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稲荷

―1―

「他人に見えないものが視えるってどういう気持ち?」


 子供の好奇心というものは恐ろしい程に純粋で無垢だ。多少のオブラートを包んで結局質問できないような事柄でも何の悪気もなく核心をついてくることがある。それが悪い事なのかどうなのかと言われれば良い事でもなければそうでもないのだけれども、知りたいと思う気持ち自体は尊重してあげるのが大人のできる最善なのだと私は思う。


「そんなにいいものではないよ。こちらが視えていることが分かると近づいてくるあやかし者も少なからずいるしね」


 それも悪気があるものであるとは思ってはいない。想いをもって存在しているのにも関わらずその願いを聞き入れることのできない不完全な世界という名のこの世において、彼らの方こそ救いを求めているのではないかと思うことはある。目的も何もかもを忘れてしまって手段だけが取り残されるあやかし者は稀に悪戯を働くことがあるのも事実ではあるが、人が長い年月を記録したものを調べてみればそれもことわりがあっての行いであることが改めてわかる。

 彼らは何も人間を採って喰おうとしているのではない。そうしたいかしたくないか、そんなレベルでの話ではなく、そうする他にないのであるから。彼らはそうやることでしか存在し得ない哀しい生き物の成れの果てなのであるから。


―2―

 早朝、とはいえない午前十時頃、遅めの早朝散歩になってしまったのは冬のもたらす悲しいまでの寒さ故の布団への愛着のなせる業なのであろうと思う。つい、魔が差して二度寝。三度寝。気づけば既に午前九時。猫は唸り声を上げながら餌を求めてはいたものの、その身体は布団の呪縛に屈しており、布団から顔すら出さない。眠いというよりは寒い。そう感じる十二月。


 起き抜けにテレビのリモコンをいじると『今季最大の寒波がやってきた』とのことであった。これは、これらの一連の流れは誰のせいでもない。強いて言ってしまえば自然そのものに責任があると誰に言う訳でもなく言い訳をアレコレと頭の中にシェイクさせ、顔を洗うのであった。


 そして、外出に至る。


 睡眠時間が中途半端に長かったことがわざわいしたのか、陽の下においても頭はフラフラと半分眠りについているような状態であった。なんともいえない多幸感と言い換えてしまえばある種の薬物中毒者のようであるが、それにも似た感覚を味合わせてくれたのは間違いなく今季最大の寒波の中にあってポカポカとした陽射しのせいであろう。私は近場のベンチまで歩みを進めると、誰に断るわけでもなく「おやすみ」と一言洩らして四度目とも五度目とも思える眠りについた。


 気が付けば午前十一時。晴れ間は鈍重な雲に遮られ吹く風に思わず身震いをして目を覚ました。そのタイミングで出くわしたのが小学校に上がる前の小さな子供達。どこぞの幼稚園か保育園かの児童であろう。少年の随分後ろの方に保母さんと思わしき私と同年代くらいの女性が何人もの子供に囲まれながら歩みを進めていた。


「おじさん。おいなりさんって知ってる?」


「おじ……おいなりさん? どうしたの、パパとママに教えてもらったのかい?」


「うん。そんな感じ」


 何だなんだとばかりに二、三人の子供が近寄っては来たが、話し掛けてきた少年は続ける。


「パパとママはキツネさんを「おいなりさん」って言っていたけれど、僕にはキツネなんてみえなかったんだ」

 

「そっか、じゃあ君には何が視えたんだい?」


「えっとねえ、何にも」


―3―

 稲荷信仰。


 稲荷といえば狐。と連想してしまうのは普通なのかもしれないが、稲荷は五穀豊穣の神を祀っているだけで狐はそこで使役されているだけにすぎない。元々は蛇神信仰に由来するものではあったものの、実った稲を食い荒らす鼠を駆除してくれる狐の存在が時を経て稲荷を守る存在として認識されていったものと考えると分かりやすい。

 狐憑きの狐と稲荷神社の稲荷を混同してしまうことがあるが、これらは全く別の物であることを注記しておきたい。

 無論、この年端もいかない少年がそんなことを前提として話をしている訳ではない。それに私がそういった類いのものと対話ができるような変な人間であるなどといったことは私の口から告げた訳でもない。おおよそ、私の周りに何か変なものが視えたので気になって声を掛けただけのことであろう。


「何も視えなかったのか。そりゃ残念だったな。どこかに出かけていたんだろう。きっと」


「神様もお出かけするの?」


「そりゃあするさ。お出かけしないとパパやママのお願いを叶えてあげることができないからね。それにお出かけしない生き物なんて人間くらいなものなんだよ」


「なんでおでかけしない人がいるの?」


「そうだな。例えば風邪ひいたりすると、ずっと寝てなきゃいけないって言われるだろ? それと同じさ。病気になっちゃったのさ。家からお出かけしない人は」


「ふーん、そっか。僕の兄ちゃんもずっとお出かけしていないからきっと病気なんだね」


 なんとも不味いことを言ってしまったと思った。藪をつついたら蛇どころかキングコブラが出てきてしまったような。思わず固まってしまったが「ほら、先生が呼んでいるよ、お戻り」と若干白目を剥きながら声をカラカラにしながら伝えるとなんとか帰ってくれた。


―4― 

 少年の話ではないが、どうにも世の中に嫌気がさしてしまって部屋から出られない。もう取り返しがつかない。そんな風に気持ちが落ちてしまった時にはそういったものに全てを押し付けてしまうように祈りを捧げてみるといい。信心深くなって宗教にハマることを薦める訳では勿論ないが、神社の鳥居を潜ると少しだけ清々しい気持ちにさせてくれる。それは何も神聖めいた話ではなく、自身の周りを取り巻く物理的な環境、例えばコンクリートの壁であるとか、屋根であるとか、そういった圧迫感から一時的にでも解放してくれるのに一役担ってくれることであろう。


 稲荷の話ではないが、本来の目的と手段とは長い歴史の中でその認識が変わっていく。移ろいやすいのは季節も人の心も同じである。極端な話、学問の神様を祀っている神社に安産祈願しても構わない。安産の神様を祀っている神社に仕事での成功を祈願しても問題はない。効果があるかどうかは祈った本人だけが知り得ることである。宝くじに当たりたいからとその名を冠した神社に参拝する人間が多ければ多いほど宝くじの当選者は多くなって当然である。というのと何ら変わりはない。要は何を想い。どれだけの願いをもって祈るか。それだけのことである。白い狐も白い蛇も神の遣いと言われているが、じゃあ普通の狐と蛇が神の遣いかと問われればNOとは言えない。それがそうであると認識するのはあくまで自分の本人の意思に他ならないのであるから。


 そんな取り留めもないことを頭に思い浮かべながら、考えた一切合切をその場に居合わせていたであろう『おキツネ様』に押し付け、サッパリと洗い流すことでモヤモヤといた頭を切り替えることにしよう。


 あんなにも重々しかった黒く厚い雲の隙間から射し込む陽射しが公園の木々の隙間から落ちているのが視えたので、陽射しの射し込むところを目で追いながら家路へとつくのであった。


読了ありがとうございました。

今後も不定期ですが更新をしていきたいと思いますのでよろしければブックマークや評価、感想などお聞かせいただけますと幸いです。

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