を奪う。なんとも形容し難い処遇である。斬り、裂き、あるいは煮、焼く。生ける者をあの世へ送り、あやかし者とすることで犬は犬神となり、飼い主である術者に仕えるのである。
犬とは元来、狼を祖としており群れをなす賢い生き物である。太古より人間と共に生活を送るようになってからというもの、すっかり人間のパートナーとしての地位を確立してしまった訳ではあるが、群れであったことの名残りであるのか、生活圏内における上下関係ともいえるヒエラルキーを犬は自身の中に持っている。それは生き死にに関係なく持っている。
そのため、犬神の術者が犬を犬神へ昇華する段階で犬の恨みをかってしまい、逆に喉元を食いちぎられるということもあったそうだ。犬神の術者が生前に犬よりも上位の存在であったのならばそんなことは起こっていなかったであろう。
陰陽の世界でも似たような話は数多くある。その多くは正しい手順を踏まずに民間療法の如くただただ姿形だけを真似たことに起因することを注記しておきたい。
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犬というものは前述のように群れをなし、その中での自身の地位を認識する生物である。それは神となって祀られてからも変わらないと考えていいであろう。術者が生きようが死のうが犬神となってしまった犬は犬神として生きるほかない。ただの犬が飼い主でも何でもない人間が外法の手により神として祀り上げられた姿など想像したくもないものだ。そのような犬神は祀り上げられることもなく、構われる訳でもなく、この世とあの世を行ったり来たり。
また犬神筋という言葉がある。平たく言えば犬神の術者の子孫と考えてもらうとわかりやすいと思う。ここまでいえば私が次に何を言いたいのかも察しはつくかもしれない。
繰り返しとなるが、犬は本能的に群れをなす。そして上下の関係を明確にする。犬神の術者の家系は犬神を飼いならし繁栄をもたらすといわれている。それはそうであろう。犬とはいえ神を使役することになるのであるから。この世にあってあの世の存在を自在に操ることができるのであるから当然といえば当然である。得てして犬神として力を持った犬は知恵者である。無論、この世に存在しない犬神はあやかし者になるため、他人には見えない。しかし、術者には見える。扱える。これを利用して他家に断絶の呪詛を掛けたりといったことがメインであったそうだ。この辺りの利用方法が実に人間らしい。
ここで問題となるのが術者の生死である。術者は人間である。少なくとも生きている間は。
人間が死ぬとどうなるか。神となった犬と一緒に天に逝くなんてセンチメンタルな話ではない。それはありえない。というよりも死生観の話になると人それぞれ思う所がありそうなのでここではあまり多くは語らないでおこう。ただ一部の死者に限っていえば、この世に鎖に繋がれるように生者の如く振舞うことがあるとだけこの場では言っておこう。
ということは、ということはだ。使役する者、術者が居なくなった犬神はどうなる? 野良犬か? 犬神の野良犬なんて化け物、少なくとも私は聞いたことがない。失敗作のような犬神であれば安易に精神的に不安定な人間に憑りつくなどして憑かれた者と共に死ぬ、あるいは祓われるのがオチであろう。
さてさて、術者が居なくなった犬神はそれでもその家に憑りつく。
少し言葉が悪いな。その家に居憑くと表現しよう。まぁそれはそうであろう。術者が死んだとはいえ、その家族を含んだうえでの集団によるヒエラルキーなのだから。術者が死んでしまっても当面の間は家族に影響はないであろう。それも犬神の中にある上下関係次第であるので一概になんともいえないが。
そうして世代を越えてもなお犬神はその家に居憑く。あるいは引っ越しなどを行ったとしたとして剥がれるものかと問われれば逆に問いたい。犬は元の家に置き去りであろうか? そんなことはない。家族に憑く。犬神の術者の子々孫々に至るまで居憑く。それは果たして恐怖の対象となるであろうか。私としては否である。
犬は人間のパートナーである。集団生活におけるヒエラルキーによればそれは下位に属するかもしれないが、数十年あるいは数百年の時を経て、家が続いているのであれば、死してもなお、家に居憑く犬の立場はどうなるか。考えるまでもなく上位へと登りつめていく。
そうして犬神筋にある家の者の中で、上位者への敬意をはらわない輩は犬神に憑かれる。至極当然で必然のことではなかろうか。それを呪いと呼ぶべきかどうかは読み手に任せたい。
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犬神に憑かれるとどうなるか。人による呪いとは訳が違う。なんせ死者は死者でも神様として祀られてきた存在が憑りついているのであるからそれはそうであろう。具体的には身体中が痛み、原因不明の震えなどが続き死に至る。死体の身体を検分するとあらゆる箇所に犬の噛み後が見つかったという。なんとも痛々しい話だ。
それでも全国に犬神の術者が後を絶たなかったのは子々孫々の事を考えず己が利を得るために犬を殺生した者が多かったのか、または、子孫の事を思っての行動であったかのか、そんなことは私の知る所ではない。
今回は「狐に憑かれたので祓って欲しい」という依頼であった。
「何の脈絡もなく、ある日を境に娘が狐のような顔つきになってしまい、苦しんでいる」
そう聞いていたので狐憑きの要領で祓ったのであるが、あくる日には奥さんが同じような症状になってしまった。
狐憑きであればそんなことはまず起きない。場合によって偶然が重なったということも考えられないことはなかったが、私には経験がなかった。そんな話も聞いたことはなかった。
別の狐が憑く、それも別の人間に。余程運が悪いのか宝くじでも当たるくらいの確率ではなかろうか。そこで、前日に祓った娘さんに憑りつかれていたときの様子を伺うことにした。
「狐が憑いていた時に何か変わったものが見えたりしなかったかい?」
まだ、憑りつかれていた時の後遺症(とはいっても筋肉痛程度だが)が残っているため、ベッドに横になったままの娘さんに話を聞いた。娘さんは質問の初めこそ苦しかったことしか思い出せない。といった具合ではあったが、次第にボヤーっとではあるが、言葉を選びながら答えてくれた。
「祖父と祖母の姿が、私にとっては遺影でしか見たことのない姿でしたが……」
「お爺さんとお婆さんの姿? 遺影ではなく動いていたのかい?」
娘さんを慌てさせるでもなく、慎重に。誘導尋問ではないが焦らずに。頭を抱える娘さんに質問を繰り返す。
「ええ。ただ、祖父も祖母も遺影よりも若かったわ。それに知らない人も一緒だった。生活をしている風景を覗き見ているような。そんな感じ」
「覗き見る。ね」
娘さんから聞き取った内容を旦那さんに伝え、犬神信仰の話をすると旦那さんからは案の定、犬神筋に当たる家系であることが判明した。
何をもって、その犬が暴れ出したのかは私にはわからない。唯一の手掛かりとしては最近その家では血統書付きのビーグルを飼い始めたのだという事であったが、まさかな……
―4―
旦那さんと奥さん、それに娘さんを同席させ、犬神について一頻り説明をした後に、その家では祖父母が亡くなって以降、犬神を祀ることを一切していなかったことを確認した。
犬神に憑かれる理由としてはそれが理由なのだと思えた。犬とはいえども神は神。神は蔑ろにされる事を嫌う。喜怒哀楽の激しい犬ともあればなおのこと。
そうとわかれば話は早い。神事に倣い、犬神を祀ることで蔑ろにしてしまったことを謝り、鎮めることで人の身から祓うことができる。強制的に祓うことができないかといえばできないことはないと思うが、神だけに余計なことはすべきではない。と考えるのが私の考え方である。
犬神の術者の血族は永遠に犬神からの呪いを受ける。人間の至極私的な理由で殺され、勝手に祀り上げられ、神に仕立て上げられる犬にしてみれば可哀相な話である。しかしながら、その恩恵を受けない現代の犬神筋の家庭からするとたまったものではないであろう。
それでも犬神筋の家系では昔から他の家庭には知られていない犬を祀る神事のようなことを続けてきているはずだ。数百年も経てば一家の長は犬神となっているであろう。だからこそ、それを続けなければならない。もし、それが嫌なのであれば家から出ればいいのである。自立と言う形でもいい。あるいは長男一子の家庭であれば、その子を婿養子に入れてしまえばよい。血筋さえ絶たれてしまえば犬神が寄り付く家は無くなる。
その時に犬神がどういった行動に出るのかまでは私は知らない。新しい術者を探して野良となるのか、血筋と共にあの世へ逝くのか。あるいは犬を祀る神社に吸い込まれるように集まるのか……
一つだけ言えることは犬が自ら血を絶やすという行動は本能的に起こさない。仮に血筋が途絶えるような憂き目に立たされていたとしても絆を守ろうとするであろうということだけである。犬は義理堅い。絆を絶とうとするのはいつの時代も人間からだ。
実にどうでもいいことであるが、預かっている喋る猫の飼い主は犬神という。姓こそ犬神であるが、犬神筋の話とは一切無縁の家系にある。名前だけで判断できないことは時代の流れの成せる業なのかもしれない。
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