猫又
犬派です。
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11月6日午後4時18分。
ちょうど良い具合に陽が傾き始め、眩しい陽射しが逢魔が時を知らせてくれた。
昨日までの寒風はどこへいったのかと思ってしまう程の過ごしやすい日暮れ。部屋の窓から眺める景色には買い物帰りの母娘であろうか、買い物袋を片手に、もう一方の手で子の手をリズムよく前後に振っている姿があった。あるいは塾に向かうのであろう自転車の学生、日中から夜に向かって活動準備を始めるこの時間帯は物悲しい気持ちをもたらすのと同時に今日の終わりを告げるように思えてしまうあたり、独り身の辛さを感じてしまうのである。
何気ない日常の一コマ。
さて、いつもであれば風景の中に私が散歩している姿があるはずなのであるが、前述の通り今日は自宅軟禁状態である。出かけたいけれども出ることはできない。原因は猫。
基本的に私の入居しているアパートはペット不可であるため飼っている訳ではない。数少ない友人の一人からどうしてもと懇願された上で仕方なくここ数日預かっている。
先ほどから部屋の一番の高台であるエアコンの上に鎮座している猫。名前は何と言ったか……まぁ、この部屋に猫はコイツしかいないので猫でいいだろう。
預かった初日こそ部屋の隅っこでコソコソとしていたが、三日もすればこのザマである。部屋を乗っ取られた気分だ。乗っ取られては困るとばかりに日頃焚いている香を強めに焚いて抵抗するのであった。
それでも助かったのは短毛種であったことであろう。犬種ならぬ猫種なぞ知ったことではないが、アメリカンショートヘアというのであろうか? 何にせよ今のところ毛による実害はないと考えてよさそうであった。
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私的には犬派なのであるが、それを決定付けた出来事が幼い頃の記憶としてトラウマの如く思い出される。その時のことを少々。
小学校低学年の頃であったと思う。確か、他人に見えないもの、見えてはいないものが見えるといった『自分は普通ではないのだ』といった僅かばかりの疎外感を感じていた頃の話である。
中学生くらいになるとそういった特異的な体質は往々にして羨ましがられるものであるということがわかり、進学する頃にはその辺りの歪な劣等感は優越感に近い驕りに化けていたのであるが……その話はどこかのタイミングでするとしよう。気が向けば。
ある日の下校時刻。委員会であったか日直であったか定かではないが、夕焼けがいつもよりも長く続いているような変な日であったことを鮮明に覚えている。あるいはそんな時間まで外にいなかっただけなのかもしれない。もしくはこのあと起こった出来事のせいでそういう風に思えてしまっているだけなのかもしれない。なんにしてもその日は一人で家路についていた。いつも一緒に帰っていた友人たちは早々に帰っていたから仕方がなかった。
逢魔が時には見えてはいけないものがよく見えた。ただ、それがこの世のものかあの世のものかを判別する手段をその時の私は身につけていなかった。誰でも夕暮れ時にすれ違う者の顔や仕草などに一々注視することはないであろう。それにそれが見えるからといって何か危害を加えるものであることなどそうそうないことは両親から聞いていた。
そんなことが日常茶飯事であればとっくの昔に大人達が対策を講じるであろう。幼いながらにそんなことを考えていた気がする。もちろん、小学生の自分がそれをどこまで理解できているのかなんてものは言うまでもないけれども。
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道端で尾が二股に分かれている猫を見かけた。
それが本来あってはならないことであることなど小学生の時分に分かる訳がなかった。
野良猫を呼びこむようにその場にかがみ、両手を広げた。「こっちにおいで」の声に耳を傾けた猫は馬鹿正直に手元までやってきて撫でまわしてやった。可愛いとしか考えていなかった。
猫の尾は根元から二股に分かれていた。それはそれぞれが意思をもっているかのように別々の動きをしていたことを覚えている。
今思うと当たり前のことなのであるが、あやかし者は招かれるのを待っている。それを促すために化かし、注意を引き、時機を待つ。愛玩動物としての地位を確立している猫様ともあろうものならそんなことをせずとも身なりを綺麗にしておくだけで人間の方から招いてくれるという訳だ。先般の通り、何も取って喰らうつもりなど毛頭ない(危ないやつもいるが)。あやかし者は何かの理由があってこの世にいるのであるから。
自我を持ったあやかし者はだからこそ積極的なのである。
自我を持たないあやかし者はだからこそ危険ではないのである。
二股の猫は二本に伸びた立派な尾をフリフリ私に近づいてゴロゴロと喉を鳴らした。果たしてどれくらいの時間『捕まっていたのであろうか』気づいた時にはとっぷりと暮れてしまっていた。周りに人の気配はしなかった。
流石に異常さに気づいた私は、立ち上がり周りを見回してみれば見知った工事中の空き地、普段は近寄りもしないような、そんな場所に自分は立っていた。
簡単に言えば『化かされた』というヤツだ。妖怪絵巻なんかだとそのまま喰われたりするのであろうが、いっても猫である。子供とはいえども体躯の差があるというものであろう。それは昔話でも同様だと思うけれども。
二股の猫はサッと身を返し、暗闇の中へと姿を消した。しかし、その目は闇の中にあって光を放っており、この世と思えないその闇の中へ誘うようにこちらを観ていた。その時の猫の目の怖さは今でも記憶に植え付けられている。
その異様さに恐れをなして私はすぐさま踵を返したのであった。
そこから家に帰りつくまでの間の記憶は残っていないが、あれこそが猫またと呼ばれるあやかし者であったのであろう。
あるいは、あの闇の中に足を踏み入れていたとすれば、今の私は無かったのかもしれない。
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次の休みの日に友人を連れて、真っ昼間にその工事現場へと乗り込んでいったが、そこにいたのは尾の分かれていない極めて普通の猫の姿であった。
ポカポカと照らす陽を浴びながら寝転がるただの猫。
あの日に出会った二股の猫とはそれから出会うことは二度となかった……
そんなことを思い返していると、時計は午後5時を指していた。窓の外はすっかり真っ暗である。仕事帰りであろうスーツ姿の会社員と思われる人々がスーパーのビニール袋を片手に家路に帰っていく姿が目に入った。
猫は20年生きれば猫又になると言われている。飼い猫であれば20年という年齢は結構ありえる話らしい。未だエアコンの上からこちらを見つめている猫も実家から連れてきたとかなんとかでかなりの長寿らしい。
これを書き殴りつつも「ちと香がキツイなあ」と背後から聞こえたような気がするけれども放っておこう。
ここは私の部屋だ。
猫派の人にとって飼い猫の猫又化は嬉しいものなのでしょうか?
「ウチの猫が喋った!!」という方は是非、感想欄で自慢してください。




