餓鬼
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『仕事』と言い切っていいものなのかは自分でもまだ踏み切れていない。第一、そんなに需要がないということもあるが、自分自身、これを営利で行っていいものなのかと考えだすと、そもそも謝礼という形であれどうであれ、小遣い稼ぎ程度の収入を得ている手前、矛盾が生じてしまう。
そういった葛藤もあって自ら売り込みをかけるようなことは行ってはいない(積極的には。という意味で)。今日のところは『依頼』という表現を用いたいと思う。
大概の依頼は口コミによるものであった。何も一見さんお断りの老舗を語るつもりなど前述の通りミジンコの毛先程もない。なかには『本物の霊能力者を呼んだ廃墟ツアー』みたいなものにゲストとして参加してほしいといった客寄せパンダのような扱いを請けることも過去にはあった。
何もない所で「何か嫌な感じがする」なんてブルブルと震える女の子なんてものが夏の風物詩であるが、正直そこには何もいなかった。ただ単に夏の夜の山が寒かっただけであろう。
話が逸れた。
口コミとはいってもSNSのようなものを介したものではなく、紹介である。祓ったことのある相手からの紹介。あるいは神事を委託されたことのある神社であるとか。そんなところである。神職にある方の全員が全員見える訳ではない。というか大体が見えてすらいない。それでも神職として成立しているのは代々伝わる儀礼であったり行事をつつがなく行っているからである。何の意味があるのかわからない近所のお祭りにもちゃんとした意味があるものである。
―2―
その夫婦は旅行が好きだと言っていた。それも海外。私の個人的な物言いであるが日本語が伝わる環境でないと生活できる自信がない。気軽に、気楽に海外に出かける事のできる人には心底尊敬の念を覚える。どこだったか、紛争地帯にわざわざ赴いたこともあったらしい。曰く「あくまで紛争地域があるだけで、観光地に影響はなかった」とのことであった。
気が知れない。
ファミレスでそんな話を聞いていたのであるが、紹介者であった友人からは「どうやらそこで奥さんの様子がおかしくなったそうだよ」とのことであった。なお、この友人は見えない方の人である。
「実は、聞いたことがあったんです。戦争の起きている地域に近寄ると『よからぬもの』を引き寄せてしまうことがあるという話を。妻と私はそんな話をすっかり忘れて物見遊山のつもりで安全だといわれるギリギリの所まで行ってみたんです」
その話に入った途端に40代後半位であろうか、終始紳士的な応対であった男性は手に持ったコーヒーカップをカタカタと震わせるのであった。彼の話によれば、その『ギリギリの所』で餓鬼をみた。ということであった。
「はぁ、餓鬼ですか……」
男性によれば、それを見てからというもの奥さんの様子が変わってしまったとのことであった。具体的には食欲。常に何か口に運ばなければ落ち着かなくなってしまった。らしい。
「……摂食障害とかではないんですか?」
馬鹿にするな、と激昂しそうになった男性であったが、私が真顔でそう言うものだから立ち上がりそうになった体を椅子に降ろし、一口。コーヒーとともに私の言葉をグビリと飲み込むと、ふぅと深呼吸のようなため息をついて自身を落ち着かせるのに努めているようにみえた。
「黒川さんの仰りたいことは十分にわかります。事実、私もその線を疑い、妻を専門医に診せたこともありました。専門医の答えは黒川さんと同じでした。摂食障害、いわゆる過食症でしょうと」
「それで?」
「医師に伝えました。医師は紛争地帯の実態を想像やニュースの映像ではなく実際に体験したことにより極度に精神的ストレスを負ってしまったことに起因するかもしれない。そう言われました。それから妻は一時入院し、療養しているのですが薬の量は増えていく一方。
既に3ヶ月を経過しようとしていますが、病院食だけの妻はみるみる間にやつれていき、私の顔を見る都度、食べるもの。飲むものを要求してくる始末。私には妻が単なる病気とは考えられないのです」
「なるほど、そこで色々と調べてみた結果、脳裏に残っている映像と餓鬼に関連があるとお考えになって今日にいたるという訳ですね」
「……そういうことです。黒川さん。黒川さんの噂は聞いております。一度、妻を見ていただけないでしょうか」
懇願にも似た依頼であった。ただ一点気になったのは紛争地帯で見たという餓鬼の存在。普段、あやかし者の存在を見ることができない人であっても極度のストレス下、あるいは死に直面した場合にはその場がどうであれ生死の境を彷徨う輩を目撃ということは多々ある。例えば三途の川なんてものは代表格であろう。私自身、見たことがあるということはない。だが、生死を彷徨った人たちは口を揃えて同じことを言う。花畑に川。渡し舟があって向こう岸には既に先立ったはずの者の姿があったと。
餓鬼。
前世において悪行を働いたものが餓鬼道に落ちた姿をいい、それは満たされることのない飢えと渇きに苦しむ者とされている。ただ、それは仏教上の話である。見た目は子供のように小さく、下腹がプクリと膨らみあがり、現実世界の飢餓状態に似ているものが想像されている。
子供のことを餓鬼と呼ぶことがあるが、それは我儘を働き駄々をこねる姿が餓鬼に似ている為といわれている。しかし、果たして現世の餓鬼とあやかし者の餓鬼のどちらが起源かと問われると鶏と卵の話のようにとりとめのない話になりそうなものである。
―3―
「それで、お主がここ三日ばかりそうしているのはそれが理由という訳か」
猫はいつものようにエアコンの上から見下ろすようにしながら、興味なさげに、それでも話だけは聞いてやるとばかりに私にむかってそう呟いた。顔を洗いながら。
「奥さんを見に行ったよ。確かに餓鬼だった。べったりと憑りついていた。だから連れて帰った。病院に長居はしたくないからな」
私はベッドの上で座禅を組みながら目を瞑り、猫の問いにそう答えた。
祓うは転じて『払う』ともいう。餓鬼を祓うのは至極簡単だ。物を乞う餓鬼ならではというところだろうか。旦那さんが奥さんのためにと買ってきた饅頭をまずは奥さんに手渡し、それを私が奥さんから貰い受ける。ただそれだけである。ただそれだけで餓鬼は祓うことができる。それは浄化されるような意味合いではなく、文字通り貰い受ける形になる訳であるが。
「餓鬼に憑りつかれると大変なんだ。何せ、食べた先から食べたくなるからね。だからこうやって何も与えないんだ。水も食べ物も何も」
猫は呆れるような口調で私に話しかける。
「何もお主が触媒にならんでも良いではないか。こう言ってはなんだが、やつれていくお主を見ながらだとカリカリが不味く感じてならん。どうにかならんのか」
餓鬼は祓いやすく祓いにくい。
手渡しのように簡単に剥がれるものの、自分で祓おうとすると大変なのである。何せ払えない。払えないので祓えない。餓鬼の祓いを請けるのにはそれ相応の覚悟が必要となる。無理に掃い落そうとすると身を持っていかれかねない。一般的な霊体に比べて餓鬼は身に張り付くように憑りつく。それが厄介なのだ。
「それにしても、海外旅行先でもらってきたモノなんぞ、自業自得であろう。生活費のためとはいえ、そこまで身体を張らんでもいいではないか」
「それは少し違うよ猫。この餓鬼はそういったものではない。恐らく彼らが視たという餓鬼は本当に飢餓状態の子供だったんだろう。誰でもしがみつきたくもなるさ。こんなに苦しいんだから。この世為らざる者の仕業と決めつけてしまうことができればそれで満足なのさ。原因がわからないことこそが人間にとって最大の恐怖だからね」
夫婦が視た者は恐らく人間。ただし、紛争によって生まれた孤児か遺児だったのかもしれない。子供位の背丈でガリガリの身体に膨れ上がった下っ腹。伝聞による餓鬼の姿そのままであったのであろう。
その餓鬼が夫婦を見つめていたのは好奇心からか危機感からかは知ったことではない。それでも夫婦はその子をあやかし者と決めつけていたのであろう。
―4―
猫は細く伸ばした目を擦りながら語りかけてくる。独り言のように。
「では何故お主に餓鬼が憑いておるのだ。言っていることの辻褄があっていないではないか」
「それはそうさ。なんせこの餓鬼は帰国してから奥さんに憑りついたんだから」
そう。今私に憑いている餓鬼は何も海外から引っ憑いてきた訳ではない。旦那さんから聞いた話によると、帰国してまもなく奥さんのお義父さんが亡くなられたそうだ。もちろんそれだけが原因ではない。決定的だったのは葬式の後の儀礼である。
精進落とし。
簡単にいえば亡骸を弔った後に行われる宴会のようなもの。それは、故人との別れの場であって葬儀の締めを意味する儀礼。葬儀というもの自体には宗教的な意味合いがあるのであるが、それは逢魔が時を人力で創り出すようなもの。この世とあの世の境目があやふやになる場である。だからこそ、始まりと終わりはキッチリとしておかなければ、いつまで経っても境目があやふやな環境が続いてしまう。
塩を撒くというのもそうだろう。場を掃除するというものある。中には歌うというものもあるが全て会の終わりを意味する行為である。
夫婦は妻の体調が思わしくなく、途中で退席をしてしまったらしい。どうやら精進落としには参加できなかったようであった。今からでも墓参りして精進落としをやり直してしまえば餓鬼は祓えるのであるが、入院中ということもあって荒療治ではあったが、私が受け入れることとなった訳だ。
己の身に憑りついた餓鬼を祓うために見知らぬ人の墓参りに行っても仕方がない。多少危険ではあるが、そういった場合には『憑りついても得る物がない』状態を作ることだけである。あやかし者は本能で動いている。何かを得るという目的をもってこの世にやってきた餓鬼は得られる場所を好む。得られなければそこから離れる。三日も飲まず食わず、娯楽を遠ざけておけば自然と剥がれ落ちる。
剥がれ落ちたのを確認した後に、精進落としとして、私の儀式を終わりにしてしまえば憑りつかれる隙はなくなる。憑りつく者のいなくなったあやかし者は逢魔が時にあの世に戻る。そういうものである。
餓鬼に限った話ではないにせよ、この世とあの世の境目があやふやになるのを彼らはじっと待っているのだろう。
私の下っ腹が出始めているのも餓鬼のせい。
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