烏
―1―
年の瀬も迫る程に師走という言葉の意味を痛感する。とはいっても男一人暮らしの家であれば煤払いなんて面倒なことは行なわないが、会う人逢う人に暮れの挨拶を交わしておいたり、年賀の挨拶状をしたためたりといったある種の定例的な至極事務的な事をこなしていかなければならなかったりする。特に近年はそういったものも合理化されてしまっているので何ともありがた味に欠けるものと成り果ててしまっているのかもしれないけれども、中々どうして、だからこそありがた味が増すとも考えることができる。こんなもの受けての気分次第なのであろう。
そう思いつつも筆をとり、決して達筆とは言い難い味のある文字をつらつらと時間をかけずに書き上げてしまう。受け手が気分次第なのであればこちらも気分次第でいいであろうといった具合だ。
来年の話をすると鬼が笑うという言葉があるので大いに笑ってもらって結構なのではあるが、はて、来年の干支は何であったかと考える。そんなものインターネットを介さずともテレビのコマーシャルで確認できそうなものであったが、ゴロゴロと雷のような音を立てゴロリゴロリという形容がピッタリと合いそうな世にも珍しい喋る猫を見ながら考える。
「何故、干支には猫が入っていなかったのだったか?」
「馬鹿をいうな。しっかりと入っておるではないか」
「お前、まさかとは思うが『寅がネコ科』だからなんてくだらない話をするつもりじゃないだろうな?」
「……鼠が時間を誤魔化したのだから仕方があるまい」
古くからある民話である。干支に猫が入っていない理由。神から「元旦の朝に私の前に来るように」と言われた干支候補の動物達。それを聞き逃した猫は鼠に尋ねる。「さっきの話もう一度教えてくれないか?」鼠は猫に答える「元旦の次の日の朝、神様の下に来るように」と。まんまと騙された猫は神から酷く叱られ、以来、鼠を憎むようになった。というものだ。
「くだらない。まぁでも猫が誤魔化すために『猫を被る』様は猫が猫たり得るからなのだろうね」
「それこそくだらぬ。はようお主の用事に集中すりゃあいい」
「言われなくてもそうするさ」
―2―
猫の話ではないが、正月というイベントは現代社会において数少ない日本古式の文化であると常々思う。『数少ない』というのは違うか。『増えすぎた』という表現の方がしっくりくる気がする。そう増えすぎた。良く言えば多様化の結果。酷く利己的な言い回しを用いれば海外から輸入してきたイベントとでも言ってしまおうか。日本人には縁も所縁もないような内容があるようでないようなそんな祭り染みた遊び。それが何を意味しているのか半ばよくわかっていないが祭りであるなら騒いだもの勝ちといったところであろうか。
月は遡るがハロウイン。しかし日本にも古くから新嘗祭(勤労感謝の日)が存在している。ともに収穫祭である。最早、何でもいいのであろう。それも時代の移り変わりといってしまえばそれまでなのかもしれないが、少なくともアメリカで日本の勤労感謝の日を祝うことはないだろう。なんとも情けないというか。なんというかいたたまれない。
「今時の若い者は……」
なんて独り言を若者が口にしようとしていることと、その言葉は平安時代から使われていたことを顧みるとなんとも滑稽であった。日本は昔からこういう国で、これからも変わるものと変わらないものに翻弄されていくのであろうと思えてならない。
さて、烏である。日本の文化的にも深いところで繋がりのある烏は烏としてではなく天狗として姿を現していたという話である。烏天狗とでも言えば誰しも名前は聞いたことがあるかもしれないが、山伏の姿をした烏の顔をした人大の『あやかし者』霊山で修験者として入山していた者が修験の末に力尽き、その遺体に群がった烏に己の念を乗せた人と烏の両方の特徴を持つ伝統的な『あやかし者』である。
―3―
日本にわざわざ渡ってくるまでもなく烏は日本に居た。同様に烏は世界中に居る。ワタリガラスであるが、フギンとムニンという名の二羽の烏は北欧神話における主神オーディンの眼となり世界を視たと言われている。この場合、この烏はその姿を変えてはいない。烏のままである。中国の神話の中でも太陽の神からの遣いとされていたりする。それは黒々しいまでに黒い烏の身体が太陽の黒点から飛び出してきたものだと言われてきた為だという話だ。
烏は国々によって扱いは違えども陽の者として扱われている。もっとも、烏天狗もインド神話や中国神話の影響を受けている姿になっていたりはするので、その辺りは日本の多様化、外からの文化を受け入れる柔軟性は天晴れともいえよう。
なんにしても存在するかしないかと問われれば『見たことはない』と答える。いないとは思わない。日本は八百万の神々を有する国だ。たかだか一匹の『あやかし者』がいるかどうかなんて小さな話であろう。朝方の繁華街に無数に無限の如く沸いては飛び立ちビルの間を行ったり来たりするゴミを漁る烏を見て神聖視することができるかと聞かれると回答に口を噤んでしまうのは致し方ないことではあろう。太陽の遣いと見る一方で蔑むように見てしまうのも烏の烏たる所以なのかもしれない。
―4―
行き交う人々が何を考えているのかわからない。というのと烏に対する思いは変わらない。人と烏を同一視しているなんて訳のわからない話ではない。生物として見て、それが人であろうが狗であろうが猫であろうが狼であろうが羽虫であろうが、蛇であろうが蛙であろうが蛞蝓であろうが同じ話である。故に烏も思う所があるのだと思う。
ゴミを漁って汚い。というのは人の勝手だ。嫌うのも好むのも人それぞれの都合だ。烏の言い分からすれば餌があるから探るのであって人に迷惑をかけているなんてことは毛の先程も思ってはいないであろう。遥か昔、あるは古代日本なんて呼び方をされるのかもしれないが、そこまで遡れば烏は神にも近い扱いを受けていた。人と交じり『あやかし者』として存在していた。だが、今も昔も烏は烏。戦場だろうが、疫病であろうが死体があれば集って嘴をもって突いていたであろうし、それを見た人々はあるいは恐れを抱いていたのかもしれない。
そう考えていた人も人であるし、今の人も勿論、十分に人である。視点が違う、立場が違う、入ってくるものは多いが出ていくものは限られている日本という不思議な国には日々驚かされるばかりである。
別に偉そうに『日本人とは何ぞや』なんて語るつもりもないし語りたくもないのではあるが、少なくとも、元日、元旦、大晦日に正月、初詣、といった昔からあって、当然に今年も来年もやってくる日本古来の催しが当たり前のように当たり前に認識される文化であってもらいたいという心の底からの願いに思いをはせつつ、年賀はがきを一枚一枚適当な具合に仕上げていくことにしようと思う。
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