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鳥居

-1-

 散策が好きだ。

 という人は多いと思う。言葉の種類は違えどもそれと似たようなことを旅先であったり、あるいは近所であったりと楽しむ人はいる。小学生くらいの子供であれば友達と未開の地を探索するような気持ちで遠出をしてみたり、自転車に乗れるようになるとさらに行動範囲を拡げてみたり。ようはその延長線上である。手段がバイクになることもあれば一足飛びで自動車になるということも多いであろう。それらに頼らず電車や新幹線、はたまた飛行機で、フェリーで、客船でといった具合に散策の手段は両手では数えられないほどに存在する。その中の一つに徒歩があると私は考えている。徒歩は徒歩で散歩のことではあるが。


 手段の手前に行き先というものがあったりするのであるが、今日のところは徒歩に焦点を当てていきたい。理由は特にない。しいて挙げれば私がそうであるから。ということにしておきたいと思う。とはいっても大体は行き先を決めずに足の向くままに、というのが私の楽しみ方であり、行く先々で目に映る景色や風景とまではいかないものの、そういった所謂、体験することに価値を感じる類いの人種なのである。そしてそれは何も自然を対象としたものに限らない。人工物の無機的で規則正しい建造物の落とす影なんかも見る度に形を変えて楽しませてくれたりする。もう一度いっておくが、私がこういう人間である。というだけではあるが。


 雑居ビルであってもそれはその対象となる。雑居ビルと一言にいっても廃ビルのようなものから出来立てホヤホヤの湯気が立ち上がりそうな新築のビルまで種々様々あるが、新しいビルは大体が一階の入口辺りで締め出しを喰らってしまうため楽しみようがない。防犯上は正しいのであるのだろうが、そんなビルを遠目にみて、非常階段でタバコをふかして崖下を眺める姿など優越感を感じているのではないかと無性に腹立たしくなることがあるが、それは単に腹の虫の居所が悪いだけのことであろう。


―2―

 さて、雑居ビル。ともすれば人気はなく無人の店舗を構えるだけのビルも中にはあったりする。その手のビルは概ね暗い。まぁ人間が常駐していないのであるからそれはそれで合理的なのであろう、暗いということはそれだけ陰の気が強いという風に言い換えてもいいのかもしれない。エレベーターを使って散策するなどという風情もへったくれもないようなことは行わない。階段を行く。

 まぁ往々にして階段には陽が入るように窓が設置されているので、そこに人が居なくても陽は射し込むのであるが、これがなかなか気持ち悪い。ビルの外には行き交う人々がいるのにも関わらず、その空間だけは誰にも侵されず、不気味に陰陽を織りなす。特段その場にあやかし者がいるということは無いのであるが、まぁ実に逢魔が時にも似た空間である。あやかし者がいないというのは、単に見る人がいないということであるから私が足を運べばいることは居る。人がいないから居ないということではなく、どこにでもいるし、どこにでもいない。ということだ。


 そんな取り留めもない事を想いながら影が無暗に伸び縮みする光景など実に面白い。っ開かれていない窓は音を遮断し、建物が時折鳴らす破裂音や舞う埃が陽に照らされている光景などは諸行無常と言い表そうか、人工的な物が起こす自然へのアンチテーゼともいうべき普段は受けられない精神的な刺激を与えてくれる。


そこまでいくと最早変態と揶揄されるのかもしれないが……


 身近なビルでも路でも構わないが、最近は見ることも少なくなってしまったかもしれないものがこういった雑居ビルでは見ることができたりすることもある。『鳥居』である。


―3―

 小さな鳥居を模した朱色の置物であったり、中には白地の紙に鳥居をプリントアウトしただけの代物を建物の端っこに貼っていたり、もしくはじかにマジックやチョークなどで書いていたりと、ひっそりと佇んでいるのが鳥居。無人のビルや路地裏にひっそりと設置されていると思わずギョッとしてしまうことも少なくはないが、都会のビルでは屋上に稲荷を祀っていることもあるのであながち廃れた文化ではないのかもしれない。


 少しインターネットで調べてみると『日本人は鳥居を神聖なものと捉えるため、立ち小便や不法投棄などを防止するために置かれることがある』ともされているが、鳥居の本来の役割から考えると実のところあまり推奨されないやり方なのではないかと個人的には想う。鳥居を潜った先は霊道だ。神社などであれば鳥居を潜ったあとの参道は端を歩かなければならない。それは鳥居から先は神の通る道であるから。だそうだ。やしろがある訳では無い様な雑居ビルや路地裏のそれはどちらの目的で設置されているのかは出会っただけではわからない。ただ、どちらにも共通していえることは霊道を作り出しているということ。


 あやかし者は人のいるところを好む。という訳ではないことは前述の通りだ。ここにもいるし、どこにでもいる。だがこの世のどこにもいない。禅問答のような言葉遊びではあるが、それが真実であり事実だ。霊の通り道があって霊が存在しない道理がない。神社も同じであろう。雑居ビルと神社を同一視するのは少しナンセンスであるが、鳥居があればそこから先はこの世ではない。常世にあってこの世ではない。


 ところで、先ほどから神と霊とを混同しているような表現を用いているが、私の中ではそれらは同じものと考えている。あるいは神道、あるいは仏教、道はなんでもよい。仏を想えば仏であるし、天使を想えば天使だ。悪魔だと想えば悪魔であるし、神だと想えば神だ。ただそれだけのことである。


 なにも私は求道者を名乗るつもりもなければその立場にある訳でもない。


―4―

 実につまらない話であると思う。私にとっては面白い話ではあるが、興味のない人間にとっては面白くもなんともない話であると思う。それは否定しない。雑居ビルや路地に鳥居があろうがなかろうが、生活に影響がないのであればそれはそれでいいとは思う。


 じゃあ何が言いたいのか。という話になるが、長々と書き連ねているものの伝えたいことはただ一つ。鳥居というものは存外馬鹿にはできない。ということである。

 誰も馬鹿にはしていないのかもしれないが、ないがしろにはされていると思う。繰り返しにはなるが、日本人は、という前提にはなるが鳥居を神聖視している節があるという話だ。神聖視している癖に立ち小便のような汚いものの防止に使っている。罰当たりなのは立ち小便をする輩か、あるいは鳥居を設置した者か。それとも同等か。ということだ。


 私は鳥居を見かけると、それが割り箸であってもプリントアウトされたただの朱色の棒線の集合体であっても手を合わせることを続けている。例えその場に何かがいようがいまいが、神聖視しているのであればそれが神聖視している者の礼儀であろう。そう思うからだ。


 怒られるかもしれないが、十字架を扱う宗教であれば、立ち小便をするなと十字架をそこら中に置いているようなものだ。それはそれで墓場か? と聞き返したくなるような光景ではあるか。


 案外そういった例えの方がわかりやすく説明できるのではないかと後から考えてしまったが、まぁ、そういうことである。  


 朝方、猫からマタタビを要求された。「すぐに買ってこないと鳴く」というアパート退去の危機に瀕するようなエゲつない物言いをされたので仕方なく買い出しに来たのであるが、私の小さな反撃としてこんな何もない雑居ビル巡りを行い始めたのであるが、だいぶ癒された。腹の虫も怒りを忘れてくれたようであるのでそろそろ帰宅することにしよう。


 まったく、犬神の奴はいつまで化け猫を私に預けているのだろうか、近いうちに文句の一つも言ってやらねばならないな。


読了ありがとうございました。

今後も更新をしていきたいと思いますのでよろしければブックマークや評価いただけますと嬉しい限りでございます。感想もください。

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